「澄んだ日あるいは日々」 江森國友  (『詩学』 1974年12月号)

 風景が遠のく、自然(体質)が身を起こす——
 経験のうちのもっとも恩寵的な日が、好川君の詩との再会に、また私に訪れた。
 沈黙が清潔とは限らない。言葉が浄化をはたす。この決意のうちに生きられない詩人を私は信じない。言葉、言葉、言葉……青春の饒舌の、だから私は味方だ。のちに青春の独り善がりを笑うことは、人生にまかせておけばよい。観察のまえに立ち止まらない駈けるようにして生きた者を愛する。それは、生きることの責任に忠実な男であった。ことに妻子への責任に忠実な男性という風貌が、私の心にある。
 
 遠いものが、遠ざかることによって、眼に立ち上がってくることがある。〈身を起こす〉——まさに遠のくことによって〈遠ざかりつつも〉ものは、大きく姿を顕わしはじめるということがあるのだ。絶えざる水の流れのうちにあって、水底が現わに見えてくることがある。心だ。心が洗われるように、変転きまわりない事象や時間の遠ざかりのなかで、ゆっくり身を起こして、われわれを見凝める。そのようにして、過去から洗われるように真価を見せはじめるものが、好川君の詩の核にあるものを私は見た。
 散文にあっては、表現は表現しようとする力によるものでない人生練達の行方の航跡がいちじるしいが、詩には、出発時の起爆剤といえる情熱が、才能の原核を衝き動かして珠玉の肌をかいまみせることがある。詩においては、若さはまさに力である、と思った。好川誠一の詩を知ったのは、もうずいぶん昔のことになる。怠情な私には、それを振り返らせる記録がなくて、雲をつかむ覚つかなさをもどかしく思う。

 会うことの偶然ゆえの、心に刻まれる深さと純粋さと正確さは、そのたび驚かされる人間で幸せである。
 心が澄んでくる——という思いを経験するのは、私には近頃にないことであった。

花よ おかえりなさい(詩は好川誠一のページを参照)

 若さゆえの饒舌が悪いのではない。たしかに詩は何らかの省略に根ざすが、問題は、排除、省略、刈り込みを先入観のうちに金看板にすることではなく、大切なことは、組み合わせつまり構造にあるということを、私は好川君のの若い詩を読んでつくづく思った。

 詩はその出生時に、一度、擬音(オノマトペ)〈態〉というべき場を通過するものだ。すぐれた詩人の詩は、だから人類の詩の発生時の原体験とおなじ経験を重ねて出発するといえる。そのとき借りる衣(ころも)はないのだから、詩人は生まれたての呱呱の者をその生のうちに二度声をあげて〈大地を雲れる〉 ことのできた者なのだ。このオノマトペ態経験を踏んでより、詩人は言葉の厚く暗い樹海深くわけ入る者である。

しゅおお ろろおん ずああざ
しゅおお ろろおん ずああざ

 呱呱の声ほどに、強く人の心を浮かすものはない。

——
いいな
いいな
すっぱだかはいいな
膝小僧のあたりまで
しゃあわあ しゃあわあ
からみついては去ってゆく
しろい蛇(おろち)ども その
くすぐったさのなかにひそんでいる
〈生〉
おおい!
おおい!  (水平線へ叫ぶ)

 およそオノマトペのつまらぬ詩人は、それだけで詩人ではない。

 私事になるが、この十一月二十六日、蔵王芝草平の池塘にキャンプして、私はすでに私にない青春の思いをいたいまでに感じた。そして、このテントのなかで好川君の詩を読んで忘れた遠い日日のことを想った。
 好川君は、生きることを誠実な(誠実というより充実といったほうがよい)、おかしく聞こえるかもしれないが、生きることの責任に忠実な人だったと思う。だから、つらかったのだと思う。私には、まだ人生がわからない。避けて通ってきていることが多すぎるので、好川君の詩を読んで、その人生を、私は人には推奨できない。あのような経験をしないでも、生きられていたらよかったにと、好川君のつらさを知らずに、人にはいうばかりだ。

 ひぐれ
まだ分けないサバサバの髪が
くま手のようにひたいにかぶさり
その隙間から
うわ目づかいに星を見る

まるでそんなふうな
枝が垂れ下がってる位置に
待っている
胸の動悸を抑えきれず〈ノオト・竹蜻蛉〉

 初恋ともいえようか、少々不良じみた(いや断じて不良ではない)恋情の初々しさよ! 詩の言葉が激しく動悸しながら自立したのだ。もうこの時からは詩人は、二度目の呱呱の声をあげていたのだった。——村に。
 この〈ノオト・竹蜻蛉〉の中の掌編詩には、他に「池畔にも」「夏の夜」「病める少年Ⅰ・Ⅱ」など読ませたい詩がある。

  病める少年(Ⅰ)
うすめをあけためまいのなかでは
病んで臥ている村もとの
看護のははが小さくなる
茶ダンス 瀬戸火鉢
みんなとおのいてゆく

 さきに、すぐれた詩人のもつ質の一つをあげたのが、すぐれた詩には、さらに色彩があり、匂いがある。そのようにして実体(リアリティ)ある詩経験を、詩人はわれわれに残してしていって追体験させてくれるものなのだ。それは、まったく、年齢に関係なく——。

 ——注記。
 私は、この文を綴るにあたって、「ロシナンテ詩集Ⅰ」と銘打たれた好川誠一君の詩集「海を担いで」一冊を読んだ。できたら、もっと沢山の残された作品の全てを読んでみたいのと、思っている。好川君自身の後記に、〈——ほかに載せたい作品はキリもなくあるが、それには少少おもうところもあり、経済上なお許るされないので、これはまたの機にしたいとおもう。〉とある。
残念である。