及位覚(のぞきさとる)1952~1983
1952年11月29日、農家の三男として秋田県山本郡八竜村に生まれる。父清(きとし)、母ユキ、長兄一清(かずきよ)、次兄典司(友川かずき)。「まるでおとなしくて女の子のようであった」とは、母の言である。
1957年、四男友春(ともはる)生まれる。
1959年、八竜村立湖北小学校に入学。4年の時典司の不注意で兎の草を刈っていて草刈鎌でアキレス腱を切断、破傷風になり50日間もの間生死の境をさまよう。「回想」はその時の記憶をもとに書かれた作品である。
1965年、町制施行。八竜町立鵜川中学校入学。2年の時、生徒会議長を務める。3年間野球部に籍を置き、セカンドとリリーフピッチャーを務める。
1987年、秋田県立能代農業高等学校入学。野球部に籍を置き、リリーフピッチャーを務める。自宅から学校まで25キロの道を時に走って通学。動物に異常なまでの愛情を示し、学校で病弱な仔牛を麻袋に入れて連れて来たり、仔豚をカバンに入れて自宅へ連れて来て、毎日面倒をみていた。
1971年、高校を卒業と同時に、家に居るようにとの父母の説得を振り切り家出。函館で警察に補導され、出向いた父母についには折れ、函館の森牧場に就職。詩編をノートに書き始める。
1973年、千葉のマザー牧場に就職。文学書の乱読、自己の確立を夢みる。やがてそこを辞め、長い放浪生活に入る。一時期私(友川)の近くのアパートに住んだりいとこの及位公英と住んだり横須賀の海上自衛隊に入隊したり、また私と同じアパートに部屋を借りて住んだりしたが、26歳の時再び放浪の旅に出た。『及位覚遺稿詩集』は、26歳までの大学ノート20冊あまりに書かれた詩編100篇あまりから選出されたものである。私の拙文にも記したが26歳から死までの4年あまりの間にも書いて放浪して歩いた地名も26歳までに、彼の口から聞いただけでも、全国的にかなりの数であった。坂口安吾、アルチュール・ランヴォ、種田山頭火に心を馳せ、酔うとよくその名を口にしていた。そのあと決まって、「オレは年喰い虫だよ」とぼそっと口グセのように話し煙草をさみしそうに吹かしていた。なめ茸の缶詰が好物で私の部屋で一緒に食事をする時はよく持参してきた。納得出来ないものを内に山程抱え込んでしまい、どこかへ逃げたい衝動にいつも怯え、何よりもわずらわしい自己に常に手を焼いている様子であった。酒乱の私に叱られ、破傷風の後遺症でビッコを少し引きながら私の部屋から帰って行く後姿を2階の窓から何度か見た。(1987年1月30日作成・友川かずき)
『及位覚遺稿詩集』永岩孝英篇(矢立出版/1987)
【猫】
猫がいる
言葉の思い出せない
小汚い毛をした猫がいる
真昼のするどい日射した
小憎らしく刺繍されたカーテンの花が炎えていようが
死ぬことも考らえれぬ猫がいる
生臭くタラタラと脂のこぼれている魚をくわえながら
ミェヤアーミェヤアーと細く夜にとおるような
己の声を闇にして
気味悪くもうっとり出来る感性を持った猫がいる
腹では可愛い子供が育っていると信じ込み
ガツガツと腐りかけたヘビをほおばって
誰一人として近づけぬほら穴で
ミェヤアーミェヤアーとなきながらうっとりしている猫がいる
【古里】
あたしの体にふれてごらん
古里なんか真赤な舌を出している空想さ
季節なんかありゃしない
凍え死んだ 青空に
加速された光のかけらが
メロディにあやされて
死んだ青空に飛び交い
厖大な憂いを遊ばしている
股ぐらからねじふせていた海が
ケラケラ笑って顔を出す
古里なんか
空想さ
真赤な舌を出しながら私を追いかけ
ウンウン呻く
空想さ
【盲腸の里】
私は私を追いかけていた
呻く茫漠の盲腸の里へ
ザーメン吐き出し
私は私を追いかけていた
何時なのか
溶けて蒸発して夢はなくなっていた
私は自分は風景なのだと思えた
そしてその度胸でケモノのだらしない大声をあげ
孤独の土地を意識のなくなるまで走りまわった
そこの死は笑わなかった
暗いのに気づかない闇だった
湿りも温みもない空気は体を浸し
私の中にしみてきた
愛は人の中にあるのだろうか
私は愛の屍をみたことがない
風景である私を太陽はかくし
光は心臟へ届こうとする
おびただしい小鳥の群れを舞いそらしながら
私は涙をこらえるのに疲れる
風景の流す涙は金属だった
消耗は私を眠らせ
絶望は貪欲を助け
ユードピアは切ない人の空想の極貧だと知った
肉体の連れ子のような
私の追いかけているのが
私だったのは知っている
【鬼】
たった一人の友達へ
鬼になりました
可愛い情をもって乙女の形相を変えさす
日に一度の笑みも猫の目のように
触れるものものには腕力の感を抱かせ
ほのぼのとした興奮を
粉々にうちくだく
けだものになりました