山田孝(やまだたかし)1926〜1954
中華民国天津市に生まれた。同地の小・中学校を経て、1952年、早稲田大学英文科卒業。1950年、詩誌「時間」同人参加。詩作品を「時間」「詩学」「SETTE」などの詩誌、並びに創元文庫「日本詩人全集」第11巻 『時間詩集』、紀伊国屋書店発行「机」などに発表。1953年、東京家庭裁判所の入試に首席、同所の少年調査官補となる。1954年3月、癌疾にて死去。
『かっぱの皿』山田孝(時間社/1954)
【むかで】
全部の足に靴をはきたい。
【いたち】
われわれの放つガスは、ついに原子を破壊する段階に到達した。
【蛇】
とぐろの中で、蛇は、瀟洒なステッキのように直立している自分を空想している。
【なめくじ】
死ぬほど塩がきらいなので、なめくじは塩がふつてくると、地上から消え去りたいと一心に祈る。
ほんとになくなつてしまう。
*
石の上でとけ去つたなめくじ。石はみななめくじの墓である。
*
流し場を舌が這つている。口を漱ぐときおっことした。
【もぐら】
死しか考えられない。自ら掘つた墓穴の中で生きている。
*
秋の黑土はひんやりと冷い。盲目のもぐらのためにないている虫の音。
*
醜怪な容貌が氣弱なもぐらの心を傷めた。
地上に姿をあらわせないで、土塊のかげからコスモスの花を眺めていた。
*
掌がスコツプになつている。
【龜】
日夜背中が痛むのは、甲羅ができかけているのだ。
悲しみの甲羅ではあるが、火刑に処せられてもそれだけは殘る甲羅なのだ。
【とんぼ】
とんぼの円い眼には、人間の姿が歪められてひどくグロテスクにうつる。
とんぼの円い眼の上を洋服をきた爬虫類が腰をのばして歩きまわる。とんぼはうなされて眠れない。
【鳩】
朝日をこぼさぬように、翼の中にためて歩いている鳩。
鳩雑炊が好きな祖父は冬になると鳩を買つてくる。
祖母が日向ぼつこをしながら毛をむしつてタンポポのようにまきちらす。
最も古い鳩の記録は、紀元前三千年頃第五エジプト王朝時代。
それ以前の王朝時代の料理の献立表(メニユー)にも鳩は記載されている。
鳩は鳩の歴史を知らない。
ガリラヤの青い空をとぶ鳩のなき声を、イエスは、どんなにか愛したことであろう。
平和の象徴である鳩が、戦争に出て勲章をもらつたことがある。
戦争と平和はよほどまぎれやすいとみえて、カードのように時々すりかえられる。
ダーウインは云う。「熟練した愛鳩家となるには、天賦の才能と多年の実習が必要である。」と。
まして人を愛するには……。
【微笑】
一匹のどじょうがいた。
仲間と一緒に流れを散歩していた時、美しいどじょうの娘とすれちがつた。
ひげとひげがふれ合つた瞬間、二匹は思わず身をかわしてそれぞれ雑踏の中にまぎれこんでしまつた。
どじょうは彼女の微笑にみちたひげを忘れることができなかつた。
彼女のひげとふれ合つた感觸がいつまでも自分のひげさきに殘つていた。
それいらいどじょうは自分のひげが大いに氣になり始めた。
少しでもひげが曲つたりゴミがついていると我慢がならなかつた。
ひげは彼女のひげと同じようにいつも小さな花の如く咲きほこつていなければならなかつた。
どじょうはなるべく身体を動かさないようにして自分のひげばかりみつめていた。
やがてひはやせはじめた。
どじょうはあいかわらずひげばかり氣にした。
どじょうはますますやせ細つて身体がなくなつていつた。
ひげだけが殘つてどじょうの微笑をいつまでもたたえていた。
【あしのうら】
あしのうらがふと空に憧れた。僕はつまづいてひつくりかえる。
【嫉妬】
大地はあらゆるあしのうらを愛する。
あしのうらにさわるとくすぐつたいのは、大地が嫉妬するからだ
【石】
「山火事」
石は何かの偶然で火を発するまで、千年の月日を待つていた。
「恋」
俺でも火を発することが出來るのかと、石がびつくりした。
【足】
石を蹴るのではない。石がとんでから、足が地面を蹴るのだ。
子供が出來てから結婚するように。
【空】
はれわたつた秋の野に出て、しばらくさかだちをしていた。
両手に地球を支えることができるのに、悲しみだけが支えきれぬかと。
【飢え】
▼
何も食べるものがなくなつて、両眼をのみこんでしまつた。
胃袋の壁しかみえない。
【祈る人】
▼
嘔吐している醉漢の恰好は、ひざまずいて神のもすそに接吻しているようだ。
【腕環】
じようだんに手錠をはめてみたら、とれなくなつてしまつた。
【雪】
小さな銀の鍵がふつてきた。天国の鍵だと掴んでみるが、掌の中で消えてしまう。
【水の歓喜】
ホースの水は脱皮した爽快さで路上にあふれる。なぎ倒される足。足。足。
【田園】
顔が昆虫に似たいと思うほど、草や樹木の肌に親しみを感じる。
【悲恋】
暁と夕は決して会うことができない。
【魚】
神に手足をささげた。
【散歩】
犬の鼻が窓からとびこんできて、ビフテキの上にのつた。
頭のない人間が、鼻のない犬をつれて歩いている。
【こうもり傘】
▼
黑いこうもり傘が雨に濡れていきいきした顔をしているのをみるたびに、きまつてひとりのおんぼを思い出す。
雨と死に本能的な嫌悪をいだかずにはおれないのだが、雨が降るとこの時とばかりこうもり傘が戸外へあらわれるように、
誰かが死んだというしらせを聞くや、あのおんぼはまつさきにかけつけて喜ぶのだ。
【こうもり傘】
雲が低くたれさがつて首筋のあたりに冷氣がからみついた。
誰もこうもり傘を忘れていなかつた。
雨が沛然とおそいかかると、霊魂の黑い花が頭上に咲きそろうのだ。
【羊腸たる道】
みんなヘソの緒をひきずつて歩いている。
25年の長さの。或いは50年の長さの。
それだけ長ければ細い道をみんなで歩くのだから、こんがらかつたりもつれあつたりすることも、しごく無理がない。
手綱をさばくように、ヘソの緒をさばいている。
【默契】
僕の眼と頭は仲がよすぎるほどいい。
眼がきれいな女をみて喜ぶと、頭はその女に関してかんばしくないことは一切考えないようにする。
【殘照】
かには、淋しくなると泡をふいて、無数の泡にとりかこまれる。
泡にはかにの顔がうつされるので、かには、無数の自分にとりかこまれる。
かには、上機嫌になる。尊大になる。恐れるものがないような氣になる。
無数の顔はだんだん大きくなり、やけぶくれのような歪んだ顔になつて、ついに消える。
みんな消える。
かには、朝からなんべん同じことを繰りかえしただろうか。
濱辺に夕陽がおちようとする。
かには、うごかなくなる。
【皿】
Ⅰ
人は土になり、土は皿になる。
よみがえりの皿よ。
Ⅱ
魂は皿のようにひびわれていたが、皿は魂のようにまどらかであつた。
【血と皿】
思いうかべるだけでも血は嫌だが、皿は楽しい。
だのに血と皿は不思議に字がよく似ている。
皿に血がつくと血になる。
純白な皿がわれると眞赤な血がほとばしり出た。
血の中に皿の破片がういて流れてゆく夢をみた。
【前進】
烈しい風に抗しながら、懸命に歩いていた。
小石をまじえた砂塵が顔を乱打する。
しやにむに歩いているうちに、左右の眼がだんだん両側にわかれて、顔のうしろへまわつてしまつた。
鼻も口も。
後むきになつたままで歩いている。
【文字判断】
豚がはいるのを家という。
なるほど、家庭の幸福とは豚の幸福に他ならない。
牛がはいるのを牢という。
なるほど、闘志にみちたコムミユニストは牛に似ている。
ところで、人がはいるのを穴という。
人が人たらんとすれば、二つに裂かれて墓穴に葬られる時代である。
【牛のいる風景】
―三つの時期―
Ⅰ
はてしない空にはてしない草原が続いている。
過去はお前の胃袋ではとても消化しきれなかつた。
歪んだ口もとから涎をたらしながら、お前はただキカイ的に過去を反芻している。
Ⅱ
緑色の牧場の上にほっかりと白い雲が浮いている。
お前がとりかこまれている風景は、反芻されている過去の再現にすぎない。
お前はこの風景の外にかつて生きていた。
Ⅲ
緑の牧場に白い雲。そしてお前の柔和な瞳。
なんという平和な風景だろうか。
しかし、緑の牧場も白い雲も、お前の瞳にだまされている。
お前は、この風景の外に出る爲、眞紅の太陽を二つの角にかけて殺さねばならないと、そればかり思つている。
お前は、今も、太陽の光をまぶしげにうけ、瞳を柔和にふせている。
【人間改造】
人間の身体に血が流れているうちは、戦争は決してなくならない。
血の代りに水でも流れているといいのだが、それではあまりにも人間性が水つぽくなつてしまう。
血の代りに乳が流れるといい、もともと乳は白い血なのだから。
なぜこれまで心臓が乳房になつて乳を流さなかつたかといえば、毛のはえた心臓がふつくらとした乳房になることを、ひたすらてれていたのだ。
この心臓のはじらいはなくならないものだろうか。
心臓よ、ひとつ高いがけからとびおりるようなつもりで乳房になつてしまえ。
すると、破れることのない平和がやつてくるのだ。
【魚の言葉】
深く息をすると、そのまま眞珠の玉のように完璧な言葉があらわれる。
魚は完璧な言葉しかしやべらない。
この完璧さは水中だけのものである。
地上にはあさわしくないので水面に達すると同時に消えてなくなる。
【とび魚】
魚にとつて歩むことは、もつとも聖なることである。
歩みたい衝動にかられると、空をとんでいる。
【海】
魚のいない海は死んでいる。海の広大。海の深遠。
海は魚族の涙で溢れている。
【庭】
水は蛙をさへ瞑想にふけらせる。
石上の蛙はいつのまにか陶器になつていた。
【蝿】
塵芥と汚物を愛しつづけてきたことに悔はない。
太陽の光の中につつまれて眼を閉じている。
【黑と白】
蟻が砂糖を好むのは、甘いからではない、白いからである。
罪にまみれた人間が神をもとめるように。
【水桶】
くさりかけた水桶であるが、なめくじにとつては世界である。
なめくじがとけ去る寸前になつかしく思いおこす世界である。
【牧師】
ヘソは神のようなものである。
腹にやどるべきであつてしかもどこにもないものである。
【オフィス・ガール】
この肌の上にビニールをはおつたらおかしいかしら。
でも、あの人それが文明というものだとか云つていたわ。
【大學生】
おたまじやくしは水中にばかりいた。
蛙となつて陸へ上れるようになつたが、いつまでも水中に未練をもつことは反動的である。
水に入ることを断念せよ。
【牡蠣】
かきはみんな発狂している。
白い柔い肌にこの頑固な鎧をつけねばならないほど、敵というものが恐かつた。
しかも敵などはいなかつた。
【海の思想】
二匹の鯨がいる。
一匹は、壯年の大鯨で威風ならびなき海の王者である。
二十匹ほどの牝鯨をしたがえ、時々その周囲をまわりながら海洋を游泳している。
後宮の美姫を従えての豪華な漫遊である。
たまたま若い鯨が通りかかつて、あつかましくもその愛妾たちの一匹に近ずいてなれなれしくしようものなら、忽ち顎をかみあう決闘となる。
この海の王者はどれほどの恋敵をその勇武によつてうち碎いたであろうか。
愛妾にとりかこまれながら蕩然と赤道を歩む海の王者である。
それにくらべて他の一匹はなんと不幸な鯨であろうか。
生涯胃腸病にとりつかれてはなはだしい消化不良に悩み、鯨としての活動を全く失つた壊(くず)れ鯨である。
殆ど全身は腐敗しかけ自らもたえがたいほどの悪臭をはなちつつ、ただ一匹なかば沈みなかば浮いているこの哀れな鯨にとつて、海は、巨大な病院であり、墓地に他ならない。
しかし、誰が思い及ぼうか、この屍のごとき鯨のくさりはてた腸の中から、天上の香りともいうべき龍涎香がとれるということを。
これから、無数に生れ出る新しき鯨よ。おまえたちは、鯨としての榮華、鯨としての豪奢を満喫しようとするか。
あるいは、鯨としての悲惨、鯨としての破滅にたえ、なおも鯨のあずかりしらぬ至上の攝理に従うか。
無数の新しき鯨の瞳にうつる、鯨の思念をこえた海のはてしなさよ。
【ひげと詩】
わが詩はわがひげである。
いかに体重がへろうと、ひげだけは決してへりはしない。死とい
えどもひげの成長には一目おいているようだ。
*
ひげをそることと詩をつくることは同じことである。
毎朝ひげをそりながら、まるでひげをそる爲に生きているような錯覺におちいるが、それはやはり錯覺ではない。
*
わがひげがユーモラスであるごとく、わが詩もユーモラスであり、わがひげが深刻であるごとく、わが詩も深刻である。