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二人の「夏の果て」の物語

 優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと思っている。
 コラムニストの小田嶋隆さんは、視点を左や下に少しずらし、人間社会の現象を分析する。
 多くの本を出している小田嶋さんであるが、二十代の後半の頃は半失業者のような苦しい生活だったという。そんな状況だったにも関わらずポジティブでいられたのは、高校・大学の同期生であり親友の岡康道さん(クリエイティブ・ディレクター)が、自分の事を評価してくれてたからだと語っている。

「夏の果て」 小田嶋隆

夏の雲が立ち上がるのを見上げていたぼくたちは、十六歳だった。
いいや、そんなのはウソだ。わかっている。
ぼくは十六歳ではなかった。
あらためて、記録に沿って数え直してみれば、おそらく、ぼくは十五歳だった。
それも、いまとなってはあやしい。
なぜなら、あの時、あの場所にいたかもしれない人間たちは、ひとり残らず、この世の者ではないからだ。

ぼくたちがよく知っていた夏に、ビーチ・ボーイズは鳴っていなかった。
当然の話だ。よくわかっている。
その代わりに、ぼくの目にうつっていたのは、灰色かかった砂と、その砂を濡らす不潔な出所不明の水流だった。
そこからやってくるのか、そのかぼそい流れは、砂浜を隠れるように逃げてまわり、最終的に波打ち際まで届いていた。彼方には、赤く錆びた色の缶と、そのまた向こう側に消えていく蟹の小さなハサミが揺れ動いていた。
どこからどう眺めても、美しい景色ではない。
それでも、日差しが一番激しい音を立てる時刻がやってくると、夏は比類のない季節である実感を残していった。

夏は、かたちどおりにやってくるものではない。
それは、いつだったか誰かが耳打ちしたとおり、本当のことだ。
でも、春夏秋冬と、四通りあるはずの道すじのうちで、夏に至る道程だけが、必ず、はるかに遠い高みで、特権的にわれわれを待ち構えていた。
どうして夏だけが、いつもあんなふうに、ウソそれ自体のまばゆさに満ちあふれながら、けっして手の届かない場所で輝いていることができるのだろう。
春・夏・秋………と、折り重なる季節の中で、夏だけが、どうしても手の届かないはるか彼方で輝いているその理由を。
もちろん、こんな話はウソだ。しかも間違っている。
夏だけが特別なわけではない。
すべての一日は等価で、しかも無意味だ。
これがぼくのたどりついた結論で、それを証明することがぼくの生活だった。
白色レグホンの無精卵みたいに等価で無意味な一日。そしてまた、おなじ一日。それらを無造作に積み上げて、積み上げたままに突き崩すのが、すなわちぼくの日々であり、義務でもあった。
でも、それにしても、どうしてあの夏の日々は、ありもしなかったことがはっきりとかわってしまったあとになっても、あんなに美しく輝いて見えたのだろうか。
同じように並べられ、繰り返される日々の退屈さと、それらの日々が本当に価値あるはずの時間をむしばんでゆく感覚に、ぼくたちは苦しめられていた。
それが若さだということに気づいた時、ぼくは、自分がもうなにも手に入れられないことをしみじみと知った。
ところが、なにも手に入れることができず、ひとつとして持ちきたえられていないのに、それでもにかを失うことだけはできた。
そして、それこそが、夏雲の向こう側にわれわれが仮定していたものの正体だった。
二度とかえってこないというそのことだけが、日々を特別な瞬間に変える魔法だったことを知った時、ぼくの時計は過ぎ去った時刻を指していた。そして、なんということだろう。きみの時計はゆっくりと動きを止めようとしていた。
「くだらない趣味だけどさ」
と、言い訳をしながら、見せてくれた雨水色の腕時計のことを、ときどき思い出す。
「こういう時計は、いったいどこの時間を指しているものなんだ?」
と、水を向けると
「ずっとむかしの、おまえが知らない時間だよ」
と言って笑った。
その時間に向かってぼくも歩きはじめている。また会おう。
はるかな、夏の果てに、待っているかもしれない、あの時間の中で。
(二〇二一年八月六日)

 この詩は、小田嶋さんが岡さんに贈った鎮魂詩だ。
 岡康道さんが二〇一三年に発表した自伝的小説『夏の果て』を、後年に小田嶋さんが読んで呼応するかたちで発表したものだ。
 岡さんの小説『夏の果て』に登場する「若松」が小田嶋さんの事である。
〈若松は、コンピューター関連のカタログや入門書や翻訳を膨大にこなしていた。その合間に、鋭いエッセイを書いた。これが面白い。同世代の書き手の中でも、僕は依怙贔屓を差し引いても若松が断然トップだと思った。しかし、書き続ける日々は、若松に次第にダメージを負わせた。あるいは、若松は本当に書きたいものを書いてはいなかったかもしれない。九〇年代に入るとアルコールに依存するようになった。生活が荒れ始め、雑誌で資本主義そのものを鋭く批判する。九一年のソ連邦崩壊によって共産主義の非現実性が露になり、バブルがはじけた日本では、これから先何を目指せばいいのか、みんなわからなくなっていった。若松の資本主義批判も次第に説得性を失っていった。若松は僕の作ったCM制作者の名前入りでこき下ろし、広告すべてを軽蔑する文章を発表した。弟の温は、それを偶然見つけた。「アタマに来るかもしれないけど、若松さんが言ってることは、今まで彼が批判していた視点から見れば当然のことだ。兄貴は怒ったらだめだよ」と僕を諭すように言った。しかし、僕は人からその掲載雑誌を見せられ、激怒し、若松と縁を切った。〉(『夏の果て』岡康道 小学館 P315より)
 二人が絶交していた期間は一〇年くらいだったと言う。僕はこの時代の小田嶋さんの本を読んだことが無く、思想・信条はわからない。執筆の勉強のためパクるように読み始めたのは、二人の共書を含め今から一〇年くらい前からという事になる。
 近年の日本社会は歴史修正主義者によって歴史が改竄されている。権力を私物化した為政者に対し忖度、迎合するヨイショ本ばかりが巷に溢れている。誰もが物事の本質を重層的に考えようとしない反知性主義者も多い。小田嶋さんは「政治や社会を鋭く批評したコラムニス」と言われているが、当たり前の事を言っているにすぎない。優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと書いたが、小田嶋さんが亡き後に改めて書物を読み直してみると、小田嶋さんが遺したコラムは現代歴史学のテキストだとも言えるかもしれない。
 岡さんは二〇二〇年に亡くなり、小田嶋さんは後を追うかのように二〇二二年に亡くなった。二人は僕より少し上の世代にあたる。まだまだ若い。当たり前の事が当たり前でない社会の中で、真っ当な表現者が亡くなってしまった事は残念である。

鳳仙花と桜(봉선화와 벚꽃)

鳳仙花を見ながら  (봉선화를 보면서)
桜を見ながら  (벚꽃을 보면서)
語り合おう  (이야기를 주고 받자)

鳳仙花を見るように  (봉선화를 보도록)
桜を見るように  (벚꽃을 볼 수 보도록)
お互いを慈しもう  (서로를 사랑하자)

花が人を呼び  (꽃이 사람을 불러)
人々が笑顔を呼び  (사람들이 미소를 불러)
笑顔が平和を詠う  (미소가 평화를 노래하네)

「あの素晴しい愛をもう一度」
作詞:北山修  作曲:加藤和彦

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

「그 멋진 사랑을 다시 한번」
작사:야마 오사무  작곡:가토 가즈 히코

목숨을 걸겠다고 맹세한 날부터
멋진 추억 남겨 왔는데
그때 같은 꽃을 보며
아름답다고 말하던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

고추잠자리 노래를 불르던 하늘은
아무것도 변하지 않았지만
그때 계속 저녁노을 쫓아갔던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

넓은 황야에 외로이 있으니
나도 모르게 눈물이 흘러내렸죠
그때 바람이 불어쳐도
변하지 않겠다던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

https://www.youtube.com/watch?v=emUUAu0q6zw

( 2019年9月4日)

冷たい雨とネコ

二匹の野良ネコの出会いは、冷たい雨がやんだ高円寺の遊歩道だった。
一カ月前から一匹が消えた。
「おいで おいで」
「ミャ~ ミャ~」
今は、五十センチメートルが許してくれる距離らしい。
野良ネコが野良ネコのプライドを生きるのに、五十センチメートルがいい距離なのかもしれない。

吉原幸子に「猫」というの詩がある。

「猫」 吉原幸子
〈ゐない〉

ネコが死んで 半としもたってから
セーターをつくろった
 
幼いあの子が 背中をかけのぼり
船長のオウムのやうに肩にとまって
やはらかな爪をたててから
ずっとそのまま着てゐたのに
今になって
今になって——?

でも きっと
半としたったから やっとわかったのだ
もう セーターは
ほつれないのだ と

あの子をひいたくるま
亡がらのないお墓
(抜け毛と手紙を埋めただけの)

ほつれた糸を
一針一針 裏側へ押しこんで むすぶ
弔ってゐるやうでもあり
終らせてゐるやうでもある

あの子は もう ひっかかない
いちど 死んだから
もう二度と
死なない

〈ゐる〉

死んだネコについて書いたものを
ベッドで よみかへしてゐると

ドアが小さく開いて
誰か入ってきた
足音はきこえなかったから
風か

ふしぎなことに
メモが一枚 どうしても見当らない
サイドテーブルのうしろ
椅子の足もと
をかしいわね 今しがたまであったのに

思ひついて
ベッドの下に手をさしこむ
すると あ!
わたしの指は
柔い 毛ぶかいものに
たしかに さはったのだ

のぞきこむのはよさう
そこにゐるのは あの子にきまってゐる
でものぞいたら きっと
スリッパのふりをするだろうから

青びかりの瞳で 詩をよみ終へ
わたしのしほからい指をなめ終へたら

たましひよ
今夜はその暗がりで
おやすみ

子ども頃、十年くらいネコを飼っていた。
冷たい雨の日はネコの温かさを想いだす。
明日も冷たい雨だ。

(2018年12月26日)

愛しあってるかい!

ニール・キャサディが運転する “ファーザー・マジック・トリップ・バス” がジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、オーティス・レディング、ジェリー ・ルービン、リチャード・ブローティガンたちを乗せて今でも走っている。腹が減ったらオーガスタス・スタンレーが作ったアシッドを入れたサンドイッチとエレクトリック・クール・エイドをディガーズのエメット・グローガンがタダで配ってくれる。誰もが自由で哀しいほど優しい若者たちの “旅” だ。
カーラジオがエリック・バードンの「モンタレー」を唄っている。

ある者は聴きに、ある者は唄いに、またある者は花をあげにやって来た
若い神々は観客にほほえみかけ、生まれたての愛の音楽をかなで
子どもたとは昼となく夜となく踊り続けていたよ、モンタレーで

バーズがエアプレインが空を飛び、ああ、ラヴィ・シャンカールが僕を泣かせた
ザ・フーは炎と光炸裂させ、デッドは人々の度肝をぬき
ジミ・ヘンドリックスは世界を火にくべ、燃え上がらせたんだ

観客の間を笑顔浮かべながら、プリンス・ジョーンズは動き回っていた
一万ものギターがにぎやかに高らかに、それはぎきげんに鳴っていたよ
人生の真実を知りたいのなら、いいかい、音楽を聞きのがしてはいけない

3日間みんなで一緒になって動き、体揺らしながらわかりあったのさ
おまわりたちまでが、ぼくらと一緒になって楽しんでいたなんて信じられるかい
モンタレーで、モンタレーで、あの南の町、モンタレーで
(エリック・バードン 「モンタレー」)

60年代の若者たちが共有していたのは、“高度に発達した産業社会の統制と社会組織の改造をゆだねるテクノクラシーへの徹底した嫌悪感” だ。政府や大企業の権力者たちが、武装した警察や軍隊が暴力を使って民衆を押さえこむことに、若い反逆者たちは、この頃いっせいに立ち上がり異議を申し立てたのだ。
“ラブ&ピース” の時代は同時にアンチ・オーソリティ、反権力の戦いへとつながる時代でもあったのだ。自分たちが生活する場所をもっと自由な場所にしなくてはならないと、世界中の多くの若者を社会変革、制度改革にめざめさせた。その大きな引き金となったのは、ベトナム戦争だった。世界の警察官を自任したアメリカ合衆国がアジアの片隅の小国で50万人という兵力を投入して理不尽な殺戮を続けていることに誰が無関心でいられただろうか。
60年代は、“若者文化” が世界が初めて産声を上げた時代。わけのわからない戦争に加担する国や政府、古くさい道徳、価値観を押しつける社会や学校にベロを出し、自分たちの自由と楽しみとアイデンティティを求めて、それぞれの “旅” をしていた若者たちだった。

わたしは神の子と出会ったの
彼は道ばたを歩いてた
わたしが どこへ行くの? と訊くと
彼はこう答えた
ヤスガーの農場に行くんだ
ロックンロール・バンドを観に行くんだ
向こうでキャンプをするんだよ
自分の魂を自由にしてみようと思うんだ

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

だったら 一緒に行ってもいい?
都会はもうたくさんなの
自分が歯車みたいな気がして
毎年そういう時期があるのかもね
それとも もしかして人類がそういう時期なのかも
あたしは自分自身を見失ってる
でも生きているって学ぶことだものね

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

ウッドストックに着くころには
私たちは50万人の大群になっていた
いたるところに歌があり 祝典があった
そこでわたしは爆撃機の夢をみたの
ショットガンにまたがった人が空を飛んでるのよ
そしてそれは蝶々になった
わたしたちのこの国の上空で

わたしたちは星屑
何億年という年月を経た炭素
わたしたちは黄金
悪魔との取り引きにしばられた
だからあの農場に戻って
自分自身を取り戻さなくては
(「ウッドストック」 ジョニ・ミッチェル)

1969年の熱い夏、ニューヨークの郊外で行われたウッドストックは、あまりにも多くの若者たちが集まって急遽フリーコンサートとなり、MCのジョン・モリスが主催者たちの決定を伝えると、歓声とおどろきの声が丘を包んだという。
「ただし、フリーというのは好き勝ってにしていいということじゃないんだ」モリスは続けて語った。「このイベントを企画した人々は莫大な赤字を負うんだ。それでも彼らはお金よりもきみたちが最高の状態で音楽を楽しんでもらうことがずっと重要だと考えている。だから忘れないでほしい。今夜、森の中やいまいる場所で眠りにつく時、きみたちの隣にいる人間がきみの兄妹ってことを。そうやってお互いがいたわりの気持ちで接してくれなければ、この催しの意図はオジャンだ。これから先、この祭りの成功はきみたち、ひとひとりが担うんだ」
このお祭り50万人もの若者たちが集まったが、争いがひとつもなかった。若者たちは最高の笑顔を最良の態度で、心をひとつにして愛のパワーの大切さ、おたがいを思いやるという素晴らしさを、自分たちの望む社会の姿を世界に示して見せたのだ。
主宰者のマイケル・ラングは、コンサート終了後に機材をすべて欲しい人にくれてやったという。“みんなですべてを分けあう” これがヒッピーの哲学なのである。

私は有り金もなくなってベイトン・ルージュで当てもなく列車を待ってた
心はまるで擦り切れたジーンズのよう
そんなときボビーが大雨が来る前に、ディーゼルトラックをヒッチハイクした
トラックは私たちを乗せて、ニュー・オーリンズへ向かって走り始めた

私は汚れた赤いバンダナから、ブルースハープを引っ張り出して
ボビーが歌うブルースのかたわらでやさしく吹いてたわ
フロントガラスを行き来するワイパーのリズムに合わせて
私はボビーの手を自分の手の中にしっかり握って
それで、運転手の知ってる歌をかたっぱしから歌ったの

自由っていうのは、失うものが何もないってことよね
けど自由じゃなかったら、そもそもなんにも、なんにも始まらないじゃない
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ケンタッキーの炭鉱から、カリフォルニアの太陽へ
ボビーは私の心の秘密を分かち合ってくれた
いろんな天気の中を走りぬけ、たくさんいろんな事をしてすごした
そう、ボビーが私を外の冷たい世界から守ってくれていたのよ

そしてサリナスの近くまで来た日、私は彼が去って行くままにした
彼は故郷を求めていたし、私もそれが見つかればいいと思ったの
でも、本当は、彼の体にぴったりくっついていられるんだったら
そんなたったひとつの昨日を手に入れられるなら
私の明日を全部売ってしまってもいいとまで思ったわ

自由って、失うものが何もないってことね
ボビーが私に残してくれたのは自由、でも自由だけで何もなくなっちゃった
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ねえ、私のボビー 私のボビー・マギー
ああ、 あの人は私の恋人、 私の男
あの人は私の恋人。 できるだけのことはしたんだけど
ねえ ボビー、 ねえ ボビー・マギー
(「ミー&ボビー・マギー」 ジャニス・ジョップリン)

1973年、学生運動が悲劇的なかたちで終演し “若者” は消滅した。“若者” だというだけで、何者であるか分かり合えるような、“ラブ&ピース”とか “長髪&エレキギター” というような共通感官が消え、音楽市場はギャングや大企業に乗っ取られ、自由も理想もあっという間に蝕まれていった。
リベラリズムの世界では、格差社会となり貧困が拡大し “自己責任” というスローガンによって、経済戦争に中に放り込まれ無意味な戦いをさせられている。人々はどんどん孤立し孤独になっていき、亀裂が生じ不安が蔓延した社会で、人々は拝外的や攻撃的になる。過酷な競争社会は、安定した社会基盤を失わせ、社会の流動化を加速さる。その結果、価値観を共有しうる相手だけと関係を紡ぎ、そこで世界を閉じることで、安定した拠り所を確保しようとする傾向を強めている。

私は生きたい、私はありたい
私は一人の美しい心を求める探求者でありたい。
それは私が決してあきらめないという意思表示で
私は金の心を探し続けてるんだ
そうして私は年をとって行く
私は探し続けている美しい心を
そして私は年をとって行く

私はハリウッドに行ったし、私はレッドウッドに行った
私は美しい心を求めて海を渡った
私は自身の気持ちのまま、それが良い道のりと
そうして私は美しい心を探し続けてるんだ
私は美しい心を探し続けるんだ
美しい心を探し続けてながら
そうして私は年をとって行く

私は探し続けている
美しい心をもとめて
君も探し続けている
美しい心をもとめて
そうして私は年をとって行く
私はひとりの探求者でありたい
美しい心を求める
(「ハート・オブ・ゴールド」 ニール・ヤング)

あの時代にもどることはできない。しかし、自分を変革して自由になることはできる。
あの時代のの運動家はエゴや野心につき動かされることがあったにしても、貧しい人々のことや、苦悩、不平等、不正義などについて真面目に考えていたものだった。人びとへの愛や、自分の人生を他人のために喜んで犠牲にしようという気持ちが強かったように、おたがいを思いやるという気持ちがあれば自由になれるのだ。そして、いつでも “ファーザー・マジック・トリップ・バス” に乗って、“旅” することができるのだ。
オーティス・レディングの声が聞こえる。
“愛しあっているかい?”

(2018年12月11日)

辻潤という意味とは何だ!

多くの者が辻潤という底なし沼にハマるという。
辻潤という意味とは何だ!
近代社会は金太郎飴のように、どこを切っても同じようなものだ。
政治は無策で腐敗し、企業は資本を独占し庶民との格差は広がる。
社会は閉塞し不安は広がり、誰もが救世主を待望する。
若者たちは煩悶し、弱者は切り捨てられる。
変革を求めた革命家は権力に圧殺される。
権力は暴力だ。ならば、革命も正義も権力なのか。
幸徳秋水、大杉栄、和田久太郎、金子文子が好きだ。
自由と平等、弱者の味方だからだ。
石川啄木、種田山頭火、尾崎放哉、金子光晴が好きだ。
自由と放浪、自ら死ななかったからだ。
中原中也、野村吉哉、陀田勘助、ドン・ザッキーが好きだ。
自由とダダ、時代を笑ったからだ。
辻潤という意味とは何だ!
貧しい社会を変えるのではなく、貧しい社会に変えられないために。
奥歯が潰れるまで絶望し、底を掘り進め。
そして、ホレーショを超えて行け。
自由を生きろ! 自分を生きろ! 絶対死ぬな!
辻潤という意味とは何だ!
さあ、辻潤という底なし沼の探検に出発だ!

 「タンカ」 辻潤
 雲を喰らい、霞を呑むんでいるとでも
 大方思っていやがるだろう
 ゴミのような雑誌に
 ロハで原稿を書かせやがって
 往復ハガキさえよこせば
 キット返事をよこすものだと
 思っていやがる ヒョットコメ!!

 おれは毎日水をガブガブと呑んで
 その辺の野原から雑草をひきぬいて
 ナマでムシャムシャ食っているのだが
 ——別段クタバリもしない
 一度や二度飯が食えないと
 もうふるえあがりやがって
 黄色いシナビタ声を張りあげやがって
 ナンダカンダと抜かしやがる
 スットコドッコイのトンチキ野郎の
 ヒョットコメ!!
 (以下一節略)

(2018年1月10日)

愛こそすべて 岡崎里美

7月30日は岡崎里美の命日だ。一日中、ビートルズを聴いていた。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

LOVE & PEACE の時代・・・・
ジミ・ヘンドリックスが死に、ジャニス・ジョップリンが死に、ジム・モリソンが死んだ。
ジャック・ケルアックが死に、ニール・キャサディが死に、アメリカン・ニューシネマの主人公など、若者たちのヒーローの多くが死んだ。
ドイツ・イタリア・日本では若い革命家が殺し合い、ベトナムの戦地では多くの若い兵士が死んだ。
こんな時代に17歳の岡崎里美も死んだ。ビートルズが解散した翌年の1971年の7月30日のことだった。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

といっても、この当時の自分は小学生でLOVE&PEACEもビートルズも学生運動も知らなかった。
1970年代後半が青春だった自分の時代は、すべてが「カネ」の時代に変わっていた。
夢中で聴いたロックもパッケージされたモノで何かが違った。
LOVE&PEACEの時代の光と影をすべてひっくるめてあこがれであり、
この時代のロックを聴くことや詩を読むことが、自分の居場所を探すことだった。
そんな中で、岡崎里美や高野悦子や奥浩平と出会い、彼らのひたむきな生き方を知った。
他人が窺い知れない胸の内に深い喪失感を抱え込んでいたからこそ純粋であり、
純粋であろうとすればするほど、ガラスのように壊れやすい。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

人は誰もが「私ではない私」に自分の人生を重ね合わせることがある。
そして「私ではない私」の人生の記憶や時間、感情、経験を、共に分かち合うのだ。
いつの時代も時代を表現する死があり、分かち合うことによって私たちは生かされている。

(2017年8月23日)

共に平和を生きる

「死」 (『原爆詩集』峠三吉 より)


泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩こめた塵煙じんえんの
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている
背中から突き倒した
熱風が
袖で肩で
火になって
煙のなかにつかむ
水槽のコンクリー角
水の中に
もう頭
水をかける衣服が
焦こげ散って
ない
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵かかとがとれ
せなかに貼はりついた鉛の溶鈑ようばん
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴ふきこむ
火と煙
の渦
〈ヒロちゃん ヒロちゃん〉
抑える乳が
あ 血綿けつめんの穴
倒れたまま
――おまえおまえおまえはどこ
腹這いいざる煙の中に
どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまずき仆たおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつ癇高かんだかいさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥むけた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿のうしょう
むしこめる煙、ぶっつかる火の風
はじける火の粉の闇で
金いろの子供の瞳
燃える体
灼やける咽喉のど
どっと崩折くずおれて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

峠三吉の『原爆詩集』を高く評価している詩人のアーサー・ビナードが「死」の解説をしている。

「!」

原爆さく裂の瞬間を「ピカ」と称したのは被爆者の実感だが、それでも、後から言語化した感はある。「!」は、言語化するいと間もなく、熱線と放射線に射抜かれた感じが伝わる。そして、生き延びようと逃げる体験に読者を巻きこみながら、文は切断される。

<あ
にげら
れる>

日本語の常識では決して改行しない箇所で、なぜ切ったのか。峠はここで、「日本語をヒバクさせた」のだと思う。放射線でDNAが切断されたように、言葉が切れちゃっている。ヒバクさせた言葉で、読者を実体験の近くまで導く。
詩はこう終わる。

どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

巻きこまれた読者一人一人は、ついに逃げ切れず、死に直面する。心地よい調べではないけれど、21世紀半ばからの核時代になくてはならない詩の表現であり、内部被曝をもたらす放射能汚染が途切れない21世紀まで見通した言語的実験だ。

アメリカ生まれのアーサー・ビナードが『原爆詩集』を評価した事の意味は大きいことだ。
アメリカでは原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という考え方が主流で、学校でもそう教えられるという。
心の奥底から戦争への憤りを覚えるのは、人類の歴史で発展しきてた「文化」である。
「異文化」を理解することは、「文化」の多様性を理解することであり、それを十分に理解できれば、「異文化」の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、共感することが容易になるはずだ。
「文化」は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあり、人間は欲動から自由になれないが「文化」を獲得することで、知性の力が強くなりそうした欲動がコントロールされるようになっていく。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになる。いわゆる「オタク的」になればいいのだ。秋葉原に観光に来るアニメ好き、ゲーム好き外国人は礼儀正しくて、優しそうな顔をしているのも「異文化」を理解しているからだ。
新の平和主義者とは、「文化」の発展を受け入れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことだ。

(参考:『ひとはなぜ戦争をするのか』)

(2017年8月22日)

河島英五を聴きながら(1)

風を探しに旧東海道を歩いた。iPodに詰め込んだ河島英五の唄を聴きながら・・・。
河島英五を1975年に「何かいいことないかな」でレコードデビュー以来ながいこと聴いている。
時流に流されず、群れをつくらず、本質を見失わず生きた河島英五が2001年4月に48歳で亡くなってからもう16年が経つ。

♪ そこの角を曲がったところから 旅が始まると
何気なく歩き始めて こんなに来てしまった
振り返るなんて いじけた話しだと
からかうのはよせよ ひなげしの花よ
立ち止まっているだけさ
空には風 大地を流れる河
生きてゆくかぎり 歩き続けるだけさ
(「生きる」より)

メアリー・フライの「Do not stand at my grave and weep」の詩を日本語に訳して話題になった新井満によると「ネイティブ・アメリカンの人々は、すごくあたりまえに、死んだら風になったり、星になったり、火や雨や雪や小川や山になったりすると言う、それは、なぜだろう。彼らが太古の昔から大地(地球)とつながって、そこから決してはなれないようにして生きてきたからだ。だから彼らは、大自然に対する畏敬の念を忘れないのだ。さらに、自分たちは今たまたま人間の姿をしているけれど、そのいのちとは、無数に共生しているいのちの中のワン・オブ・ゼアに過ぎないということもよくわかっている。だから、人間だからといっていばったりすることはない。生きものとしての分をわきまえて、ひたすらひかえめに生きるマナーを知っているのだ。」という。
河島英五の曲には風という歌詞が多い。「いのちの旅人たち」「うたたね」「仁醒」「青春旅情」「泣きぬれてひとり旅」「ほろ酔いで」「伝言」「風は旅人」「十二月の風に吹かれて」「風のわすれもの」「ポプラ」などだ。河島英五もネイティブ・アメリカンのように風になったに違いない・・・。

♪ 誰もがひとつずつ持っている
心の中に風車を
風が光るのを見ましたか
風が詩うのをききましたか
風が通り過ぎたのを見ましたか
風が話すのをききましたか
僕は風になろう 君の心の風車を
くるくる回す やさしい風になろう
(「君は風になれ」より)

「合理性」と「利便性」を追求する現代社会は、古いモノを取り壊して成長していく。旧東海道のどの町にもコンビニがあり自販機がスラリと並ぶ。そんな風景の中で時代に取り残されたように何体かの道祖神との出会いがあった。「道祖神さん、人は死んだら風になるのですか?」と尋ねたが道祖神は何も語らない。風化したその顔は微笑んでいるかのようで、へばったわたしの体を何度も生き返らせてくれた。
2回の夜をくぐり、2つの山を越えて50時間歩いてムダな力を出しきったら、少しだけ心の中に風が吹いた。
「変われない人間」は「変わらないモノ」だけ信じればいい。これからも風を探しに歩くだろう。河島英五の唄を聴きながら。ウフフ・・・。

♪ 山よ河よ雲よ空よ 風よ雨よ波よ星たちよ
大いなる大地よ はるかなる海よ
時を越える ものたちよ
あなた達に囲まれて 私達は生きてゆく
たった一度きりの ささやかな人生を
くり返し くり返し ただひたすらに
くり返し くり返し 伝えられてきたもの
くり返し くり返し 伝えてゆくんだ
くり返し くり返し 心から心へ
心から心へ 心から心へ
(「心から心へ」より)

(2017年8月21日)

戦争する国になりたくない! 多喜二の時代

近代国家は、自由と平等を手に入れたのではないのか。
何故、人間同士の殺し合いを続けなければならないのか。

国家権力は戦時中、国民から自由を奪い国民を戦地に送り殺人を強要させた。
原発事故では国民を放射能被爆させ続け、人質事件では個人の正義を自己責任と切り捨てた。
格差社会は右傾化し、反権力者を排除し、金融危機・経済不安が人間のこころを荒廃させ、若い世代からも「戦争待望論」が飛び交い始め、着実に戦争のできる国家体制が整いだしている。
そんな時代の中で、小林多喜二の『蟹工船』が爆発的に読まれている。
戦前の日本人は絶対天皇制の軍国主義であり、労働者や農民は搾取され、平和を口にしただけでも拷問され命を奪われた。
そのな暗黒時代に小林多喜二も戦争反対、主権在民を主張し、労働者や農民の為に戦い虐殺された。

【秋の夜の星】(小林多喜二)
輝く星! 見なさい。
 青い水底の静寂の中で。
仰げ。瞬く鈴蘭、
 おお、無限大の宇宙の。

おお輝く星! 瞑想なさい。
 不言うの神秘!……奥深いまたゝき。
―冷たい秋の夜、独りたゝずむ。
 仰ぐ、おゝ、遠い星。
 聞きなさい、心の耳を傾けて。
 幽玄な星の囁き―神秘な。
青白い沈黙。ゾッとする冷気の厳粛。
 おゝ、超自然!!

【ある時のわれ】(小林多喜二)
わがあゆむ歩の
さくさくと
なるが悲しも
砂漠の荒野。

つトとどまり
みつむれど
澄める大空に
つきも、星も
―我が胸を
おしいだく
なにもなし。

またあゆむ
ちからなく
サクサクと
なるが悲しも
恋う女のなければ。

ゆけど、歩めど
……ただ
長くひける影
おお、こは、
わが淋しき
恋うべき女か?

小林多喜二が虐殺された前年の1932年、日本は軍国主義化を加速し、植民地支配の激しさを増す中、19歳の槇村浩は反戦詩『間島パルチザンの歌』を発表した。
槇村浩は1912年に高知市に生まれた。幼児から神童と言われ、中学入学後15歳でマルクス主義を学び、17歳で軍事教育反対の闘争を組織し、19歳でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、また高知市の共産生年同盟に加わり、その指導者として軍隊内に反戦活動を展開した。1932年に検挙され1935年の出獄したが、獄中での拷問、虐待による病をえて、ついに終生治らなかった。しかし貧困のなかに母のたすけをうけ、執筆活動をつづけた。
1936年再び検挙、重症のため一ヶ月で仮釈放されたが、1938年病院で死んだ。
「間島パルチザンの歌」は当時日本にも伝えられた朝鮮人民の英雄的な反帝闘争を歌いあげている。

【間島パルチザンの歌】(槇村浩)
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪溶けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか
雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
目暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ
(以下省略)

日韓併合以降、朝鮮半島では学者や学生が中心になって独立運動が活発化した。
小林多喜二や槇村浩は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え朝鮮人民の独立闘争を支持した。
朝鮮半島に生まれた尹東柱 は1942年に日本の大学に留学し、1944年にハングルで詩を書いたというたったそれだけの理由で逮捕され、1945年に27歳で獄死した。
尹東柱の死は人体実験として薬物を何回かにわたって注射された理由ともいわれている。
その根拠は絶命する時に、”母国語で何か叫んだ”何か叫んだという証言があるからだ。

【序詩】(尹東柱) 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳)

暗闇ほど光は輝くものだ。
「序詩」は人の生が担っている重み、その生がかかえている真実の重みが、このように清潔かつ深みがあり、その崇高な精神、平和を愛する心は暗闇に光として輝いている。
今なお社会をみわたせば、「人権、イジメ、ひきこもり、殺人、自殺…」と病んでいる。
『蟹工船』はまだまだ航海し続けているのだ。
墓を掘り起こす愚挙を冒してまでも、彼らが残した声に耳を傾け、自由と平和について考えなければならない。
『蟹工船』が安住の地にたどりつくために…

(2017年8月4日)