菅原志津(すがわらしづ)1934〜1951
山形県西田川郡上郷村(現鶴岡市)生まれ。1939年、母玉惠産褥熱のため死亡。1946年、藤村操の話を聞き「人生不可解」について考える。1948年、教室で『パンセ』を読み、教師に’このような本はまだ早い’と叱られる。1949年、キリスト教講演会に出席感激し、キリスト教への回心を告白する。1950年10月、糖尿病のため入院。退院したが翌年1月に再発し休学。4月3日永眠。
『夜空に星をつける 菅原志津遺稿集』菅原志津(菅原志津遺稿刊行会/1951)
【お星樣】
友達いぢめて母樣に
しかられていた七つの子
そつと見あげた母樣の
ひとみにきれいなお星樣
だまつてお目々をみていたら
やさしくにらんだ母樣の
ひとみになさけのおほし樣
ぴかぴかたくさん光つてた
遠いおそらのあのうえの
夕べのきれいなお星樣
うるんで光つた母樣の
ひとみにやつぱりにておつた。
母樣去つたそのあとも
じあいにこもるまなざしが
今もわたしのおもい出に
秘めたきれいなお星樣
【子守つ子】
一人しよんぼり子守つ子
ねんねよねんねよい子には
たいこのおみやげあげようか
はるのたんぼのあぜみちに
ぐつすりねこんだげんげ草
小さな花がゆれていた。
一人かなしく子守つ子
かみをむしられ日はくれる
子守つ子が赤ちやんと
そつとなみだをぬぐつていた
遠くの森でかんこどり
ぽつんとさびしくなき出した。
ねんねんころりよ
おころりよ
たんぼのあぜであそんでた
いばり姿のいぢめつ子
みんなかえつて夕方の
工場の汽笛のなるころに
一人しよんぼり子守つ子
そつとなみだをぬぐつて居た。
【ダリヤ】
あの方は默つて歩み去つてしまつた
どんよりと
灰色のさびしさが、よどんでいるばかり
裏庭の垣根ごしに
鮮血(ち)の樣に眞つ赤なダリヤが一輪
小刻みにふるえていた。
その時さびしい灰色の微笑が
あの方の口もとをゆがんで見せた。
「さようなら」
つぶやく樣に言つたまま
あの方は靜かに歩み去つてしまつた。
日輪が三度めぐつて……
ダリヤは、褐色の地上に
そのなまめいたむくろをよこたえて
雨は、ひどく降りすさんでいた。
「うん、自然(あたりまえ)の事さ」
もちろん人は一滴の涙さえ
流してくれはしない。
今もあたらしく生きて來る
行きし日の終りの言葉
「あの花の赤さ、何だかとても気になるんだ」
落日の樣に
あの方は靜かに歩み去つてしまつた。
【恋】
生命がけの恋をしなさい
若き花達よ
誇りもて受けよう、青春(はる)の杯
鮮血にまみれて、はだけたあなたの胸に
爛熟した柘榴の実の樣な生傷が
かつと大きな口をあけている
黒絹の眞暗に
愛するもののよろこびの瞳が
あやしく燃えていた
醉いのさざめく青春のうたげは
流れゆく泡よりもはかない
懊悩と
悔恨と
そのかなしみは
あなたの水色の墓石に刻みこまれて
永遠に、失せることをしないだろう……
生命がけの恋をしなさい
若き花達よ
眞実(まこと)もて受けよう、苦き杯
かつて眞昼の星がきらめいた時
限りなき、にくしみと悲しみに
愛の燈が
げつそりとやつれた、あなたの魂を
あつたかく抱いてくれた
しかし無惨に傷ついたあなたの墓石が
眞珠の雨でひどく崩れていたことは
誰も知らないのです
生命よ
熱情よ
なおさびしさに秘められたよろこび
絶望の底をゆく一條の光が
必死に生きるものの貴さを……。
【銀の針】
ひともとの銀の針
無気味な――せいじやく――
つめたい雪の樣な感情――繊細な魂の瞳
理性のひらめき――
銀の針の敏感――するどい感受性――
――なみだ――
――よわさ――
――ヴイナスの曲線――
――ひともとの銀の針――