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中桐雅夫の「聖なる瞬間」

 年越しの大祓は歩いて浅草寺に向かう途中の、セイタカアワダチソウが生い茂ったようなビル街を歩いていた。星もない寒空を眺めたら、中桐雅夫さんの詩「新年前夜のための詩」が頭に浮かんた。

「新年前夜のための詩」  中桐雅夫

最後の夜
最初の日に向う暗い時間
しずかに降る雪とともに
とおくの獣たちとともに在る夜
さだかならぬもの
冷たくまたあわれなすべてのもののなかに
形づくられてゆくこの夜

ちいさな不幸が窓ガラスをたたき
人間の眼は灰の悲しみに光る
最後の歌は地をおおい
闇のなかに 聖なる瞬間はしだいに近づいてくる
死と生とが重なりあうその瞬間
「時」のなかのそのちいさな点が
われわれに襲いかかってくるまえに
なにかなすべきことがわれわれに残されているだろうか

おお その聖なる瞬間
われわれはただ知らされるのだ
すべての偉大な言葉はすでに言いつくされ
生の約束も死の約束の変形にすぎないことを
おお その聖なる瞬間
あすに向って開かれたドアからは
すべての未来が流れこみ
室内は水晶と闇の光に輝く
おお その聖なる瞬間
わたしは忘れ わたしは忘れ去られる
死骸が墓のなかに落ちこんでゆくように
わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
わたしの細く深い海峡のなかに
わたしの暗いあすのなかに

 この詩について、三好豊一郎氏が解説している。
〈「新年前夜のための詩」は『荒地詩集』1951年版に発表、好評だったものである。好評だったゆえんは、時代に対するペシミズムがニヒリズムに堕すことなく、その底から生きるに値する精神的基盤を強く求める姿勢を、生と死の二律背反の形にとって、より高次の形而上世界、この詩でいう「聖なる瞬間」に体験(――への志向)を跡づけた詩的表現として、成功したからであった。〉

 1945年、戦争で傷を負った若き詩人たちは「荒地」に立ち尽くした。彼らは、その傷痕をひたすらに見つめ、そこから滴り落ちる血で詩を書き始めたという。彼らは、戦争で死んだ者たちの声を聞き、戦争で失った自己の回復と再生を求めて「荒地」を歩き続けた。
 1964年、中桐雅夫さんは第一詩集『中桐雅夫詩集』を刊行し、冒頭に「新年前夜のための詩」を載せた。この詩は詩人中桐雅夫の決意表明であり、「死」は大きなテーマでもある。中桐雅夫さんにおける「死」とは、ドロドロした血なまぐさいものではなく観念的な世界だ。「新年前夜のための詩」の「聖なる瞬間」とは、次の載せた詩の「ある価値」に示された死者たとちと対話する祈りの世界だ。

「ある価値」  中桐雅夫

ある価値
それは奪うことはできない
それはそこに見えるものである
それは触知し得ざるものである
消えてゆく十字路のごときもの
消えゆく砂漠のごときものである

 「わたしををして人間たらしめよ
 すべてのものを意識せしめよ
 夜明けに輝く海辺のひとつの石を
 その移ろいの一切の過程を

 「私をして歌わしめよ
 つねにひとりで 誇高く
 わが心を貫ぬく光を
 わが心を貫く闇を

市と王座と権力とは時の眼の中にある
そしてこの地上に
ふたたび市の栄えることはない
虧けた月がまた満ちても
乾いた河にまた水が満ちても
王座と権力とがふたたびその場所をもつことはない

死はいろいろの言葉で語る
死は歓びの声をもつ
死は天の青春である
死は枝の炎である
死は一個の卵である

 「わたしをして死なしめよ
 死せる乞食は生ける王より偉大である
 わたしをして死なしめよ
 死せるものは生ける何ものより偉大である

 「わたしをして土たらしめよ
 一握りに足らぬ土たらしめよ
 わたしをして人間たらしめよ
 わたしをして歌わしめよ   

ある価値
それは奪うことはできない
それは支配しないものである
それは支配されざるものである
はるかな雪のごときもの
はるかな顫えのごときものである

 中桐雅夫さんが「新年前夜のための詩」を発表したのは32歳の時だった。僕が32歳だったのは1993年。バブル経済が崩壊して数年後ということになる。
 1990年代とは、敗戦後の日本人がむしゃらに働いて築き上げた「安定」と「安心」が、芋づる式に「崩壊」した時代だった。阪神・淡路大震災で街が壊れ、オウム真理教が地下鉄でサリンをばら撒き、北海道拓殖銀行・山一證券などの大企業が経営破綻、55年体制は崩壊し、もんじゅと東海村で原発事故、O-157・狂牛病・ダイオキシン・環境ホルモンなどの問題が起きた。その結果、長時間労働、リストラ、非正規雇用、就職氷河期(就職難)、少年犯罪、いじめ・引きこもり、メンヘラなどの問題が表面化した。その反面、経営不振に陥った大手金融機関はゾンビ化して生き延びた。税金を使って国民にツケを押し付けたということだ。この時代、社会の底が抜けて年間自殺者数の3万人以上が吸い込まれていった。それ以降、年間自殺者数3万人以上が13年間も続いたことを考えると、救われる「命」と捨てられる「命」が可視化されたことが、最もこの時代を象徴している。間違いなく言えることは、ゾンビ化した者たちが支配する社会の中で、指定席を奪い合う闘いをしている限り、この国はどこまでも転がり落ちるということだ。
 90年代はどのようにバブル崩壊を迎えたかによって風景の見え方が違ったと思う。僕の90年代は「平坦な戦場」から「嶮岨の戦争」のようだった。転がり落ちることはなかったものの、ヒエラルキーが低く、決まった指定席もなく、小さな地雷は難度も踏んだ。バブル崩壊後は、誰もが大きな「物語」を生きることが出来ず、小さな「物語」を生きなければならなかった。もともと小さい「物語」しか生きられない僕にとっては、ある意味よかったと思う。小さな「物語」の本質でもある「見たいモノしか見ない」という世界は、サブカル・アングラバカの者としては望むところでもある。それよりも、僕によっての1990年代とは、尾崎豊、江戸アケミ、カート・コバーン、GGアリン、佐藤泰志、山田花子、見津毅が死に、岡崎京子が交通事故で創作を中断せざるを得なかった時代だった。まるで自分がたった一人で焼け野原に立たされているような喪失感を味わった。日本はタテ社会であり常に上からの抑圧を受ける。抑圧に抗って生きてきた彼らの作品は、僕が小さな物語を生きる上ではかけがえのないものだったのだ。
 築き上げていく時間は永いが、崩れ落ちていく時間は短い。あっという間に「失われた30年」だ。経済格差は広がり、いじめ・引きこもりも多く、今度は原発が大爆発し、社会は今にも転がり落ちそうだ。相変わらず僕はヒエラルキーの底にいる。しかし「失われた30年」の間ずっと、転んでも怪我をしないように受け身の練習をだけは今でも欠かさないで続けている・・・。

 年越しの大祓の帰りは護国寺を抜けて池袋を通ってきた。サンシャイン60のビルが卒塔婆のように高く聳えていた。かつてこの場所には巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)があった。第2次世界大戦で勝戦国のアメリアによってA級戦犯として処刑された人間と、日本を統治するための道具として処刑を逃れた人間が選別された場所だ。1945年の敗戦後の社会とバブル崩壊の社会は、生き延びたゾンビたちが跋扈する社会という構図はまったく同じだ。
 荒地派の若き詩人たちは、戦後の状況を絶望と死の影にみちた荒地と認識し「破壊からの脱出、亡びへの抗議は僕達にとって自己の運命に対する反逆的意思であり、生存証明でもある」と敗戦後の生き方を誓い合った。
 僕はマリオゲームのように何度も足を踏み外したが、何度も受け身の練習を重ねリセットをするように生き抜いてきた。荒地の詩人たちが「生存証明」するために死者との対話が必要だったように、僕も90年代に死んでしまった表現者たちとの対話をすることが、デタラメな社会に対する反逆的意思であり、生存証明でもあった。「僕だけでは生き抜く」ことはできないが「僕たちとなら生き抜く」ことができる。僕の未来は前にあるのではなく後ろにある。彼らと一緒に転がり落ちないように踏ん張って歩んできた「荒地」に刻んだ足跡の中にあるのだ。

「きのうはあすに」  中桐雅夫

新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?