平井功

平井功(ひらいいさお)1907〜1933
1907年、神田区下白壁町8番地(今の鍛冶町2丁目16番地)に生まれる。
1919年、小石川区小日向台町に移る。雑誌「金の星」に『ジョンの死』を寄稿、賞を受く。
1921年、家庭にも不愉快なる問題あり、学校へ行くことを厭ふ様になる。西條八十先生愛護を受け、同家に宿泊することも多くなる。西條先生の紹介に由りて日夏耿之介先生に識られしも此の年なり。
1922年、雑誌「白孔雀」に作品を発表す。12月、詩集『孟夏飛霜』を上梓す。
1924年、雑誌「東都芸術」の同人として作品を発表す。
1925年、雑誌「奢霸都」に作品を発表。 
1927年、日夏先生の媒酌によりて木本豊子と結婚、鎌倉に新居す。
1928年、雑誌「パンテオン」のヘルメスの領分に作品を発表す。
1929年、此頃典籍の形態に関する研究を勉め、躬ら游牧印書局を剏め、素志の一端を果たさむがため限定雑誌「游牧記」を刊行。雑誌「羅針」に寄稿。11月11日長男以作生る。
1930年、府立高等学校の図書課に勤務。雑誌「英語と英文学」「蝋人形」および「現代詩講座」に寄稿す。
1932年、思想問題に関し当局の取調を受く。釈放後右鼻腔内に蜂果織炎を醸成す。9月22日豊子の兄木本秀生氏に伴はれ父の許に来り治療を受く。同23日、発熱40度3分に至りしとて電話あり。父は直に出張治療せしも、此日は日曜と秋季皇霊祭との2日続きのため、医者の来診を乞ふこと能はざりき。24日、医学博士鈴木平十郎氏の来診を受く。更に高嶋八百八氏の診を受く。27日、百薬効なく病勢悪化す。28日、父と床を並べて臥す。対談翌朝四時に至る。29日、又父と臥す。之頃より意識次第に朦朧となる。30日昏睡状態となる。慶応大学の外科教授木村博士の診を受く。10月1日、午前8時、永眠。

『孟夏飛霜』平井功(私家版/1922)
『爐邊子殘藁』平井功(私家版/1941)

【唄】
私にも 私にしても
小さな 小さな望みがある
こゝろよ
私にも望みがある
とるにも足らぬ 云ふにも足らぬ
小さな望みにすぎないけれど
望みのかなふ日が来たら
私は私の望みを携(も)つて
日当りのいゝ丘の上の
壁の白い家に住まう
世間では
私の生きてゐることさへも
すつかり忘れてしまふだらう
こゝろよ
その時私は幸福だ
とるにも足らぬ 云ふにも足らぬ
小さな望みにすぎないけれど
あかるい午後の
軟かな陽光(ひざし)のなかに寝そべつて
私は私の望みを思ふ
望みのかなふその日を思ふ
この時私は幸福だ
とるにも足らぬ 云ふにも足らぬ
小さな望みにすぎないけれど
昔の哀しみは
今日も 微笑に
さびしい翳を投げてはゐるが
こゝろには 望みが淡く翳を落す
こゝろよ
望みのかなふその日まで
さびしい翳は
微笑から消えはせぬだらう
とるにも足らぬ 云ふにも足らぬ
小さな望みにすぎないけれど
私にも 私にしても
小さな 小さな望みがある
こゝろよ
私にも望みがある
とるにも足らぬ 云ふにも足らぬ
小さな望みにすぎないけれど

【午後】
私は私の幸福を思ふ
今日 こゝろは哀しみから遠く
すべてから遠く たつた孤(ひとり)
しづかな午後のひと時をたのしむ
窓玻璃(ガラス)にうつる樹立の影は
時折 風にゆれもするけれど
こゝろは唯さびしく微笑んで
気付かぬほどの幸福にひたる
誰ひとり眼にさへとめぬ幸福に・・・・・・
忘られはてた たつた孤の
さびしく疲れたこゝろにも
あかるい午後のひと時は
陽光がやはらかにさして来る
今も時あつてこゝろを横断(よぎ)る
昨日の哀しみや苦悩(くるしみ)も
窓玻璃にゆれる樹の影ほどに
ふと翳を投げてゆくばかり
しづかな あかるいこの午後を
私は私の幸福を思ふ
幼児(おさなご)にさへ毀たれる
儚いものとは知りながら
今は用もなくなつたこゝろを
さびしく 懶(ものう)く 疲れはてて
力なく唯見つめた時
其処に見出した幸福を思ふ
役にも立たぬこのこゝろを
訪れるひともない今となつて
ふとしたひとつの身振にさへも
儚く崩れる幸福ではあるが
しかも私は知つてゐる
この午後の しづかな午後の
やはらかな陽光のなかにあつて
さびしく幸福が微笑むことを
双頬(もろほ)にはまだ消えやらぬ
泪の痕もあるけれど
私は私の幸福を思ふ
今日 こゝろはすべてから遠く
すべてから離れて
たつた孤(ひとり)
しづかな午後のひと時をたのしむ

【月の光に】
  J・V・L
あけ方のひかりのやうに
あかるい光(かげ)がこころにしみる
冴えながら淡くけぶつて
唯あをく 唯あをく
光はしづかにこころにつもる
稍につめたく 稍に重く
──気付かぬほどに
しづかに 微かに……
夜は更けて
光は冴えて
猶あをく 猶あかるく
月の光に映(うつ)しだされて
くろぐろとこころの奥にわだかまる
わが身の姿(かげ)は更に黒く
窓を越えて
斜にゆるく流れる光は
猶あおく 猶冴えて
冴えゆくままに
消(け)ぬがに おぼろに昔の夢が
遠い日がふとも浮んで
私を其処に誘ひもするが
月の光のあかるさに
こころは暗い こころは重い
やくざなこころを哀(かなし)んで
さびしく つめたく泪が滲む
嗤ふ力も尽きはてた今
月の光よ 月の光よ
むごく 情(つれ)なく つめたく冴えて
夜は更けて
光は冴えて
夢かとも 霧かとも
すき透つてあをい小さな姿(かげ)は
いつしかに いつしかに数をまして
月の光に
影もなく 響も立てず
遠い日の塵をかすかに舞はせて
昔にばかりあつた森の
今は忘れられた古い踊を
しづかに しづかに舞ひつづける
──遠い日よ 昔の夢よ
思ひ出になほ存(ながら)へて
さしのべる手を嗤笑つて
雅(みや)びに あでに 昔の儘に
つめたく冴えて
さびしく澄んで
しづかに流れて ふと澱んで
部屋の片隅に こころの上に
いつしかに積つてゆく月の光は
私のこころをあざけるやうに
知つてゐる! 月の光よ!
つめたく冴えて
さびしく澄んで
そのやうにはつきりと見せて呉れずとも
昔の夢を前にして
こころは重い こころは暗い
僅かばかりの煩(わづらは)しさにも
猶堪へかねるやくざなこころは
あかりを消した部屋にあをく
唯澄んで 唯冴えて
流れ入る月の光に
音もない影の踊を見つめながら
昔の夢を浮べながら
こころは暗い こころは重い
やくざなこころに滲(にじ)む泪に
つとめて気付かぬ素振(そぶり)はしても
月の光に──

【子供部屋】
  わたしの子供部屋よ、遠い日の玩具たちよ。
  わたしにもかつて暖かな陽光を浴びて、多幸
  な幼い日のあつたことを、お前たちは告げて
  は呉れぬであらうか?
夕ぐれ方のつめたい風に
しらじらと世にもさびしく夢がかゝる
小さな 微かな夢がゆれる
――こゝろのひと隅に身をうづめて
しづかに しづかに過ぎてゆく
褪せはてた 小さな姿(かげ)に見入るとき
絶え絶えに 絶え絶えにそれ等の姿は
こゝろのひと隅に埋めた身を踏んで
遠い日の 暖(ぬくもり)をわづかにとゞめて
灰いろの霧ともつめたくすぎてゆく
はてしなく はてしなくすぎてゆく
氣付かぬ程の歎息と歔欷(すゝりなき)と
そのあとに仄かに流れ 消(け)ぬがに漂ひ
ふと澱んでは黝い寂しい翳を投げる
小鳥は窓の籠のなかに
今日も歎きをうたつて息(や)まぬ
微かの 消ぬがの夢をすぎて
彼方にけぶる灰いろの霧に
吸はれゆく 没(き)えてゆく小さな姿は
あとからあとから生れては來るが
いつまでもいつまでも絶えはせぬが
動かぬ時圭にたまつた埃と
思ひだせない子守唄の旋律(ふしまはし)とが
夕ぐれ方のうすらあかりに
しらじらと仄かに浮んで
寞(むな)しい今日を告げてゐる
響もなく 影さへもなく
灰いろの侏儒(こびと)等に護られて過ぎてゆくのは
忘られた 今では誰も覺えぬ國の
凋れた花束を祀る祭の
遠い日の綺羅を飾つたひと群
夕ぐれ方のつめたい風に
しらじらと 世にもさびしく夢がかゝる
また回らぬ日の夢がゆれる

【木立】
  ―夏日鬱悒賦―
灰色の埃にまみれ 色澤(つや)もなき
いささかの庭の 樹の 葉や――
地に墜ちて くつきりと 散斑(ばらふ)を描く濃い翳の
翳の濃ささへ その翳さへ
ぐつたりと佇頭(うなだ)れて 倦じ疲れて 力なく
  (そよとも揺がず)
只管に うつりゆくひかげのまゝに
干乾びて白く乾罅(ひわ)れた后土(つち)の上を
物憂げの われにもあらぬ歩みを綴る
  ――時あつて
勤勉の小まめなる 分別氣なる甲虫の
翅音もせはしく訪れれば
ひと葉二葉はその翳を微かに揺(ゆす)り
氣付かぬほどに微塵を舞はすが
  (さてそれきりで)
倦じはててか あたまから
てんでとり合はうともせぬ
  庭の木立よ
家の主がこころを映すか 庭の木立よ――
かつきりと なにもかも鮮かすぎる夏の日の
まつ白な眞晝の陽光(ひかり)を
さんさんと 眩(めくるめ)くまで降りそそがれて
澁面の 不機嫌の 倦じはてたる 疲れたる その姿態(たたずまひ)
噬(ああ) 卿等(おみら) 九尺二間のこの庭先に生ひ育ちつつ
人離(か)れて遐(とほ)く邃(ふか)き始元の森を夢みてか
晨(あした)晨には日輪に双翼を努(は)り 羽搏いて軍(いくさ)を挑む
猛鷲も その梢には巣を營まうた樹となる日を夢みてか
――噬嗟(あはれ) 木立よ 既に已(すで)に その葉の末は
火輪車の 工場の 煤に塗れて
赭(あか)錆びて 悼ましく疫(えや)んでゐるに……
  噫 この身も いつの日に
  [手偏]炎(の)ぶる由もない夢を推(かさ)ねて
赭く朽ち 埃にまみれ 色も褪せたる凋れた夢の
ひた重く 弾力(ひずみ)なく しがなく つらく
役にもたたずのしかかり 積りゆくこのこころ
鬱勃の覇氣も 野望も
己がじしとぐろを巻いて あえなくも
方一寸の絳宮のうちに朽ちはててゆく
あはれこころよ
世に容れられぬやくざの夢は束ねても
三錢五厘で市(か)ふひともなし
  いまの世を――
流潮(ながれ)に駕(の)れば阿保も莫迦も
崇められ 祀られもする今の世を
世をすねて
縁の端 唯のけざまに寝そべつて
閑閑と 悠久の蒼穹(そら)を仰げば
頭上(とうじやう)杳く(とほ)く 弧を描いて 一ぱいに
うちひろごる紺靑の七天の涯なる奥處
燦爛と 透き間もあらず盈(み)ち充ちて
晴(め)に睹(み)えめ炎(ほむら)を擧げる灼熱の
 黄金(きん)の微粒の盡くるあたり
崇(たか)く 遐(とほ)く 靑琅[王偏]干(せいろうかん)の
  紫虚(おほみそら) 冷冷とたそりと横はる
  ――つひその下に
ほつかりと雲ひとつ 悠(おほど)かに皓(しろ)く泛(うか)んで
燬(や)きつくす陽を弾き 張りつめた素絹(すずし)とも
  耀き返すその皓さ
それとなく地に墜すほぬかの雲翳の
悠かに 悠かに ながれて息(や)まぬ
  ――あはれ こころよ
弊衣(やれごろも)かなぐり捨てて
裸身に
炎(ほむら)する黄金(きん)の微粒に身を燬きながら
陽に向ふ鷲の子のごと
ひたすらに たかく たかく
何處までもとおし昇り おし騰(のぼ)り
かの雲の通ひ路あたり吹き通ふ
浄澄の 明朗の 清冽の天津息吹に
色身を晒せ こころを晒せ
その風に 鴉羽の蓬髪を
世の際涯(はてし)までもに風になびかせ
Helicon の 頂の 巖金を蹄に砕く
翼ある 雪白の神駒の鬣(かみ)を
鬣(たてがみ)を左手(ゆんで)に確とひき捉へて
障礙なく 支へなく 行方も知らず唯馳駆せよかし
あはれ こころよ
その駒の皓く耀く膚(はだへ)におく 泡立つ汗の
滴滴と雲に涓(したた)り 火群(ほむら)と化(な)つて
  炎炎と火(も)えあがるまで
駒を駆れ 駒を駆れ
雲を散らし 霰を飛ばし
雲を蹴り 風に背いて
駒を駆れ 駒を駆れ
[革偏]彊(きずな)なく 鞍をもおかぬ駒を
翼ある 雲白の 耀く神駒を
  こころよ わがこころよ
世に倦じ 人に疲れて
奮ひ起つ力もないか このこころ
ゆゑもないやくざの夢に束の間はきほひ立つても
やんがて疲れて うつらうつらと
夢もない睡(ねぶり)をたどる――
數知れぬ野望を抱き 夢を推(かさ)ねて
そのままに 朽ちてもゆくかこのこころ
慈悲もなく なさけもならず燬きつける陽の下に
灰白の埃にまみれ 生色(つや)もなき
いささかの庭の 樹の 葉や――

【夕ぐれ庭に下りて】
     ―山荘の日―
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
草の葉も かすかなほどに濕(ぬ)れはじめる
遠いあたりが淡くけぶつて
なにもかも ひといろに
唯あをく 唯あをく
冷え冷えとこゝろを襲ふ
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
日ねもす 陽光(ひざし)に暖められて
今に暖(ぬくもり)のさめきらぬ 家の扉口の磴(いしだん)に
仔犬はさびしげにうづくまる
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
その蒼ささへいつしかに
冷え冷えと 冷え冷えと深まさる
向ふの丘の頂を
  (其處ばかり ただひと處)
あかるく照らす陽光の名殘の
刻々に狭まりながら
うすれゆき うすれゆくのを
こゝろは
あたゝかに しかし さむざむと見つめてゐる
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
遠い日が うらぶれはてた遠い昔が
しみじみと 微かに疼く
夕ぐれよ
遠い昔の孤寂(さびしさ)は
消えぬがに 去りてがに
こゝろ深くも刻まれて……
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
うすれゆき うすれゆき
向ふの丘の頂を
  (其處ばかり ただひと處)
あかるく照した陽光の名殘も
今はまつたく没(き)えはてゝ
なにもかも ひといろに
唯あをく 唯あをく
かすかな風も
冷え冷えと こゝろにあをく滲みわたる
 日の暮れがたのうすら寒さと
 日の暮れがたのものゝ蒼さと――
夕ぐれの
ゆゑもなく
たゞさむざむと 侘しいこゝろを
やはらかに やさしく しづかに暖めるものは
磴に さびしくうづくまる仔犬の姿と
厨房(くりや)からたえずきこえる
やさしい微かなものゝ響と……