奥田盛善

奥田盛善(おくだもりよし)1914〜1941
愛媛県伊予郡中山町(現伊予市)に生まれる。松山市に居を移し、木原茂氏の感化により文学に趣味を覚える。松山商業学校卒業。在学中は文芸部の理事。この頃より相原重容との交遊が深まる。文学書の耽読は生来の性質に拍車を加え無虚的で暗い性格を作る。特に生田春月の作品に強い感銘を覚える。人間性の問題に当面して日夜「死」につき煩悶すること数年、後一女性との恋愛に更生する。「詩と人生」「裾野」「日本詩壇」「海圖」「山陰詩脈」に所属する。

『奥田盛善詩集』奥田盛善(奥田盛善詩集刊行会/1972)

【石鎚山】
石鎚の山は、いま私に或る大きな暗示を與へつゝある
物言はぬ峻峰の風貌 私は朝な夕なこれに對して
妻と二人、薄給のわび住ひ しかも人目を忍ぶこの小窓に
何時も變らぬは、石鎚の山とやさしき一人の友
部屋中に味噌汁の湯氣が立ちこめる頃、山は小窓に訪づれてくれる
その日ひねもす朗らかに仕事が出來る
嵐の日、山の見えない時は淋しい
だが、嵐の中に泰然とした姿をおもへば
血潮の躍動を勢づける何物かゞある………
生きる!
一椀の味噌汁も共にすゝり合ふ現在の苦闘を耐へて
最早、石鎚山の風貌は、私達の視野から一時も離れてはならない

【朝飯】
さあ朝飯だ
茶瓶のふたがかた/\鳴る
食卓の上に
漬物鉢が一つ

【漬物】
妻よ
お前は漬物をつくるのが上手だねえ
朝な夕な、貧しい食卓にのせられる
お前の心からのおくり物
直ぐ呑みこんでしまつてはいけない
よく噛みしめること
真実(ほんたう)の味が全身に覚えられる
妻よ
お前のつくつた漬物は美味ねえ
わたしは漬物ばかり食べてゐても
大丈夫、生きて行かれさうだよ

【愛するものへ】
闇の底に
お前をのせた車が見えなくなつてからもういくつき
遠く離れてはをるが
をんなよ
わたしはお前の息吹きを知り
五体をめぐる血潮の躍動を知る
それは、冷徹の闇を貫いて電光のやうに傳はる
     ×
あゝ蒼白の魂を抱へて忍辱のあへぎいくとせ
病魔に喰ひ荒されたお前の肺臓の奥深く
いま、ひたむきに生きむとする強い搏力と熱情と
叛逆の焔が燃えさかつてをるのを
誰が知らう!
病ひの故に
生が拒否せられ、二人の結びついた愛情が
何故杜絶へねばならぬ?
をんなよ
歪められたる因習と理解なき人々の前に
闘ひの烽火をあげよう、いまこそ
お前の愛情と信頼に
知らざりし力の澎湃と湧くをわたしは知る
     ×
宿命の前に余りに無力なみぢめな人間ではあるが
よし、わたし達の咽笛をついて出る叛逆が
如何に微弱であらうとも
そのかたいからを破って爆発することがある
やがて来るこの爆発の日!
お互はお互の腕をかたく組んで
おゝ をんなよ
あの吹雪をついて疾駆する精悍な狼を想起するか!

【うたゝねの時】
リン リン リン
遠くでかすかに風鈴が鳴る
遠い昔 別れた女らしい
私の横に坐つてやさしく風を送つてくれる
女の顔もその扇も もうろうたる意識の中に――
リン リン リン
風鈴が鳴つてゐる、遠くでかすかに

【朝】
妻よ、見よ
もう朝飯を終つたか小蟻が
ほら穴を出て餌を求めに行くよ
味噌汁はわれを生気付けたり
されば行くよ
まことに、小蟻の如くにいそ/\と

【落陽を前に】
笑つて笑つて笑ひ抜いたら
心が楽になるものなら
泣いて泣いて泣き抜いたら
寂しさが薄らぐものなら
二つながら愚かしきねがひ
落陽を前に
あゝ大地を這ふて
心におそひかゝるものがある

【爪を食ふ】
愚かしき夢の破れて
今宵むなしく爪を噛み
火にくすべる男
ヂリ ヂリと無気味に爪は焼け行く
空虚(うつろ)なる笑ひ浮べて
この男何を想ふや
立ちのぼる臭気に驚き
敗残の夜蝿さへ天井に羽搏くものを
あゝ 愚かなる
この男 われ
われは鮹 鮹に非ずや
われとわが身を食(くらふう

【梅】
妻よ、見よ
梅のつぼみがほころびたよ
雪空にきりつと雄々しい姿だ
人目をしのぶわたしたちの侘住居にも
欲しいものだな、こんな力が

【街】
街の空気は秋の風より冷たい
行きずりの人に思ひ当る顔もない
雑踏を縫ふてわたしは帰つて来た
砂ほこりにまみれ疲れ切つて
うそ寒い寝床の中に
爪を噛みながらわたしは震へてゐる

【爪を噛む】
新しく爪が伸びると
わたしはいつか齧りとつてしまふ。
爪の附根から
昔の想ひ出が血をふいて疼き出す。
過去は忘れてしまふものだと
自分に幾度叫んできかせたか知れないのに。
うそ寒いがらんとした部屋に
今宵もわたしは爪を噛んでゐる。

【或る悟り】
大人の如く振舞はんには
俺は餘りに世事に無智だ
子供の如く振舞はんには
世俗の悪臭がこびりついてゐる
生きてゐることと
これから先も生きて行くことは事実だが
はてさて俺は如何すればいゝ?
盲滅法に生きて行くか
草沼閑二!
おゝ それがいゝ それがいゝ

【蝸牛の詩】
俺は蝸牛だ
俺は小さい家を持つ
何処へでも持つて行ける
小ぢんまりした家を持つ
なんと地上は恐ろしい処であるか
俺のこの小さな住居に
おそひかゝるものがある
昨夜見つけたこの木蔭も
今朝見れば
俺をねらつて爪をとぐ奴がある
地上を見つめてゐると
涙がにぢみ出る
土を這ひ
木をよぢ登り
小さい家を引きづつて
かたく身を引きしめ
俺はあてどなくさまよふ

【暗闇】
暗闇は恐ろしい。
誰がわたし一人をこの暗闇に置き去りにして行つたのか?
暗闇は恐ろしい。
陰鬱が霧のやうに閉ぢこめて居る。
それに、過去の光りの世界が重苦しい想念となつて頭をかけめぐるのだ。
暗闇はわたしをおびやかす。わたしは震へる。
暗闇は恐ろしい。
わたしは盲(めしひ)ではない。それだのに何も見ることが出来ない。
蝸牛のやうに身をかたくして手さぐりに歩いて行つたが、すべて徒労に終わつてしまつた。
わたしは何時光りを仰ぐ事が出来るのか?
このまゝわたしは悶死してしまふのではなからうか?
暗闇は恐ろしい。
あゝ暗闇の中に起き伏し、心が鋭り、五体はかまきりの如く痩せこけて行くぞ!

【かうもりに寄せて】
窓辺に立つと暗闇の中に見える。
おれもとびたいのだ。
かうもりよ
お前の如くでもいゝ、おれはとびたいのだ。
鉄格子を握りしめて、おれはお前の姿を追ふ。

【短唱】
ひよつと気付けば涙で頬が冷たかつた
部屋の中も真っ暗闇
遠くでふくろうが鳴いて居る

【短唱】
人間生田春月を呑んだ瀬戸の海よ
お前はまだ空腹さうだな
やせては居るが、おれはどうだい?

【短唱】
駆りて千里を行くことを得ずば
とびて太陽を食(くら)ふことを得ずば
おのれむしろ地にうづもれてもぐらたれ
【短唱】
夜蝿が私の頭上をかすめて飛び廻る
蝿の如く冷然とおのれは飛べないのか
がらんとした部屋に爪を噛んで居る

【短唱】
花は咲いて散つて行く
人間は生れて死んで行く
自然は、人生は結局これだけであるのに――。

【糞】
何の肥しにもなるまいに
失恋男のひつた糞
百姓爺さん採つて行つた

【夜蝿】
私はきつとまなこをあげる
静を要する私の思念をさえぎつて
羽音高く飛び廻る夜蝿が居る。
身を殺し、身を構へ、思はず入つた手の力を
さつと叩き下す――
私の無能をあざ笑ふか、夜蝿
なほも羽音高く飛び廻る
心憎きその面魂よ、私の額をかすめて。
私はきつとまなこをあげ
黒き塊を目がけてなほも息を殺すのだ。

【短唱】
侘しいよ、人生航路
願ふこと一つも成らず
盛夏の候に木枯荒ぶ。

【海辺】
海辺の宿
頭を畳につけてをると
わたしは蒼い浪になる
そして
赤黒い無数の小魚が
浪の中を泳ぎまはる