富永太郎(とみながたろう)1901〜1925
1901年 5月4日、東京市本郷区(現文京区)湯島新花町97番地に生まれる。富永謙治・園子夫妻の著長男である。父謙治は富永孫一郎・あやの五男として明治3年に生まれた。孫一郎は尾張藩の側用人、勘定奉行を勤め、逢山と号して詩歌・書に堪能の人であった。謙治は東京高等商業学校卒、太郎の出生当時は鉄道作業局(後の鉄道院)に鉄道書記として勤務していた。昭和25年5月23日没。母園子は明治9年生、美濃岩村藩物頭丹羽瀬氏の出で、父生照は富永孫一郎の甥、母志津は富永あやの妹に当る。簡斎、野梅と号して詩酒を好み、岩谷一六と交友があった。維新後太政官に出仕した。園子は立教女学校を経て女子高等師範学校を卒業、結婚後も国語教師として跡見女学校等に勤務した。昭和7年11月22日没。
1903年 本郷区金助町37番地にあり、7〜9月、同区駒込東片町の転ず。11月19日、妹ゆり子生まれる。
1906年 本郷区誠之幼稚園に入る。8月22日、妹菊枝生まれる。
1908年 4月、誠之小学校入学。
1909年 4月23日、弟次郎生まれる。
1912年 この頃駒込林町の小柳津信子に英語を学ぶ。
1914年 3月、誠之小学校卒業。4月、東京府立第1中学校(現日比谷高等学校)入学。同期生に蔵原惟人、村井康男がいた。
1915年 3月、一中学友会の「学友会雑誌」第70号に「将来の覚悟」が〈選抜文〉として掲載された。4月、小林秀雄、石丸重治、正岡忠三郎ら府立1中入学。12月、「学友会雑誌」第72号に「田舎」が〈懸賞文第2等〉として掲載された。この年丸山新町24番地に住み、小石川区戸崎町13番地に転移居。
1916年 11月30日、弟三郎生まれる。この年から翌年初めにかけて荏原区(現大田区)入新井村先入斗(いりやまず)1488に住む。またこの年、河上徹太郎が神戸1中より転入学、同期生となる。
1917年 豊多摩郡(現渋谷区)代々幡代々木よ富ヶ谷1456番地に転居。8月、「山陰道より」を書く。12月、「山陰道より」が「学友会雑誌」第77号に〈通信文〉として掲載された。
1918年 父謙治は青梅鉄道株式会社専務に就任。7月、「学友会雑誌」第78号に「予が尚友」が〈懸賞文第1等〉として掲載された。
1919年 3月、府立1中卒業。153中80番。斎藤寅郎の紹介によりすでに小林秀雄と識っている。9月、仙台の第2高等学校(現東北大学)理科乙類(ドイツ語)入学。「人生の意義を究めるため、まず生物学より基礎を造りたい」と父に語ったという。しかし次第に文学に親しみ、漱石、ショーペンハウエルなどを読む。正岡忠三郎も同時に2高理科甲類入学。12月、父謙治は鉄道院を退官。
1920年 4月謙治は青梅鉄道社長に就任。
1921年 この年より学制改革、年度開始4月となる。3月末、数学不出来のため正岡忠三郎と共に落第。この頃よりフランス文学に親しみ、正岡と親交を結ぶ。4月20日、ボードレール生誕100年を正岡と仙台大観楼に祝う、27日、ボードレール「道化とヸナス」を訳す。5月1日、ボードレール「射的場と墓地」を訳す。下旬から6月上旬にかけて、正岡と青根温泉に滞在。8月12日、正岡宛に、太宰施門「フランス文学史」の読後感として、高踏派へ共感を書き送る。13日、正岡と有楽座に新劇座公演「牧場の兄弟」(久米正雄)「夜の鳥」(瀬戸英一)を観る。17日、最初の詩作「深夜の道士」。9月4日、「夜の讃歌」19日、森徳座(仙台)に正岡とチャップリン「キッド」を観る。10月6日、ゴッホの画集を携えて正岡を訪問。10日、帰京中の正岡に、東京外語の規則書を依頼す。市役所吏員S家に「ドストエフスキーの評論」、フランスの詩集などを購入、外語在学中の1中同窓生に会い、8日帰仙。12月1日、「無題(ありがたい静かなこの、12日、謙治・太郎と共に仙台に赴く。両親には太郎とS夫人を結婚させる気持ちがあったが、S夫人は恋愛関係を否定す。15日朝、太郎・謙治・園子東京着。16日、謡を習い始める。
1922年 1月18日、ツルゲーネフ「父と子」を読む。20日あたりから1高の受検準備を始めるが進まない。ツルゲーネフ「ハムレットとドンキホーテ」を読む。21日、正岡と明治座に河竹新七「籠釣瓶花街酔醒」を観る。2月13日、正岡と帝劇に山本有三「女親」、武者小路実篤「或る日の素盞鳴尊」および、舞踊「新通小町」「女殺油地獄」を観る。14日、正岡と三越に石井鶴三らの版画展覧会、次いで新富座に羽左衛門の「大野淀君」「紅葉狩」を観る。3月初旬、チエホフ「妻」を読む。5日、有楽座に研究座のヴェデキント「地霊」公演を観る。18日「影絵」、同日より1高入学試験、失敗。28日「無題」(月青く人影なきこの深夜)」4月、東京外語国語学校仏語部入学、同月「大脳は厨房である」、25日、ボードレール「港」を(7月に改訳)訳す。5月7日、ボードレール「酔へ!」、11日、同「Anywhere out of the world」を訳す。19日、正岡と農商務省陳列館にヴラマンク、ルドンなどの「仏国現代絵画展」を、次いで市村座に歌舞伎「太刀盗人」「真影累ヶ淵」「忠直卿行状記」などを観る。20日、正岡とギャラリーのジンバリスト演奏会、クロイツェルソナタなどを聴く。27日、正岡とティムシュの演奏会、ムーンライトソナタなどを聴く。28日、小石川の野島邸んい正岡と岸田劉生個人展を観る。デッサン「村嬢の図」に惹かれる。6月上旬、正岡宛書簡「退屈が本当の事と思う」。27日、正岡に宛てて、不眠を訴える。7月1日、ボードレール「港」改訳。8日、正岡と帝大青年会館に三角座の公演を観る。9日、正岡おと渋谷の「とんぼや」にロシアバレーの絵の展覧会を観た模様。12日、バクストのバレーの画集、グレーフェのルノアールを携えて正岡を訪問。13日、ボードレール「計画」を訳す。同「窓」もこの頃か。17日、正岡と新富座に河竹黙阿弥「髪結新三」を観る。23日、正岡、江沢省三とピアストロ演奏会を聴く。同日夜大島旅行に出発。8月12日帰京、「霊岸島着船」の構想あり。20日、21日、青梅日向和田(ふなたわだ)にある富永家の別荘に泊まる。この頃新富座に岡本綺堂「薩摩櫛」を観る。またツルゲーネフ「その前夜」、志賀直哉「暗夜行路」などを読む。この月、妹ゆり子は東大農学部講師浅見与七と結婚。9月23日、正岡と二科展へ行き、有楽座に「ガリガリ博士」を観、市村座へ回る。24日、正岡と院展を観、歌舞伎「太閤記」その他を観る。この月「無題(ただひとり黎明の森を行く)」。10月11日、正岡に宛てて、不眠を訴える。「飛行機雑誌」に翻訳をする。学校は欠席がちである。29日、朝仙台着、正岡を訪問。共に向山を散策し、夜映画「リゴレット:(前編)を観る。30日、正岡と「ガリガリ博士」を観、31日、夜行で帰京。11月22日、正岡宛書簡、「暗夜行路」を読んでいる。27日、「無題(幾日幾夜の 熱病の後なる)」制作、30日付けで正岡に送付。12月15日、東洋キネマに「白痴」を観る。この頃、「横臥合掌」。
1923年 この頃正岡宛書簡に保津黎之介の名を用いる。1月7日、正岡と市村座に音羽屋の岡村柿紅「棒しばり」を観る。9日、ハイネ「Buch der Lieder」「啄木遺稿」を読む。2月8日、「中央美術」2月号所載の高橋新吉「『夢を食ふ人』と著者へ」「Dは」を読む。9日、金春館にカイゼル原昨日活映画「朝から夜中まで」を観る。3月、外語入学以来再度の仙台旅行。9日仙台着、10日、正岡と湯の浜温泉へ。16日、二葉楼で芸妓〆子と遊び興じる。かねて病気中の正岡の父君衰弱との電報により、18日朝湯の浜を出発、夜仙台着。正岡は松山へ帰り、太郎は仙台に残った模様。この月、出席日数不足のため落第決定か。以後実質的に休学状態となる。4月5日、東京で佐藤春夫「我が1922年」を携えて正岡訪問。8日、正岡、江沢省三と上野にマチス、ピカソ、ローランサン、ドニなどの「仏蘭西現代展」を観る。15日〜30日、祖母志津とともに伊豆長岡温泉に滞在。この間「即興」を得る。この月「Colloque Moqueur」、「ゆふべみた夢(Etude)」。またボードレール「或るまどんなに」の訳稿この頃か。この頃、大森の「川端研究所」に、後、本郷区菊坂町「菊坂洋画研究所」に通う。5月1日、「即興」を仙台の正岡宛書簡中に記す。3日、正岡へ電報、クライスラー演奏会へ招く。4日、正岡と同演奏会。5日、正岡と市村座に鶴屋南北「東海道四谷怪談」を観る。13日、正岡宛書簡、精神病院入院中の外語同級生のために尽力す。費用その他の件で度々福士幸次郎を訪ねるが、自分が詩を書いていること言わない。23日、正岡宛書簡中に「警戒」、24日〜31日、「忠告」下旬「晩春小曲」。「熱情的なフーガ」初稿。下旬よりボードレール「人口天国」の翻訳1日1枚を日課とす。26日、かつて英語を習った小柳津信子と渋谷で再開。6月6日、小柳津信子を訪問。14日、正岡宛書簡、「人口天国」を出版、S夫人に献げたいという。15日付で父謙治は青梅鉄道社長を自任。18日、村田美都子(田村たつ子)を訪問。同日正岡宛書簡、「今散文詩が2つ出来かかっているんだが、それを書き上げるだけの根気がない」。20日、代々木初台でパイプを13本購入。咳が出、近所の医者から右気管支がいたんでいると言われる。29日、正岡の許に散文詩、ボードレールの訳詩2篇届く。「忠告」の他「警戒」清書、「美しき敵」がそれに当るか。30日、岩野泡鳴「秘密的半獣主義」を読む。7月28日、正岡と浅草並木亭に落語を聞く。この月「俯瞰景」「癲狂院外景」。8月初旬、調子-高浜ー仙台を旅行。11日帰京、直ちに木挽町の冨倉徳次郎を訪問。上海行きの計画あり。福士幸次郎WP訪問。16日、正岡に上海行きの計画を告げ、賛成を得る。この月、ボードレール「午前一時に」訳稿。9月25日、正岡と4度目の仙台旅行。26日仙台着。30日、正岡と松島、桂島へボートを出す。10月4日、正岡たちと台ヶ原行き。5日朝仙台発。帰京。29日、父に上海行きの許可を得る。同日付で父謙治は青梅鉄道専務を辞任。11月17日、京都泊、18日神戸泊、19日頃神戸を出帆、22日午後上海着。呉淞路226、日の丸館に宿る。27日、同2039のRoach方に移る。28日、正岡に「人口天国」の訳稿を送るよう依頼。「ここの日本語雑誌に或ひは載せて貰へるかも知れない」。12月8日頃から上海日日新聞の社長と社員にフランス語を教えて食費とす。12日、弟次郎から版画や村山知義らの美術団体「マヴォ」の図録が届く。20日、次郎宛自作の画「女と子供の肖像」「庭の風景」、油絵、カンバスを送るよう依頼。
1924年 1月末日頃、結局自活の見込立たず乗船、帰国の途につく。2月3日頃神戸着、京都の冨岡徳次郎の許に1週間ほど滞在、10日東京着。21日、正岡宛書簡、「今度絵を始めようといふことになってしまった」。同月「画家の午後」、およびボードレール「芸術家の告白祈禱」翻訳あり。3月、「煙草の歌」。4月「原始林の縁辺に於ける探検者」「手」。同月、正岡は京都大学経済学部入学。5月2日、村田美都子を訪問。17日、三越にマチス、マイヨール、ヴラマンクなど中央美術の仏蘭西展を見る。京都へ「遁走」の希望あり。6月20日、小柳津信子訪問。30日夕刻京都着、浄土寺西田町96の正岡の下宿に滞在。同日小柳津信子は拒食による衰弱のため死す。7月、上旬、英語の家庭教師の口が見つかる。31日、夜行で点呼のため帰京、しかし点呼には遅れる。この月「橋の上の自画像」8月6日、家に無断で再び京都へ。12日、妹ゆり子に辞書、原画などを送ることを依頼。16日、再度点呼のため帰京、22日東京発、23日京都着。この月「Pantomime」。9月3日以前、下鴨宮崎町仲ノ町下鴨郵便局下ル西野善一郎方に移転。14日、村井康男宛書簡、第7次「新思潮」発表の村井「或る朝」を評す。下旬、斎藤寅郎を通じて小林秀雄から「青銅時代」同人加入を勧誘される。27日、小林宛間合わせ。小林はランボオ「秋」(「地獄の季節」)の一節を送る。10月1日、村井康夫宛書簡、「描く絵も描く絵も、所謂『習作』に堕してしまふ」。同日、中原中也と岡崎の第二勧業館に中央美術主催の「フランス大家新作画展覧会」を見る。ローランサン、ブラックに感心す。2日、冨倉、正岡、中原と共に同展覧会へ行く。この頃より中原(当時立命館中学4年生)との交友しげくなる。11日、最初の喀血。20日、中原、正岡と版画展覧会を丸山病院3階に見る。この頃「秋の悲歎」、23日付で小林秀雄に、30日付で村井康夫に送る。この頃小林は石丸重治、永井龍男らと「青銅時代」を脱退、「山繭」の創刊決定を冨永に通知していた。11月15日、村井康男宛書簡「ダダイスト〔中原のこと-編者〕とのd’go^t に満ちたamitieに淫して40日を徒費用した」。25日、母園子に、26日正岡に、28日小林に帰京の意思を伝える。12月、1日付「山繭」創刊号に「秋の悲歎」「橋の上の自画像」を発表。1日、正岡と荷造り。正岡と文楽で文五郎の「三番叟」を観る。3日京都発、4日朝帰京。この頃ベリション版ランボオ著作集を入手。20日、麹町尾形医院でレントゲン検査肺尖を宣告される。この月「無題(冨倉次郎)」。またランボオ「饑餓の饗宴」を翻訳。「熱情的なフーガ」定稿、「無題(幾日行夜の)「無題(冨倉次郎に)」と共に「山繭」に発表を考える。
1925年 1月6日、正岡書簡、「激し放心状態が続いていた」。ペルシャ語習得の希望あり。上旬、「鳥獣剥製所」。11日、Y・Tに結婚申込、成功せず。15日、正岡宛に宮沢賢治「蠕虫舞手」の写しを送る。末日から風邪で臥床。2月、1日付「山繭」第3号に「鳥獣剥製所ー(1)報告書」を発表。10日頃正岡に退屈で死ぬと書き送る。15日、「山繭」第3号届かず、小林宛に依頼、併せてFrançis Poictevinの写しを送付。16日、小林「山繭」を送る。「鳥獣剥製所」好評である。この頃、喀血を疑い得る鼻血を見る。20日、正岡に「山繭」を送り、21日、小林宛に、「ポンキンの笑ひ」の感想を書く。22日、喀血。この月「四行詩(琺瑯の野外の空に)」「頌歌」。また「四行死(青鈍おまへの声の森に)」この月か。3月、1日付「山繭」第4号に「無題(冨倉次郎に)」「四行詩(琺瑯の野外の空に)」「頌歌」「恥の歌」を発表、またボードレール「人口天国」(J.G.Fに。ハシーシュの詩ーⅠ永遠の味ひ、Ⅱハシーシュとは何か、Ⅲ熾天使の劇場)を訳載。3日、Y・Tを訪問、8日頃神奈川県片瀬2459番地に転地。19日以前、中原中也、長谷川素子と共に上京、豊多摩郡(現新宿区)戸塚町源兵衛195林方に居を定む。22日、正岡見舞に来る。4月、1日付「山繭」第5号にボードレール「人口天国」(ハシーシュの詩ーⅣ人間神、Ⅴ道徳)を発表。6日、正岡来訪。正岡にCazotteのLe Diable Amouruxを貸すy。「断片」11日〜15日」か。26日、正岡来訪。この月「焦躁」「遺産分配書」。またこの頃ランボオ「労働者」「古代」「朝」「小説」「錯乱(1)」を訳す。5月、1日付「山繭」第6号に「断片」を発表。3日、代々木富ヶ谷の自宅に帰る。月末から肋膜炎を併発。7月、「Au Rimband」「ランボオへ」。来訪した小林に見せる。8月4日、正岡宛書簡。「1度よくなったが、前の方の肺に肺炎が起きてひどい目にあった」。10月11日、正岡宛書簡、志賀直哉「雨蛙」、ゴーゴリ「死せる魂」などを読んだことを知らせている。25日、大喀血。11月5日、家族より正岡に太郎危篤の電報。6日、正岡、冨倉着。酸素吸入の必要な状態であり、筆談しかできない。11日喀血。正岡、冨倉、村井が病床に付き添う。12日、午後1時頃、鼻にはめていた酸素吸入のゴム管を自分の手で取り去る。「ちゅうさん、ちゅうさん」と2言。1時2分没。享年24歳。13日昼納棺、同日夕刻中原来る。14日、2時出棺、代々幡火葬場にて荼毘に付す。12月21日、富永邸に村井康男、小林秀雄、中原中也、小出忠雄(外語同級生)、加藤利美(洋画家)会し、遺稿出版の件を村井に委ねる。
1926年 11月、「山繭」は富永太郎追悼号刊行。
1927年 8月、村井康男編、家蔵版「富永太郎詩集」刊行。
『富永太郎詩集』富永太郎(富永次郎刊/1927)
『富永太郎詩集』富永太郎(筑摩書房/1941)
『富永太郎詩集』富永太郎(創元選書/1949)
『富永太郎詩集』富永太郎(創元文庫/1951)
『定本・富永太郎詩集』富永太郎(中央公論社/1971)
『富永太郎詩画集』富永太郎(求龍堂/1972)
【秋の悲歎】
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄
は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あ
れらのこんもりした貧婪な樹々さへも闇を
招いてはゐない。
私はただ微かに煙を擧げる私のパイプに
よつてのみ生きる。あのほつそりした白陶
土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻
をも惜しみはしない。今はあの銅色(あか
がねいろ)の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光澤
のない非道な存在をも赦さう。オールドロ
ーズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に
沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要り
はしない。風よ、街上に光るある白痰を掻
き亂してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都會を夢みはしない
――土瀝青(チャン)色の疲れた空に炊煙
の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸
を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐ
らゐは食へただらうか、それも知らない。
黒猫と共に残る残虐が常に私の習ひであつ
た・・・・・・
夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友
である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞
を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を、
私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女
の髪の中に挿し入つた私の指は昔私の心の
支へであつた。あの全能の暗黒の粘状體に
觸れることがない。私たちは煙になつてし
まつたのだらうか? 私はあまりに硬い、
あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?
繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みか
ら生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジ
オ・ノミー)をさへ點檢しないで済む怖ろ
しい怠惰が、今私には許されてある。今は
降り行くべき時だ――金屬や蜘蛛の巣や瞳
孔の榮える、あらゆる悲惨の市にまで。私
には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝
生の堅い斜面に身を委せよう。それといつ
も變らぬ角度を保つ錫箔のやうな池の水面
を愛しよう・・・・・・
私は私自身を救助しよう。
【焦燥】
母親は煎薬を煎じに行つた
枯れた葦の葉が短いので。
ひかりが掛布の皺を打つたとき
寢臺はあまりに金の唸きであつた
寢臺は
いきれたつ犬の巣箱の罪をのり超え
大空の堅い眼の下に
幅びろの青葉をあつめ
棄てられた藁の熱を吸ひ
たちのぼる巷の中に
青ぐろい額の上に
むらがる蝿のうなりの中に
寢臺はのど渇き
求めたのに求めたのに
枯れた葦の葉が短いので
母親は煎薬を煎じに行つた。
【遺産分配書】
わが女王へ。決して穢れなかつた私の魂よりも、
更に清浄な私の両眼の眞珠を、おんみの不思議な
夜宴の觴(さかづき)に投げ入れられようために。
善意ある港の朝の微風へ。昨夜の酒に濡れた
柔かい私の髪を。――蝋燭を消せば、海の旗、陸の旗。
人間は悩まないやうに造られてある。
わが友M***へ。君がしばしば快く客となつてくれた
私のSabbat洞穴の記念に、1本の蜥蜴の脚を、すなはち
蠢めく私の小指を。――君の安らかならんことを。
今日もまた、陽は倦怠の頂點を燃やす。
シエヘラザードへ。鳥肌よりもみじめな一夜分の私の歴史を。
S港の足蹇(あしなへ)へ、私の両脚を。君の両腕を
断つて、肩からこれを生やしたまへ。私の血は想像し
得られる限り不純だから、もしそれが新月の夜ならば、
君は壁を攀(よ)ぢて天に昇ることが出来る。
***嬢へ。私の悲しみを。
賣笑婦T***へ。おまへがどれほど笑ひを愛する被造
物であるかを確かめるために、両乳房(ちち)の間に
蠍のやうな接吻を。
巖頭に立つて黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢を。
――紫の雨、螢光する泥の大陸。――ギオロンは、
夜鳥の夢に花を咲かす。
母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。
幼年時を被ふかずかずの抱擁(だきしめ)の、沁み入る
やうな記憶と共に。
泡立つ春へ。Pang! Pang!
【夜の讃歌】
地は定形なく曠空しくして黒闇淵の面にあり
神の靈水の面を覆ひたりき ―― 創世記(01:02)
暗闇(やみ)の潮、今満ちて
晦冥の夜ともなれば
假構の萬象そが閉性を失し
解體の喜びに醉ひしれて
心おのゝき
渾沌の母の胸へと歸入する
窓外の膚白き一樹は
扉漏(とぼそ)る赤き灯(とぼし)に照らされて
いかつく張つた大枝も、金屬製の葉末もろ共
母胎の汚物まだ拭はれぬ
孩兒(みどりご)の四肢の相(すがた)を示現する。
かゝる和毛(にこげ)の如き夜は
コスモスといふ白日の虚妄を破り、
日光の重壓に、
化石の痛苦味ひつゝある若者らにも
母親の乳房まさぐる幼年の
至純なる淫猥の皮膚感覚をとり戻し、
劫初なる淵(わた)の面より汲み取れる
ほの黒き祈り心をしたゝらす・・・・・・
おんみ、天鳶絨の黒衣せる夜、
香油(にほひあぶら)にうるほへる、おんみ聖なる夜、
濕りたる我が双つの眼(まなこ)を
おんみの胸に埋むるを許したまへ。
【ゆうべみた夢(Etude)】
花の散つてゐる街中の櫻竝木を通つてゐ
た。灯ともし頃であつた。妙な侘しさに追
ひ立てられるやうな氣持で、足早に歩いて
ゐたやうだつた。
道の左手に明るいカフェが口を開いてゐ
た。入口に立つて覗くと、酒を飲んでしや
べつてゐる群の中に知つた顔が二三人見え
た。あまり會ひたくもない人たちだつたの
で、僕はしばらくそこに立つたままでゐた。
そのとき奥の勘定臺のわきの壁に倚りか
かつてゐたNが眼に入つた。中學のとき同
級で、海軍兵學校に入つてゐるうちに肺炎
か何かで死んだ男だ。むかうでも僕をみつ
けたものと見えて、むかしした通りに、頑
丈なからだを少し前のめりにし、新兵のや
うに二の腕をぶらぶら振りながら、うれし
さうにこつちへやつて来た。僕もへんにう
きうきした氣持になつて、いきなりその胸
の厚いからだを抱きしめて額に接吻した・・・
突然、豫期しない不快な感覺を顔面に覺
えて手を放してみると、Nの半面は髪の毛
から眼の下へかけて一面に褐色のどろどろ
した液體で被はれてゐる。しかしその液體
の不快な觸感を顔に感じてゐるものはたし
かに僕である。夢の中ではこのことが少し
も不自然ではなかつた。Nは僕の顔にその
液體を吐きかけたのでもなければ、僕の口
から出たその液體を吐きかけられたのでも
ないやうに、平静な顔に、うれしさうなう
す笑ひを浮べてやつぱり僕をみつめてゐる。
しかし僕はもう一度彼を抱きしめる氣にな
れずに、ぼんやりそこに立つたまま、よご
れた彼の顔を眺めてゐた。
【無題】
幾日幾夜の 熱病の後(のち)なる
濠端のあさあけを讃ふ。
琥珀の雲 溶けて蒼空に流れ、
覺めやらで水を眺むる柳の一列(ひとつら)あり。
もやひたるボートの 赤き三角旗は
密閉せる閨房の扉をあけはなち、
暁の冷氣をよろこび舐むる男の舌なり。
朝なれば風は起ちて、雲母(きら)めく濠の面をわたり、
通學する十三歳の女學生の
白き靴下とスカートのあはひなる
ひかがみの青き血管に接吻す。
朝なれば風は起ちて 濕りたる柳の葉末をなぶり、
花を捧げて足速に木橋をよぎる
反身(そりみ)なる若き女の裳(もすそ)を反(かへ)す。
その白足袋の 快き哄笑を聽きしか。
ああ夥しき欲情は空にあり。
わが肉身は 卵殻の如く 完く且つ脆くして、
陽光はほの朱(あか)く 身うちに射し入るなり。
【警戒】 C.M.に
醉ひ痴(し)れて、母君の知り給はぬ女の胸に
あるとき「ここにわが働かざりし双手あり」の句
を君の耳もとにささやき、卒然と君の眼の中に、
母君の白き髪と額の皺とを呼び入れるものは何で
あるか。心せよ、これこそ、世界の構成の最下層
から突き出でて、君の心臓の内壁にまで達する、
かのへらへらとした氣味あしき觸手の、節奏なき
運動の効果なのである。人はこの觸手の存在に氣
付くことがあまりに少なく、しかもそれらのため
に「ちよろりとやられてしまふ」ことがあまりに
多いのである。されば友よ、(君は尊敬すべき生
活の殉教者だ)、まづ空間を横ぎるそれらの黒い
線條の存在に注意しよう。そして、卑しむに堪へ
たるかれらの機能に對して、心からの敵意を以て
警戒しようではないか。
【熱情的なフーガ】
七月の日光の
多彩なるアラベスク。
七月の日光の
覆された坩堝。
白晝の星より
女人の肉(しゝむら)は墜つ。
このロココ宮殿の
脚を斷て。
赭(あか)き肉は
宙宇に倒(さかしま)なり。
大理石(ためいし)の噴泉の
唇を噛め。
多彩なるアラベスク。
覆された坩堝。
立ちならぶ電柱は
火を發す。
【俯瞰景】
溝ぶちの水たまりをへらへらと泳ぐ高貴
な魂がある。かれの上、梅雨晴れの輝かし
い街衢の高みを過ぎ行くものは、脂粉の顔、
誇りかな香りを放つ髪、新鮮な麦藁帽子、
氣輕に光るネクタイピン・・・・この魂にとつ
て、一日も眺めるのを缺くべからざる物ら
の世界である。さて、かれは、これらの物
象の漸層の最低底に身を落してゐる。輕装
の青年紳士の、黒檀のステツキの石突と均
しく位してゐる。しかも、かれは、この低
みから、すべての部分がかれの上に在るあ
の世界をみおろすことのできる、不思議な
妖術を學び得た魂である――この屈從的な
魂は。
【手】
おまへの手はもの悲しい、
酒びたしのテーブルの上に。
おまへの手は息づいてゐる、
たつた一つ、私の前に。
おまへの手を風がわたる、
枝の青蟲を吹くやうに。
私は疲れた、靴は破れた。
【橋の上の自畫像】
今宵私のパイプは橋の上で
狂暴に煙を上昇させる。
今宵あれらの水びたしの荷足(にたり)は
すべて昇天しなければならぬ、
頬被りした船頭たちを載せて。
電車らは花車(だし)の亡靈のやうに
音もなく夜の中に擴散し遂げる。
(靴穿きで木橋を踏む淋しさ)
私は明滅する「仁丹」の廣告燈を憎む。
またすべての詞華集(アンソロジー)とカルピスソーダ水とを嫌ふ。
哀れな欲望過多症患者が
人類撲滅の大志を抱いて
最期を遂げるに間近い夜だ。
蛾よ、蛾よ、
ガードの鐵柱にとまつて、震へて
夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。
咲き出た交番の赤ランプは
おまへの看護(みとり)には過ぎたるものだ。