堀部辞朗

堀部辞朗(ほりべじろう)1911〜1934
1918年、蜂屋尋常小学校入学。利発な子どもで二歳年上の兄の教科書を同じように覚えたという。1926年、高等科2年春 病弱のため退学。その後、叔父の家で書生兼療養を続けながら20歳まで住み込む。1927年、雑誌「若草」投稿詩入選。1928年、詩、和歌、小説を愛読。早稲田文学講義の文芸欄に盛んに活動した。抒情的な作品が多い。1930年、健康を取り戻したかのように、文学的書籍とは正反対の数学を勉強。早稲田に入学を志望していたらしく狂人のように勉強する。1932年、名古屋市の中学に編入試験を受けたが身体を毀して失敗。その落胆ぶりは大きかった。一変して一種の諦観と余裕を持ち、身体の許す限り詩歌、哲学、宗教、マルクス等を読破する。吉田絃二郎、芥川龍之介、室生犀星、佐藤惣之助氏の書籍を愛す。投稿を復活。この頃、詩集『蒼魚と住む』の原稿をノートに清書している。1934年正月頃、「長く生きられないから何か殘したい。この頃、詩の良い悪いが解るやうになった」といっていた。6月18日、永眠。

『堀部辞朗遺稿集』堀部辞朗(詩耕社/1988)

【川畔】
唯(た)だ
川に來るとうれしいのだ
枯草の茫々伸びたこの病みほうけた土橋の蔭に
やせた魚等は強いて
をどってみるが
すぐ「考へごと」に
固まって悲しく水をかいてゆく
暮方で
街道を通る自轉車の
狂的な警鈴の音と
こぼこぼ私語(さゝや)く水の音だけが高なってくる
優しい姉が待ってゐる……
そんな心地があとからあとから
湧いてくる……

【冷空聯想二篇】
  たましひ
灰色の空は
けふも冷たい魅惑を落す
あの憂鬱な雪空のうらに
おゝ幾億兆ともしれぬたましひが
耐へられぬ
郷愁に泣きこごへてゐるのだ
  かげ
たれも見ることの出來ない
ながいながい陰惨な影が垂れてゐる
そして地上に住むすべての命に
ベタベタとまつはりついてゐるのだ
いつか
恐怖と煩悶の形見に愛着をのこして
かぎりもない闇へ
すげなく
たぐられてゆくのだ

【元旦】
神秘なるまで莊厳な黎明の中に
王宮の姿よ
黄金の光波に映じて
このすばらしい王城を
若い俺達は
如何に待望しあくがれることか
あゝ
王城の中にひとり燃へもへる
聖火に照らされて
銀の鐘樓に
むなしく沈默をまもる
久遠の鐘を
力一パイつきならす
それは幸多き歡喜の年 昭和五年の元旦のそらに

【新春】
やみの中からをどりでた
偉大な光球は
抑へても抑へても抑へきれぬ
喜びの朝を見ごとに射た
地上に存在するすべてのものは
何といふ新鮮な悦びにふるへてゐるのだ
松吹くあしたのあらし
神棚の燈
あゝこの針先程の空隙にも
新しい春の歡喜は
をどりにをどる
昨日の憂鬱な雪ぐもの色にも
深い希望とよろこびが
溢れてゐる
俺達の魂の奥底に錆ついた
古い憂愁の殻は
今!
過去の追憶の一ページとなって
美しい物語をかたる
美しい夢の魅惑のうちに生れる抒情
華やかな未來の魅惑のうちに生れる希望
あゝ
今朝のすばらしい二重奏――

【春三篇】
  A あさ
こんな朝は
どんなに暗いゆううつにふくれあがつた
魂でも
野鳩のやうに
まるまるとこえて
かげらふのやうに
うらうらともえたつのだ
  B 紅魚
夜明方の川では
赤い魚がマッ白い砂の中から
ピン、ピンと産れた
星がそれをのぞいてゐた
川は何んにもしらずにをどってゐたけれども
  C 落陽
太陽はやさしい女性になった
ザブ、ザブ慕ひよる
金の波に別れて
神秘な國の果へ
いそいそとおりてゐった

【春雨幻想】
その日太陽はやさしいママになった
眩い程純白な春の雲の中では
あとからあとから
幼い春の子供たちが誕生のうぶ聲を
揚げてゐた
それは三月の夜更である
その夜
春のをさなごたちは
初めて離れる淋しさを知って
出郷の愛惜にむせんでゐた
まっくら闇の中ををさなごたちは
泣きながら
地上に飛びおりたのだった
地の上は春の子供で一パイになると
おゝ
あんなに凍りついた土の心臓は
なやましいをとめの鼓動に變ってゐた

【久遠の春】
おゝ何時のまにか
あの灰色に鎖された窓のカーテンは
此頃青い小鳥の籠がゆれ
夜になれば赤い灯が燈り
樂しい笑ひの聲がにほふ
この家のその室には少女と少年が住んでゐるのを
私は知ってゐる
それは雪の冷たい夜――
私がそっとのぞくと
やさしい青い顔の少年が
雪の音を聞きながら
破れた陶器をつなぎ合せてゐた
その傍で
若い娘は空っぽの鳥籠をいじってゐた
少年がため息をすると
娘は吐息を噛みころす
そうして夜を更してゐた
次の日ぐれ灰色のカーテンがおりた
秋は泣きたい程侘しかった……
のに
あゝ 今夜もあの窓を赤い灯が飾ってゐる
唄が聞える
若い人たちの鼓動のたかなりも聞えて來た
O! 私も
感激にふるへる

【少年】
璃璃色のながれに
紅魚が夢みてゐる
少年はこの美しい魚をとらへて
たべてしまった
其の日から
少年は泣くことをしったんだ!

【春だと云ふのに】
曇り日の様に
かなしい心を
あゝ
けさもカサカサと
秋風がすさんでゆく

【春の宵】
山かげのうすもやの中に今宵も
提燈花のやうに小さな
赤い灯がついた
あゝ
あの灯の下に
たれが何を想ってゐるのか
俺は何だか悲しくなった

【春の痛さ】
微風が吹くと
白い砂原の私の思慕は
とびたつほど痛い
觸感の肌へに
緑はかなしくも
私の感情の洗濯をしひるのだ
あゝ
古い夢の斷片が
いくつもいくつもころがってゐる

【蛙】
こんな夜は
私の魂が春の蛙になって居る
私の心臓は何かへの思慕の涙で
どうにもならぬ切なさだ
星のやうな小さな心を
壓搾機にかけられる甘苦しさ!
あゝ
この針先のやうな鋭い
情熱に顫へて
私はもう
命懸けで
狂人のやうにうたふのだ

【赤き花片】
友よ
春の夜は雨
暗い闇の夜に
降れ小さな瓜の双葉に
伸びておくれよ愛らしき木の芽たち
友よ
靜かに響くは
闇の夜の蛙のこゑ
雨よ濡しておくれ
土深くあの蛙の胸を
友よ
この夜幾度目ぞ
紙に彩る花片の赤きよ
はろばろと少年の夢を追ひ
去りゆく日の近きを想ふ
友よ
春の夜は愛(か)なしきもの――

【女】
棕櫚の葉はハタハタと鳴って
月が葉影にかくれてゐるに違ひない
私は其の木蔭で
その音を聞きながら
大きな辭典を繰ってゐた

何時か私の傍に乙女(おんな)が坐ってゐた
私はそうして微笑した
女も
だが彼女は歸って行った
それは 私が
この女は死んでゐると思ったから
靜かに
ごく靜かに立ち上がった女の
後姿を私はちらっとみた

【薄暮の詩】
生きるてふ不可解な魂をしっかりと抱いた
俺の行方
さうだ
郷愁に似たすすり泣きの音は
靜かなトレモロとなってこの薄闇に魅惑する
限りない漂泊の音だ
あゝ この夜
しみじみといつはりもなく自畫像を
いじらしくも描いて涙にひたる
感傷の姿よ
美しい戀とよい妻とは
俺の將來の何時 唯一ときをでも
飾るてふ感激が有らふか
破れた情熱に藝術を祟び
あはにも清らかな童貞を誇る
そして そして
幾歳かのなやみをのせた舟は
あっけもなく消されてゆくのであらふ

【生活】
   A
窓から眺めると
外のなだらかな丘には
花束の様に新鮮な光や
伸びてゐることの
誇を表して居るとしか思はれぬ
みどり色の麥が
グラスの透明さで
健康をうちあげる
   B
男も女も
どっしりと重たげに
晴れた暮空の
明るい幸福を持って
樂しげに通る
少年も青年も
齒の落ち腰までも松の様に曲った
老いた人たちまでも
あゝ
そこでこの私も幸福だ
   C
或る日
悲しい朝だ
「歌を唄っちゃいけない」
ドクトルの目玉はつめたい
だから
暗い夜半
青く光るのみの尖に
赤ぐろい二双の胡桃をひき割って
黒髪ながい
戀人をなげくのだ

【燕に語る】
幾日かの
永き旅を經て
この山深き里に來たるや
遠き海を越へて
ただ一線(ひとすじ)に 稲妻の如く
この貧しき村に來たるや?
優しき姿にも似ず
強きバネの如き意志と健康と情熱とを
五月の光の動きに
われは泪ぐみつゝみる
燕よ
南の國の物語聞かせてよ
耶子の月夜の夢か
高く潮風に鳴るメンマストの海原か
さあ
温くもなつかしき物語きかむ
燕よ
人の世はかなし
なべて人の身はつらきものぞ
愛を信ずればこそ 歎きも深き
母あれど
故郷の旅路は獨り
行く國は 唯一つ
あゝこの室のあけくれ七歳
ろんろんと知らざる恭慕に焦(こが)る 吾れ
燕よ――。

【土色のバイブル】
渦まく濁流が暴風の勢をもって壓倒し
ぐんぐんおし寄せると
岩はまたそれに比例して反撥し怒號し
毅然として奔濤する逆浪を睥睨してゐる
そこには
烈々として燃えあがる炎の様な闘志と
鬱勃としてひそむ反抗の火華が
おごそかなるまで躍動して
激流の風景を凄惨なるまで打ち上げる
だがこの
反抗の影に
爭闘の裏に
怒號のうちにたよりない空虚な心を知る
凝と眺め心をひそめて聞いてゐると
挽歌の様なたまらない寂しさと
孤獨の弱々しい――悲鳴に近い――聲がみなぎってゐる
漂泊のうたの様ににじみ出てゐるものはどうするのだ
ねばり強い運命の絲が蜘蛛の様に
じりじりと迫るかはききった焦燥
また
この對立を包んでしまふ闇の恐怖の中に
澄みきった微笑と
呪との合唱が浮び上る
あゝ
岩は逆らって負ける者!
寂しみの權化ではないか

【生存の壺】
觸感に寂しい影をなげた青磁の壺
憂愁をたたへて
甘い感激が泉の様に湧くと云ったら1932年の詩人が冷笑する
詩人は女と女の微笑を幾分か知って居る
花が咲く所だけ僅かな光が射し
眞珠の玉が指から洩れて土となる
だからこそ
繪かきや詩人が藝術の崇高さと
三昧の尊巖を説く
哲學者は創造の偉大な價値を云ふ
悲しくて泣いた泪を酒にして
酔ぱらって眠れたら幸福だらうか
空を仰いで明日まで待ってゐるなら
世紀の道化ぶりも解るかも知れぬ
ほんたうの言葉恐れて世紀を追ふ者
この中では
天才と白痴だけが
落ちて來る世紀を拾はない
春を尋ねて南の國を旅する青年は
椿に巣くう懸巣鳥に郷愁を想ふ
獨り群を離れた魂は
この默りこくった 青磁の壺に情熱をたたへる
あゝ 沈鬱な明るい生活の壺よ