——その書簡をめぐっての回想——
パーマをかけたように、ちぢれた漆黒の髪。にやりとわらえば笑窪ができる浅黒い顔。そしてまっしろな歯。東北訛のべらんめえ調プラスアルファの独特な弁舌の五尺七寸十六貫、向うところの敵なしといたげな大股な歩行……
好川誠一は、死後十年の歳月を経て、いまもあざやかに、私の中にいる。かつての仲間のひとり、粕谷栄市がいみじくも《太陽の子》と呼んだように、まことに壮快な人格を、好川とのであいによってはじめて知ることができた。
好川誠一との最初の接触は、私の詩をある投稿誌でみかけた彼が、福島県会津の片田舎から、長野県伊那谷で療養中の私にくれた、一枚のハガキであった。
『本郷の町は小さく、中心である公園山を囲んでごだごだ家が並んで居るます。これに向い合って、丸山という山があって、この丸山には大きな青大将が棲んでいると伝えられ、ちょっと気味の悪い山です。山に沿って、一本の細い路があり、路と並んで流れています。広さは二間位で、真中に「へびのみやばし」というコンクリートの小さな橋がかけてあります。反対に公園山に登りましょう。町が一見えに見えます。小学校が見え、新築の中学校が松林の向こうにさみしくポツンと見えます。火の見やぐらが見えます。春、春、春です。』
《水平線に叫ぶ》《ひめ鱒の村》《郷土》など、好川誠一の初期作品の土壌がしのばれるこの文面。いかにも十五才の無垢な少年らしく、稚拙ではあるが、活々と綴られたこのハガキをみていると、彼の、のびやかな生立方をまのあたりにみる思いがする。
——好川誠一、福島県大沼郡本郷町に、昭和九年五月九日、陶磁器業を営む両親の長男として生まれた。幼い頃の彼は、きわめて腕白、生傷のたえることがなかったという。——
まもなく上京した彼は、下町の印刷工場に働きながら、精力的に詩作をはじめ、《文章倶楽部》に投稿。しだいに、選者の鮎川信夫、谷川俊太郎らに認められるところとなっていった。後に編まれた小冊子《海を担いで》の殆んどの詩篇は、この頃の作である。
それは、「へびのみやばし」のある故郷の自然や人情に彩られた、メルヘンであり、とんぼつりや石けりに夢中であった幼き日への、実にさわやかな、追憶の唄であった。
東京お茶の水、巴屋というそば屋の二階は、ロシナンテの仲間にとって、忘れ得ない場所であるが、私が好川誠一に初めてあったのもここであった。ふたりとも、二十才になったばかりの春であった。
この日、即座に、私はロシナンテの騎手の一員として参加することになった。好川はすでに《櫂》の同人であったが思いのままに、作品発表ができるロシナンテに、全力投球といった感じであった。
『厭ンなっちゃった、編集はヤッパり、ぼくがいないとダメなんだ。トントシロウトなんだ。わけのわからぬことばっかりいって、みんなぼくを困らすんだ。たしかにぼくが編んだけど、責任はもてない。だいたい一寸慣れてきたことを棚にあげて、みんなでぼくの割り付けにケチをつけるんだ。貴兄がいたらドウゼン絶対反対するやりかただ。』
なにかの用事で、詩話会を欠席した私に、彼はこんな手紙をよこしたことがある。学生やサラリーマン一年生ばかりの仲間の中で、彼がいちばん印刷に詳しく、ロシナンテの編集は好川中心に行われていた。そして、岡田芳郎、田中武、河野澄子、海野睦人、岸岡正、淀縄美三子、竹下育男、粕谷栄市ら、若い仲間の天衣無縫な気負い、傲岸、感傷の渦の中に、一個の完成された大人の姿で、石原吉郎が静かに、そのざわめきをとりまとめていた。
『給料遅配で、はたまたぼくは赤旗を振るハメに穿ち入った、しかも土曜から、編集のある日曜日にかけて——。委員たるぼくの任務はトウゼン、重大であり、脱けだすことなぞどてもできっこないのに、ぼくはナントカ石原宅へ馳せた。徹夜の翌日さ。組合費から電車賃を借りて。……岡田君にしろ、勝野君にしろ、カステラ食うみたいな気持でかいている詩と、ぼくの飯食う詩とでは、オノズとその、態度の度合が違う。』
その頃から、好川誠一は、植字工としていっぱしの職人を自認し、しだいに、自分の生活周辺に詩の発想を求めるようになっていった。時代は朝鮮戦争終決後の不景気であった。彼は生活費獲得のためには、赤旗を振り、転々と勤務先をかえ、失業を繰り返していた。そんな彼をささえていたのが、ロシナンテであり、酒であった。
好川の酒にまつわる珍談奇譚はいまも、むかしの仲間に、語りつがれている。私も酒好きの方だから、彼とはふたりしてよく飲み歩いた。新宿は西口も東口も、まだ焼跡のなごりの屋台式赤ちょうちんが立ち並んでいた頃のことだ。薄給の私たちは、清酒は高級品で、もっぱら一杯35円也の焼酎専門であった。これを鼻をつまんで、十杯もあけると、私は完全ダウン、好川が背におぶって、杉並の私のアパートまで送り届けて、くれたりした。
ながい交友の間に、私たちはたった一度、それも酒の上でのいきちがいをした。その小さなできごととは、つぎの酒臭ぷんぷんのハガキに、残されている。
『酔いどれ電車の二日酔いの名文句以上に気にいった。「好川誠一にパンセなんかありっこねえ」……この文句は隠しておいた。オレのコンプレックスも揺り起こすに充分であった。なににしても、この言葉は真実で親切だ。おれのうけたこの深手、この言葉の刃が突き刺さって噴きだした血汐は当分とどまることをしるまい。おれはワケあって学校をでていない。職人だ。おれはインテリのために詩を書くのでは決してない。いいたいほうだいをいってるまでだ。詫び状はムロン断る。理由だけ欲しい。具体的な、おれにワ、カ、ル、。』
乱酔にまかせ、不用意に口にした私の言葉で、彼はこんなにも傷ついた。その夜は、機嫌よく別れたのに、翌日、私は速達をうけとった。別れてから電車の中で、もしくは自宅にたどりついてすぐ書かれたと思われる、なぐり書きのハガキであった。凶器の言葉を吐いた私は、ずいぶん悔やんだが、その決着をどのように処理したか、思いだせない。ただ、たわいない口喧嘩であったかのように、すぐ以前の仲にもどっていた。
好川の飲みっぷりは、豪快そのものであったが、酔うと人が違ったように、暴れだしたりすることもあった。石原さんと西部劇まがいの殴り合いをしたこともあると、聞いている。それも、彼の感受性の激しさを示す証であるように、いまは思えて、なつかしい。
彼は、私のアパートへは、しょっちゅう遊びにきたが、ふしぎに私の方から、彼を訪ねたことは一度もなかった。あうのが新宿周辺で、そこから私の住いの方が、近かったという理由にすぎないかもしれないが……。
ロシナンテが廃刊されてまもなく、彼から結婚したから、ぜひ一度誘われた。その夜も、奥さんの心づくしを馳走になりながら、私はだらしなく酔い、新婚夫婦の布団の端にもぐり込んで眠るという、体たらくであった。ところで、彼の部屋には、新婚らしい家具も殆どなく、四畳半とは思えない広さがあった。詩とか文学とかにかかわる本も全くみあたらず、美術全集のかたわれが、二三冊ほうりだされていたように覚えている。貧しさ故とはいいがたい、好川誠一の徹底した気質がうかがわれる生活ぶりであった。
『おれは紙とエンピツさえあれば詩が書ける』と、口癖のようにいっていたのを、その時、あらためて確認させられた思いがしたものだ。
たのむ
たのむと拝み倒して
ぼくはその人に借りたのだが
その人はその金の催促にきて
まるでぼくのことを拝み倒すみたいに
たのむ
たのむというのだ。
ロシナンテで「私の心の中の一詩句」というアンケートをした時、好川が掲げたのがこの山之口貘の《借賃》という詩である。彼はこの詩について『折々「きみはどんな詩を書いているんだい。一つ拝見さして貰おうじゃないか」などと、詩を書かぬ仲間に絡まれたとき、馬鹿の一つ覚えのように覚えているのがこれで、もっともらしくいっている……彼らは一様に「ふんふん、まるでおれをうたったみえてじゃねえか。詩ってあんがいわかりやすいんだなあ」……』と注訳をつけている。
後期の作品についての評価はさまざまで、詩の生きがいないとか、テーマが低俗だとか、酷評する向きも多かったようである。しかし、二十代詩人の共通点ともいえる悲壮癖が全く見あたらないのが、いかにも、好川誠一らしいところである。瑞々しく見開かれた風刺眼が、その独特なユーモラスな饒舌(石原さんは「つぼにはまった語り口」といい、「詩人の世界で自然と身につけた芸の達者さ」と評している)によって形成されていった。
好川は、自分の作品はすべて正確に暗唱していて、飲むほどに、酔うほどに口をついてでた。はじめにも書いたように、彼の話しっぷりは、東北訛にべらんめえ調といったところだが、その声帯と呼吸にとり方は、作品の行間字間に、ぴったり一致していた。誌上で読むと、さして佳作と思えない作品も彼の朗読で聴くと、素晴らしい光彩をおびてくるから、ふしぎだ。
《花よ おかえりなさい》《あかごをうたう》《牧場の証人》のような初期の宝玉のような抒情作品も、《処分》《生活力考》《本日は晴天なり》など、後期の風刺的な作品も、彼の朗読で聴くと、異質さを感じさせず、どれも完璧な好川誠一の唄として、快く伝わってきたものだ。いまでも目を閉じれば、私ははっきりと、その声を聴くことができる。
『りんごやカキをたべて、人は、ウマイとかマズイとかはいいますが、それだから作った人がどうの、とはまずいいませんね。けれども、こと作品・詩となると「らしい」とか「らしくない」など、ややもすると作品そっちのけで怪し気な人物論がはじまります。が、これは一面あたりまえなことではないでしょうか。……あなたがよんでもらいたい。あなたがあなたの作品を提供したいと希う人はどのような人ですか? 大衆化などというイカメシイ族こと掲げはしませんが、ぼくは、あらゆる層にわけ隔てなくありました。しかし、それは、半ばダメなことが、ぼくにはわかりましたよ。ないてもはえても同人誌の詩は、しょせんそれらグルッペのマスタベーション、遊びではないかという気が、ぼくは現実・職場に目を向けるときに強く感じるのです。……さて、さいごに後楽園が大入り満員のときの観衆はざっと〇万以上だと聞いたことがあります。ととぼけてさよならします。』
勝野睦人にあてた公開書簡で、好川はこのように書き、ロシナンテの優等生であった勝野は、密度の高い分析を展開し、長い返信を書いている。紙数がないので、ここに全文を引用できないが、現代詩に確固たる様式がなく、言語の符号化や、詩そのものの衰頽をあげ、『あなたの主張する詩の大衆化は、このような巨視的な眺望の前で、畢意挫折する他ないのではないか』という立場から『作品を一応、その社会的効用からも、又その創造過程からも切離して扱い、それ自体の論理精進を対象視』したいとしている。
いま私は、その問題を論じる心算はないが、好川と勝野によって代表される、ロシナンテの二つの体質のようなものを、この往復書簡が明確に語っているような気が、するにである。
勝野は、自分の詩の世界をつかみかけたところで夭折し、好川は、詩への情熱も燃しつくし、ロシナンテが廃刊すると、殆ど詩作をしなくなっていた。
『不精だけで充分なのに、このところとみに筆不精になってしまい、われながら呆れかえってしまいます。
誠人(まさひと)は、この三月で満三歳になり、いま以上に声を大にして怒鳴りちらさなければならないのかとおもうと騒騒しく明け暮れる日日がおもいやられてなりません。
なにはともあれ、平素のご無音を謝し、あわせて本年もよい年でありますよう、お祈り申し上げます。 昭和四〇年・元旦』
この年賀状で最期に、好川誠一はぷっつりと、私の音信を断った。その年の夏、私は、むかしの仲間から、彼の死を知らされた。彼が逝ってから二ヵ月もたった後で。すでにロシナンテは廃刊して久しく、会者定離は世のならい、去る者は日々にうとく、むかしの仲間たちに聞いても、この半年間の好川が、どのように生きたのかさだかではなかった。わかっているのは、彼が奥さんの実家のある山梨に移り住み、強度のノイローゼのため静養中であったということ。そして自らの手で、満三十才になったばかりの生命を閉じた、ということだけだった。
あれから、すでに十年。あのいつまでも童顔のガッチりした体躯に秘¥む詩魂は、私の青春を、めっぽう楽しく彩ってくれたのに。