立原道造

立原道造(たちはらみちぞう)1938〜1967
1914年、東京日本橋に生まれる。東京府立第三中学校、旧制第一高等学校を経て、1934年、東京帝国大学工学部建築学科入学、この夏、初めて軽井沢を訪問、以後、毎夏信濃追分に滞在。一高時代より堀辰雄に兄事、大学入学後は堀の主宰する「四季」の編集同人となりました。大学在学中、建築学科の辰野金吾賞を卒業まで3年連続受賞。建築設計の次代を担う才能と期待されました。1939年2月、第1回中原中也賞を受賞するも、同年3月、24歳という若さで逝去。

『萱草に寄す』立原道造(私家版/1937) 
『暁と夕の詩』立原道造(私家版/1937) 
『優しき歌 I』立原道造(角川書店/1971〜73)
『優しき歌 Ⅱ』立原道造(角川書店/1947) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1129223
『立原道造全集』立原道造(山本書店/1941〜43)
『立原道造全集』立原道造(角川文庫/1950〜51)
『立原道造全集(全5巻)』立原道造(筑摩書房/2006〜2010)

【序の歌】
しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?
夕映が一日を終らせよう
と するときに――
星が 力なく 空にみち
かすかに囁きはじめるときに
 
そして 高まつて むせび泣く
絃のやうに おまへ 優しい歌よ
私のうちの どこに 住む?
 
それをどうして おまへのうちに
私は かへさう 夜ふかく
明るい闇の みちるときに?

【落葉林で】
あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた
私は 身を凭せてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる
 
私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに
雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに
 
私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらうか

【さびしき野辺】
いま だれかが 私に
花の名を ささやいて行つた
私の耳に 風が それを告げた
追憶の日のやうに
 
いま だれかが しづかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに
手をさしのべるやうに
 
ああ しかし と
なぜ私は いふのだろう
そのひとは だれでもいい と
 
いま だれかが とほく
私の名を 呼んでゐる……ああ しかし
私は答へない おまへ だれでもないひとに

【朝に】
おまへの心が 明るい花の
ひとむれのやうに いつも
眼ざめた僕の心に はなしかける
《ひとときの朝の この澄んだ空 青い空
 
傷ついた 僕の心から
棘を抜いてくれたのは おまへの心の
あどけない ほほゑみだ そして
他愛もない おまへの心の おしやべりだ
 
ああ 風が吹いてゐる 涼しい風だ
草や 木の葉や せせらぎが
こたへるやうに ざわめいてゐる
 
あたらしく すべては 生れた!
霧がこぼれて かわいて行くときに
小鳥が 蝶が 昼に高く舞ひあがる

【夢見たものは】
夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
 
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる
 
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる
 
夢見たものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

【優しき歌(旅のをはりに)】
かへつて来たのが
いけなかつた?・・・・・私らは
曇りの日の秋の真昼に  池のほとりの
丘の上では  いつかのやうな話が出来ない
黄ばんだあちらの森のあたりに
明るい陽ざしが  あればいいのに!
・・・・・なぜ  こんなに  はやく  私らの
きづいたよろこびは  消えるのか
手にあまる  重い荷のやうに
昨日のしあはせは  役に立たない
私の見て来た  美しい風景らが
おまへの眼には  とほくみなとざされた・・・
私らは  見知らない人たちのやうに  お互いひの
足音に  耳をすませ  最初の言葉を待つている