山本二男(やまもとふみお)1920〜1942
新潟市礎町生まれ。1923年7月、父の転勤で東京駒込に住む。9月、関東大震災に遭う。1928年、詩【戸の窓から】を作り教師や兄姉に褒められる。1930年、詩【雨】を作り褒められる。母が不勉強の私に本に親しめようとして兒童小説をあたへしより病つきとなり、つひに大衆文學を讀み初めて母と兄におこらる。1931年、この頃より農民の生活に心ひかれ農業にて身を立てんと決す。1933年、巣鴨中學入學。大衆文學を大いに讀む。純文學も少し讀み初む。母心配し教師に相談に行く。1935年、夏目、武者小路、志賀の小説に心醉。1936年、古典文學も讀み初む。小説を父母に隠れて讀む。1937年、詩を書くようになる。藤村、白秋、八十等の詩集を愛讀す。小説『先祖』を書くが中途でやめる。1938年、早稲田大學法律科に入學。詩を月に一篇は書くようになる。1939年、昭和詩人同人となる。歌曲『青春の歌』小説『目ざめるまで』「絶好状」等を書く。1941年、早稲田卒業。東亞海運會社入社。興平丸事務長となる。1942年11月、南方にて殉職。
『航跡 遺稿詩集』山本二男(横山青娥/1943)
【白鳥の悲歌】
いまぞ明けわたらんとする
黎明に
蓮の花咲けり。
その紅き花
朝日に映ゆる時、
その陰翳(かげ)に
眞白き鳥はあがけり。
いまぞ死にたへんとする白鳥は
泥水身にあびつつも
白き羽働かしつ
もがくなり
あがくなり。
(註)作者は或る日、自分の行く末を考へ、焦燥に身をもだ
えたことがあつた。それはちやうど白鳥の死を見た後
であつたので、このやうな幻をわかせたのである。
【裏街】
遠くの時計臺の時計が六時を指すと
ここ貧民窟めいた裏街の子供等は
一齊に表にとび出す
彼等は子供の時間を聞くために
ラヂオ屋の店前(みせさき)に行くんだ
ラヂオを一つ一つ買へない家に育つた彼等は
みすぼらしい一つのラヂオを
神聖な御輿のやうに圍んで聞きいつてゐる
彼等の顔は何んとも云へぬ微笑で輝いてゐる
そして眞劍な表情は一語をももらさじと
ラヂオをにらんでゐる。
彼等にはこれが一日中で一番たのしみなのだ
一日中使ひ廻された體を休める
唯一つの慰安なのだ。
垢まみれのこの子供等は天上の者のやうに
尊げに見えるし
さとりすました聖(ひじり)のやうでもある。
(註)作者の處女作である。勿論多くの詩人のそれのやうに、
正確には處女作ではないが……。ランボオに似てゐる
と評せられた。
【不思議な階段】
私は何年もの間
一つの灯をめざして
あの暗い階段(きざはし)を上りつづけてゐるのです。
この不思議な階段は
いくら上つても上つても
きりがないのです。
すぐ先に見える灯なのですが
上れば上る程遠のいて行つてしまふのです。
もう私はつかれてしまひました。
しかし私はあの灯をめざして
なほもあの涯しない階段を
上りつづけるのです。
(註)私の象徴詩への入門であるのがこの詩である。なつか
しい作品である。
【鳩】
東京の屋根はかはつた。
鳩は故郷を失つた
鳩は新しい家を捜さなければならなかつた。
鳩は住みなれた木造家を好んだ
しかし新しくたてられるものは
皆なじみにくいビルデングばかりだつた。
父が母が先祖が住んで居た屋根を
鳩は戀ひ慕つた
そして鳩はかたいつめたいビルデングの上で
毎日毎日かなしい歌をうたひつづけた
そして文明をのろつた。
そして流行をのろつた。
(註)母校早稲田大學にあつた物語である。作者はある日講
義につかれて目を窓外にはしらすと、屋根の上の鳩を
見て唄つたものである。
【砂金採り】
俺は世紀の砂金採りだ。
俺はひねもす砂を掘る
そして砂金をさがす。
だが山にも川にも海にも谷にも
世界中の砂金は採り盡されてゐるらしい。
だがそれでも時々
美しい砂金が見つかる事がある。
だがのろまな俺は
皆同業者に取られてしまふ。
だが俺はなほ砂を掘る
砂金を採るために。
【故郷二題】
青き柿の實
しづ心なく落ち
梢に鴉の飛びたち
南國の太陽はあつし。
*
夕なりき
山の雲紅にそまる頃
風呂もらひに來し父子
裸でかへるたんぼ路かな。
【旅愁】
旅にいづらば心はろ/゛\と
うれしきに
しかはあれど夕は涙流れて止みがたし
若き身になんの愁ひぞ。
ふる里の! ふる里の!
思ひこがれし山なれど
都の家戀しく
青き麥の中よりふと父母の聲す。