「好川誠一 毬買うか死者より遠き冬の山」 粕谷栄市  (『詩学』 1974年12月号)

 好川誠一っが死んだことを知ってから、何年になるだろう。ひとりの詩を書く男が、誰にも知られず、死んでしまってから。もう十五年を超えるだろう。
 だが、私は、彼を忘れることができない。少なくとも、月に一度は、彼を憶いおこす。それは、小さな偶然からだが、私は仕事で、毎月W市にゆかねばならず、ゆけば必ず路上で、Hゆきのバスを見るからである。
 Hは、好川の故郷である。盆地の城下町Wの近くの、それは、宿と呼んでもよい。雪の深い山峡である。
 十五年来、私はHにゆくことを考えている。だが未だゆかない。おそらくもう行かないだろう。好川の墓のある、瀬戸もの屋の多い所を、私は、過去の領分にしてしまった。
 それは、二十代で死んだ好川のものである。
 毬買うか死者より遠き冬の山 彼と私の仲間のひとりの句を、呪文のようにとなえて、私は、Hゆきのバスの停留所を去る。
 二十三才の彼が、私におこったようにものを言って笑っている。
     ※
 二十三才の或る夜、私は、はじめて、好川誠一に会った。詩の同人雑誌に、私ははじめて参加して、その集りに出席したのである。
 ロシナンテ、それが、その雑誌の名前だった。知己のTが、私に詩を書くことを勧め、勝手に同人参加の申し込みをしてしまったからである。だが、それは大変な贈りものだった。
 私は、それが、何か判らぬにせよ、詩とそれを本当に愛している仲間にめぐりあったのである。それから、ロシナンテが解散するまでの二年間ほど楽しい日々は、もう私に無いと思う。好川は、ロシナンテの創刊をしたひとりで編集者だった。そして、私に会ったときは、少し疲れていた。
 私は、彼が好きだった。
     ※
 好川と私が、だが一緒に過ごした時間は短いのだ。それは、五〇時間を超えないだろう。彼とだけ話したことは一度も無い。
 ロシナンテに入って、私は、好川の詩をよむ機会を持った。彼の唯一の詩集、というより、原稿の整理の小冊子と呼ぶべき「海を担いで」である。そして、冒頭の二篇に、はげしく驚愕した。
 殆ど、超越的な生命の無垢の世界を、そこに感じたからである。それは、私たちが失うことによってのみ生きることを可能とする性質のものであり、その純度の高さによって毒とすら、感ぐられるものだった。
好川の、それが詩だった。彼は、それを、信じつづけようとしていた。肉体と自然との幸福な一致、それは、本来、注意深く、保護し、或は放棄することによって、維持できるものである。だが好川は、それをしたかった。彼の詩は、或は、そのような免疫を恥侮としたのかもしれない。
 彼は、「不幸なほど、健康」だったから。そして、彼は鋭敏だった。天与のリズムを失ってそれはやがて変質しかけ、彼は、自己放棄へむかった。「三〇才になったら、詩なんか書かないよ。」冗談のように、彼は言っていたのは、その出発のときに、僕が、それを知っていたからだろうか。
 それが、彼の生き方だったようである。故郷の新制中学を出て、彼は、彼の肉体だけを支えに、東京へ出て来て、印刷工になり、詩を書いた。彼は、肉体労働と詩だけを信じ、その技術が誇りである。「職人」の生活を愛していた。しかし、別の時代、別の場所こそ彼には、必要だったのである。
 猥雑な首都で、彼は働き、詩を書き、酒を飲んだ。そして、彼の詩に、次第に生活の苦渋が渗み、ロシナンテ、彼の創った、蘇生の場所がなくなって、しばらくして、彼は死んだ。唐突に、ロシナンテの解散の決まった夜、私は落胆して、まっ暗な東京を歩きまわった。だが、好川の東京は、もっと暗かったろう。私は、彼の詩を憶い出した。

あかごをうたう(詩は好川誠一のページを参照)

 その後、一度だけ、ロシナンテの残党たちは、好川に会った。石原吉郎の第一詩集のお祝いの小さな集りのときである。
 好川は、烈しい恋愛のあと結婚して、美しい夫人と赤ん坊を連れて来た。同じく、赤ん坊を連れた私と離乳食について、話をした。お互いに、詩は遠いものであった。「粕谷さんと詩以外のはなしをするのははじめてだな。」彼は、そう言って笑った。「そう、想像すらしなかったな。」私は、彼の幸福を喜んだ。だが、彼は、その後死んだ。
 そんなことはあるまい。だが、若し、この世で、好川ののこした男の子に逢うことがあったら、私は言うつもりである。「きみのお父さんは、本当は、すばらしい詩人になるはずだったんだよ。早く亡くなって残念でたまらい。」
 「生きたいと言う奴がひらきなおる」。最後の一行から、最初の一行に戻って、くたびれるほど読める、好川の、最後の詩を私が、詩学で読んだのは、彼の死のずっと後である。