「好川誠一とその作品」 石原吉郎  (『詩学』1965年10月号)

 八月下旬のある夕方、「ロシナンテ」の昔の同人が六人新宿に集まった。好川誠一が突然亡くなったという知らせがあつたのだ。好川誠一とはもう一年余り、僕らは誰も会つていない。僕らはだから、ただ好川の話をした。だが僕らの話題はそれも、「ロシナンテ」という古いよきグループで悪童のようにはしやぎまわつていた好川のイメージか、でなければその時降って湧いたように出現した、まるで健康そのもののようないくつかの作品の憶い出に限られた。彼のイメージや作品を、彼の不幸な死へ結びつける手がかりというものが、まるつきり僕らにはなかつたのだ。
 昭和二十九年の終り頃、好川誠一は、今の「現代詩手帖」前身である「文章倶楽部」の投稿詩人たちと共に「ロシナンテ」というグループを作つた。グループはたちまちのうちにふくれあがり、勢力的に雑誌を発行し、仲間喧嘩をやり、やがて少しずつ退屈になつて行つて、昭和三十四年に解散した。そして「ロシナンテ」というグループのこのような消長は、見るもの聞くものが面白いように詩に化けた時期の好川が、やがて似たようなものしか書かなくなり、そしてすこしずつ詩を書く意欲をうしなつて行く過程と、奇妙なほど歩調があつている。いつてみれば「ロシナンテ」というグループは、それほど好川の気質や気分に強く影響されていたということになるかもしれない。解散の話が出たとき、話を持ち出した男が調子ぬけしたほど、あつけなく解散がきまつてしまつた。
 「ロシナンテ」の解散後しばらくして好川は結婚し、好川による似た元気な男の子が生まれたその頃から僕らは、好川とは数あるほどしか会つていない。詩はもう僕らの共通の話題ではなかつた。今年六月の末、好川誠一が山梨で静養中、ノイローゼが高じて自殺したという知らせがあつたが、それ以上のことはなにもわからない。たしか三十才になつていたはずである。
 ここに紹介した作品のうち「花よ おかえりなさい」「あかごをうたう」「牧場に証人」「水平線へ叫ぶ」の四篇は「文章倶楽部」に昭和二十九年から三十年にかけて発表されたもので、好川誠一が十九才から二十才までの時のものである。これらの作品はいずれも唐突なほど明快で、不幸なほそ健康的であるが、逆にいえばこの明快さと健康さが彼を不幸な死へ追いつめたもにだと考えられぬこともない。しかし、それもただ僕の想像である。これらの作品のうちでは「あかごをうたう」が最も完成度が高く、「牧場の証人」は未知のイメージを大人の前で伏せてみせる少年のいらずらつぽい目をのぞくようなたのしさがある。残りの「障害物競走」と「本日は晴天なり」「処分」は「ロシナンテ」に昭和三十二年から三十三年にかけて発表されたものである。好川の作品に、彼が好んで描いた二つの世界がある。彼の故郷の福島の不物と、東京での職人の世界である。「ひげの生えたピーターパンから、ひげの生えてしまったピーターパン」と同人のひとりが彼を評したように、少年の目の無垢なイメージが急速に色あせて行くにつれて、彼の作品にはこの二つの世界が苦渋な饒舌をともなつて立ちはだかつてくる。
 後期の彼の作品に見られる饒舌の面白さは、たとえばその「実話風」語り口にあるが、これなどは、彼が職人の世界で自然と身つけたものであろう。よしんばそれが、いいふるされた駄じやれや捨てせりふで時にその生彩を奪われることがあるとしても、たとえば「菊の花のお浸し」とか「しんばし・チサ」のような人名が奇妙になまなましく感じられるのは、いわばっこのようなつぼにはまつた語り口や時宜を得たその持出しかたに負うところが大きい、そしてこのような芸の達者さが、逆に彼の詩の世界の奥行きの深い展開を妨げたともいえるのである。好川の詩にみられる饒舌さは、僕らが現代詩にみる饒舌さとはかなり質のちがうものである。好川誠一とその作品のについて過不足なく語ることは、今の僕には大へんむずかしい。