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杉克彦という詩人

 30歳代の頃、お金に余裕があれば詩集ばかり買っていた。Gデザインを生業としているので表紙のデザインにはうるさいつもりだ。どこの古書店で買ったかはすかっかり忘れてしまったが、杉克彦さんの『鉄塔のうた』は表紙買いした詩集の1冊だ。現在、杉さんの詩集は4冊になった。そのうち3冊は有名な詩人の宛名と署名が入っているので、出来上がったばかりの詩集を読んでもらうために送ったものであろう。どれも細いペンで書かれていて、詩人の繊細さをうかがい知ることができる。
 井川博年さんが書かれたプロフィールと追悼文を列記する。(『現代詩手帖』1992.8 「クヤシイです 井川博年」より P092-P095)

 
 杉克彦は本名・鈴木勝利。1934年(昭和9年)東京生まれ。家は代々の屋根瓦職人。中学卒業後家業を継ぐが、結核に罹り断念、都立三田高校定時制卒業。友人の紹介で母校図書館員勤める一方、孔版印刷(ガリ版)の技術を覚え、それが生計のひとつとなる。

57年「文章クラブ」の新人欄の常連でグループ「明日」を結成。59年国井克彦・井川博年・辻征夫・丸山辰美らと同人誌「銛」創刊。処女詩集『鉄塔のうた』刊行。以後同誌を舞台に旺盛な活動をし、61年『銀杏挽歌』64年『水勢のなかで』(以上思潮社刊)を出す。
「銛」解散後は個人誌「銀河」を定期的に発行し、詩壇内外を問わない全国的な活動を行ったが、生来の喘息と蓄膿症と結核の進行が進み、以後病床につく日が多くなる。
66年私家版のガリ版詩集『伐採』を出し、70年その中から選んで『浮上の意味』を刊行。71年11月麻布・古川橋病院で自然気胸で死去。
死後「銀河」最終号に村岡空の「弔辞」が載り、76年の「吟遊」3号でささやかな回想特集が組まれた。丸山辰美に「無名性の小詩人」という文、辻征夫に詩「樹にのぼる」、小柳玲子にも一文がある。沢口信治の文も読んだような記憶がある。

杉さんの住所は生まれてから死ぬまで港区東麻布三ー十であった。このひとは本当の江戸っ子で、東京を離れたことがなかった。
麻布十番はいまは知らないが、当時が汚い川に沿って都電が通るだけの下町にすぎなかった。杉さんは小柄で石川啄木に似ていた。いつもその頃流行っていたリバーシブルの白のコートをはおり、ハンチングを被っていた。
父は志ん生そっくりの職人さんで、母が品のいい痩せた下町女で、上に兄がひとりと姉がいた。この兄は鈴木ゆりをという俳人で、杉さんのが詩を書くようになったのは恐らくこの兄の影響であろう。
なかなかのハンサムで、けっこうの遊び人であったという兄であるが、このひとも結核だった。「咳をする兄へのぼくのながい愚痴という詩がある。
「笑顔でぼくをからかったり/山下清や大山親方のこわいろをする兄/学生時代ずっと芝居をしていた兄/七年も寝ている兄」

ふすまのかげで
あなたの咳をきく
父と母よそしてぼく
ぼくらの愚痴はちっぽけだが
こみあげてくるものをこらえるとき
美しいイメージは
じりじりとこげたむらさきいろの煙りを
部屋いっぱいに漂わせる
ダンスのできる
あなたの部屋のすべすべした床にのうえを
ほこりは無表情につもってゆく
今夜も――

「こみあげてくるものをこらえるとき」という屈折した表現の中に杉さんの兄に対する複雑な思いがある。この兄も30歳で死んだ。
杉さんには病気があった。これがすべてであるといっていい。私は彼の病気の程度についてはまったく無知であったが、彼の無類の優しさも親切も、すべて病気のせいであったような気がしてならない。
実際、彼ほど友人や仲間を大事にする人間はなく、彼ほど後輩に対して優しいひとは少なかった。杉さんの家に行けば必ず食事が出るのであり、酒をおごってくれ、場合によっては帰りの電車賃もくれるのである。
それを目当てにするひとも含めて、彼の家は常に千客万来であり、その上に全国から送られてくる同人誌に目を通し、そのすべてに令状を書き励ますのである。およそこれほど筆まめなひとはいなかった。
彼はそういうことが生きがいなのであり、そういうことが好きなのだ、と私たちみんなが思っていたのだが、実はそれらすべては、実生活に対する深い断念からきていたことを知らなかったのである。
本当は社会に出て働きたかったのである。健康な女と結婚して子供を持ちたかったのである。なんということであろうか、それすら読み取ってあげなかったとは――。詩だけが彼にとって救いであった。

風が吹いている
エーテルの雲が
空一面にひろがっていく
いまみたび
手術日をまえにして
生きても死んでも
どうか間違っても
趣味だなんていわないで
ふとつの生を
ぼくが生きたという
証しになのですから
かけがえのない
証しなのですから
どうか趣味だなんて……
(『伐採』「どうか趣味だなんて」後半)

病気が進行し、病院に入院していて、しきりに昔の仲間に会いたがっているらしい、という話しを聞いた時も正直いって、万年病人の杉さんがよもや死ぬことはあるまい、とたかをくくっていた。
呼ばれて病院までは行ったのであるが、もうすでに面会謝絶で会えなかった。本人はわれわれの足音を感知していて、いま井川がきた、国井がいるとつぶやいていたそうである。以下「銀河」最終号村岡空の「弔辞」より死の前後を記す。
〔同氏は、本号の編集を終えた直後の去る十月二十一日、自宅にて昏倒し、ただちに近くの前記病院に救急車で入院されました。そして以来同月二十一日、すなわち当日は姪ごさんの結婚式が行われ「それまではぜったいに死ねない」とがんばられた由でしたが同月二十四日夕刻、わたしが病床に駆けつけましたときは、すでに酸素ボックスのなかのひとでありました。
まことに誠実な同氏は、なおも「銀河」をよろしく頼むと、不眠不休でつきそった沢口信治君とわたしとに、遺言されました。われわれ以外に病状悪化のため面会がかなわなかったのは、中井茂樹氏だけというあわただしさで、中上哲夫、辻征夫、国井克彦、井川博年、丸山辰美氏などは、ついに死に目にあえませんでした。
さりながら永く同志を助けた菊田守、小柳玲子氏ほかのものとても、あのまま逝ってしまわれるとは夢にも思わず、わたしごときは「あしたは美女をお見舞いにさしむける」などと冗談をいい、まったく慚愧の念にたえません〕
通夜は二十九日に行われた。寒い夜であった。遺骸を横たえたお棺の横に黙念と座っている石原吉郎の姿が目についた。することもなく外に出て吹きさらしの路上に立っていると、さきほどうっかり見てしまったお棺の中の杉さんの最後の無念の表情が眼に浮かび、いてもたってもいられなくなるのだった。
申しあわせたように私、辻征夫と中上哲夫は、杉さんが『鉄塔のうた』で書いた東京タワーの下へとおもむき飲み屋で飲むと、今度は遅くまでやっていたボーリング場へ行き、散々な成績で球を転がしたのである。
丸山の記憶はないがこの時も一緒に(だいいちボーリングをするなどという発想は、われわれにはなく)案外いたのに違いない。
次の日の葬式についてはあまり記憶にない。お寺などには行かなかったように思う。

 
  杉さんは37歳で亡くなっている。あまりにも短いプロフィールだ。僕は杉克彦という詩人が詩人として成功したかはわからない。まだまだ書きたいものがあったのか、それとも書き尽くして亡くなったのかもわからない。僕は杉さんの詩集をペラペラめくって詩を読む時間を何よりも大切にしている。

中桐雅夫の詩とは何か

 活字離れが加速する時代で、あいかわらず詩ばかり読んでいる。詩的精神が通じる話し相手も減り、ますます詩が手放せなくなっている。
 かつて、中桐雅夫さんは「詩とは何か」の問いに、こう答えている。

〈詩についてのいろいろな定義を読みながら、詩とはそんなに定義しにくいものかと、疑問に思われた人もいるでしょう。西脇順三郎氏は、その最初の評論集『超現実主義詩論』(一九二九)の冒頭で「詩を論ずるのは神様を論ずるに等しく危険である。試論はみんなドグマである」ち書いていますが、たしかに詩についての概念は、神様の概念にように多種多様です。その西脇氏も、戦後最初の綜合的な西脇詩論とされている「現代詩の意義」(『斜塔の迷信』一九五七年収刊録)では「ポエトリの真の世界というのは、どんな形態か説明が出来ないが、仮りに玄の世界として置く……詩の中枢は玄の精神である……玄は論理が破壊された世界である……異なった二つのものが1つのものに調和されている関係が詩である。これが玄の神秘である」、老子の玄ということばをかりて説明するようになりました。「考えをかくすもの」と題する論文では「詩はある種の美という観念であると思う……私は詩にかすかなおかしみと、かすかな哀愁を求めたい……哀愁を感じさせることによって詩は快感として存在を深くさせる。それで詩は一つの宗教ともなり、哲学ともなり、人間の憂鬱を救うものであろう……その哀愁には……一つのおかしみが伴なっている」と述べ、さらに「詩情」では、芸術作品の出来不出来を判断するときには、そのなかに含まれている「何かしら神秘的な淋しさ」の程度で定めるといっています。「淋しいものは美しい、美しいものは淋しい」というわけです。しかし、自分にはにぎやかな方が好きだ、勇ましいことの方が好きだという人がいるかもしれません。それはそれで結構です。ただ、いわば人間の存在そのもののもつ淋しさのことなのです。〉(『詩の読みかた詩の作りかた』 晶文社)

 中桐さんが家で倒れているのを発見されたのは1983年、アルコール依存症による肝臓障害が死因だったそうだ。
 80年代は大衆消費社会から記号的消費社会に変わろうとした時代であり、この時代の社会の有り様を代表するキーワードは「おいしい生活」だった。街には笑顔をふりまく広告が溢れ、ビルのネオンがギラギラ輝き、各地で大規模なイベントが開催され、企業は消費者に1円でも多く無駄カネを使わせることに躍起であり、消費者はモノに満ち溢れる幸福を味わうために1円でも多く無駄カネを使った。
 中桐さんは晩年、「詩が書けない」と友人に語っていたという。もはやこの時代、戦後詩的な「死者と共に生きる」ような感性を受け入れられる隙間は残っていなかったかもしれない。中桐さんが言葉を発しても社会に届かない苛立が、当時の詩を読めば充分に伝わってくる。

「やせた心」 中桐雅夫

老い先が短くなると気も短くなる
このごろはすぐに腹が立つようになってきた
腕時計のバンドもゆるくなってしまった
おれの心がやせた証拠かもしれない

酒がやたらにあまくなった
学問にも商売にも品がなくなってきた
昔は資本家が労働者の首をしめたが
今はめいめいが自分の首をしめている

おのれだけが正しいと思っている若者が多い
学生に色目をつかう芸者のような教授も多い
美しいイジメを作っているだけの詩人でも
二流の評論家がせっせとほめてくれる

戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ

「こわされる心」 中桐雅夫

お百姓に「米を作るな」という。減反政策違反だから、
二千ヘクタール分の稲を踏みつぶせ、という、
まるで絵描きに「絵を描くな」というようなものだ、
キャンヴァスを踏みつぶせ、というようなものだ。

円高で販路を失った衣料会社の庭では、
従業員がミシンにハンマーを振るって自己規制だ、
全国で一万二千台がこわされるという、
ミシンのほしい家庭も少なくはないだろうに。

稲を作るものが稲を踏みつぶす、
ミシンを踏むものがミシンを打ちこわす、
そんな馬鹿な、そんな悲しい話があるものか、
どんな冷たい血がこんな命令を出したのか?

みんなが物を大切にしなくなって、
みんなの心がこわされる、みんなの心がこわされる。

「卑怯者」 中桐雅夫

おれたちはみな卑怯者だ、
百円の花を眺めて百万人の飢え死を忘れる、
強い者のまえでは伏し目になり、
弱い者のまえでは肩をそびやかす。

夢の階段をおりてもおれたちは疲れる、
朝の明るい薔薇色の指をおれたちは知らない、
とるに足りない不満を拡大鏡で見て、
正義と復習を混同する。

おれたちはひとりで立っていられないから、
どんな旗でもいい、旗ざおに寄りかかり、
たくさん集まって安心しようとする、
頭が軽いので重いヘルメットをかぶる。

卑怯者は目的の毛布で良心を包むのが上手だよ、
卑怯者の影は水にも映らないよ。

 確かに「おいしい生活」は愉しいと思う。しかし、僕たちが「おいしい生活」をしようとする背景には、暴力を用いるような形の搾取があったり、ものすごい環境破壊が存在している。そもそも日本の敗戦後の高度経済成長は、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需だったはずだ。アメリカが戦争に血眼になってる隙に、アメリカ市場に日本製品を売りさばいたことだったし、特にアメリカがベトナム人を殺しまくったナパーム弾の90%は日本製品だった。要するに日本人の手は、アジア人を殺した血で真っ赤に染まっていると言ってもいいすぎではないだろう。
 1986年に「おいしい生活」はバブル経済になり、1991年にバブル経済はいともたやすく弾けた。そして、不良債権を抱えたまま、1995年に阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、2022年に東日本大震災と福島第一原発事故が起き、日本は「失われた30年」とも言われる長期停滞からいまだに抜け出せていない。まるで敗戦後の日本と同じだ。むしろ、希望を持てないことを考えると敗戦後の日本より悪いかもしれない。誰もが不安を抱えている。今だからこそ、中桐雅夫さんのような詩が必要だと思う。
 最近、最果タヒさんの詩を読んでいる。10代の頃にインターネットで発した言葉が若者を中心に共感されて詩人になった人だ。敗戦後は荒地派を初め多くの同人サークルが生まれ、詩を通して人と人が繋がっていたように、インターネットで発した言葉で人と人が繋がるのは素晴らしいことだ。