千田光(せんだひかる)1908〜1935
東京生まれ。北川冬彦のいたキネマ旬報編集部に勤務。1930年創刊の第一次「時間」同人。「詩と詩論」による新散文詩運動の影響下、「詩神」「詩・現実」に夢幻的な散文詩を10篇足らず書いて夭折した。千田光の詩については若成達也に優れた論考(『詩的作品の根について』現代詩文庫58「岩成達也詩集」所収)がある。/『モダニズム詩集1』より「千田氏の作品には病的なところがある。底気味が悪い。単に感覚が異常であるばかりではない。いつも底知れぬ虚無の深淵をのぞかせている。その表現は、数学のように正確な映像(イメージ)によっている」と編者は書いたことがある。
『千田光』小野夕私刊(森開社/1981)
【夜】
私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象に出遇つた。
私は不図この光景を、未だ見知らぬこの道を、嘗てこの位置で、この洞窟にもまして暗い道の上で、経験したことがあるやうに思へる。
なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。私が顔をあげると鶏が羽を落して行く。軍鶏のやうな男が私を追越す。私はこの男を別に気に留めなかつたが、と思ひながら私は更に歩いてゐた筈だ、と考へて歩いてゐる私の眼前に、突然、それらの現象が一塊となつて現れたのだ。私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。
未だある! 未だある! そうして秒間を過ぎると、私は更に驚異すべき発作に撃れる。それはといふと、この道の先で一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、私の指尖よりも遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなければならない筈だ。片目眇の少年に。少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひがつるさがつてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ、戯れると見せかけるのだ。
私はさつと苔を生じた。苔を生じた石のやうに土を噛むのだ。
【赤氷】
山間からの氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共に氷流だ。ドツと押し寄せる赤氷だ。
新国境の壁に粉砕される赤氷だ。赤氷から生えてゐる掌形の花。
山間に於ける数年間の閉塞と雖も、脂の乗つた筋肉のやうな茎だ。が然し、新国境の壁には何ものも咲かせざる如く一滴の水以下だ。
赤氷よ新国境の壁を貫け、太陽の背には更に新しい太陽の燃焼だ。燃焼だ。
【肉薄】
沛然たる豪雨の一端が傷口のやうな柱脚を掘り返へして行つた。そうしてとりとめのない雲が二三と、太陽は壁の中へ墜ちかかつてゐた。
突如、颱風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に殺到した。
柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出してゐるのだ。
群集に群集する群集。原野の炎は群衆の眼に拡大した。彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!
【失脚】
私は運河の底を歩いてゐた。この未成の運河の先きには必ず人間の仕事がある。私はたゞその目的に急いでゐる。
太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判らない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つた。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じた。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。
私の行手僅かの地点で歓喜の声が振動してゐるのだ。私はたゞ走ることによつて慰ぐさめるより仕方がない。私の背後には大海の水が豪落と迫つてゐるに違ひない。私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざる絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。
【失脚】
私は、私の想像を二乗したやうな深い溝渠の淵に立つてゐた。その溝渠の上には、溝渠から吹きあがつたやうな雲が夕焼を映して蟠(わだかま)つてゐた。
不意に人のけはひがしたので雲から目を落すと、そこに一人の少年が私と同じやうな姿勢で、雲から目を落して私を発見(みつけ)た。彼は自分の油断を狙はれて了つたかのやうに溝渠の半円へ遠ざかりはじめた。それは宛然、鏡面から遠ざかる私自身ででもあるかのやうに、少年の一挙一動は私のいらだたしいままに動いた。一体この溝渠の底に何があるのか、私は知らない。次の瞬間、少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りはじめた。ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れない数人のむ男が加つた。然し溝渠の底は依然として暗く何物もみとめられなかつた。
突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚ろいたことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかりであつた。私の顔はなんともいへない不愉快な犬のやうに、私の命令を求めてゐた。気がついて見ると、その顔顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮しながら、なんにみない溝渠の周囲をぐるぐる這ひ廻つてゐた。
【発作】
私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象を目撃した。それが実際私に墜ちかかつてゐやうとは、が私は不図この光景を嘗てこの洞窟にもまして暗い道の上で、経験したことがあるやうに思へる、なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。
私が顔をあげると鳥が羽をおとして行く、軍鶏のやうな少年が私を追越す、私はその少年をとりたてて気にしなかつたが、と思ひ乍ら私は更に歩いてゐた筈だ、と考へてゐる私の眼前に、突然、それらの現象が一塊となつて現れたのだ。
私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。未だある未だある、そうして秒間を過ぎると私は更に一段と驚異すべき発作に撃たれる。それはといふとこの道の先で、一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖がある一点を刺した時、老人の姿は私の指尖よりも遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなければならない筈だ。片眇の少年に。少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひが吊下つてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ! 戯れると見せかけるのだ!
【足】
私の両肩には不可解な水死人の柩が、大盤石とのしかかつてゐる。柩から滴たる水は私の全身で汗にかはり、汗は全身をきりきり締めつける。火のないランプのやうな町のはづれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを散らした。それから祭のやうな騒ぎがその間に勃つた。柩の重量が急激に私の一端にかかつて来た。私は危く身を建て直すと力いつぱい足を張つた。その時図らずも私は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に私の水理のやうな秩序は失はれた。私は確に前進してゐる。しかるに私の足は後退してゐるのだ。後退してゐるに拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。私はこの奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人の柩を投げ出すと、墜力が死のやうな苦悩と共に私を転倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。
【海】
一人の男が、流木にしがみついたまま、海の上で眠つてゐた。次いで現はれたのは水平線上の白い塊だつた。雲足にしては余りに早い速力だつたので、尚ほ凝視してゐると、それは紛ぎれもない一団の鳥であつた。鳥は既に眠つた男の真上にまで来た。すると突然鳥の一羽が眠つた男をみつけると、一層羽音を高めてその眠つた男を強襲した。一羽二羽と続いた。眠つてゐた男は一唸りすると、パット眼を見開いた。流木の上に立つた。無数の鳥との無惨な格闘はかなり長い間続いた。しかし一際大
きく唸ると男はそのまま流木の上に斃れて了つた。羽までを赤く染めた鳥共が、再び一団となつた時、男の死骸は海底へ斜めに下りて行つた。軍港をとりまいた山の上では、巨大な潜望鏡が雲の動静をうかがつてゐた。
【誘ひ】
1
爛漫たる桜の樹の下で、一人の男が絵を描いてゐた。男の眼は半ば眠つてゐるかのやうにどろんとしてゐた。男は時時画布から首を擡(もた)げては犬のやうにあたりを嗅ぎ廻つた。次の日、私はやはり桜の樹の下で、桜の幹に抱きついて、幹の匂ひを熱心に嗅いでゐるその男を見た。三日目には、画布だけが桜の樹の下に建てられてあつた。不審に思つてゐる私の頭上で、突然、桜の花びらが一散に落ちて来た。驚ろいたことには、昨日の男が桜の枝の上で昏昏と眠つてゐた。実は、眠つてゐると思つたが、そうではなく、男は桜の匂ひの中で全く困乱に陥入つてゐたのだつた。そうしてまた私はその男の姿に魅せられて了つたのだつた。その夜、私は桜の上の男が、悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとるものも取敢へづ現場へ急行した。果せるかな画布は昨日の姿勢のままで置かれてあつた。男の姿は遂ひに発見することが出来なかつた。が然し桜の根方に夥しい血滴がはじまつて、池の方に続いてゐた。池には蓮の葉が油ぎつた舌嘗をしてゐた。その日、初めて私はその画面を熟視することができた。画面はまるで解剖図のやうに、触るとずるずる崩れて了ふのではないかと思へた。それから二日経つても三日経つても、男は再び桜の樹の下へ現れて来なかつた。私は意を動かして、その画布を家へ持ち帰へつた。その翌日から私に不思議なある慾望が勃りはじめた。半日を費して、私はピアノを庭園へ運んだ。そこで私は思ふ存分鍵盤を擲ぐつた。私は軽い暈ひと痙攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩いてゐた。
2
その男は、あらゆる音響を字体に移植しようと考へた。この研究に斃れても、自分は決して犬死ではない、むしろ歴史的な事業ではないか、と考へるに至つた。そこで
【善戦】 ―君に―
敵だ。敵がゐる。私にそう遠くない所だ。敵の正体には根がない。ただもやもや浮動し屯してゐるばかり、一度たりと私に攻勢を執つたことはないのだ。が然し、少くとも私に眼を着けてゐるといふことは否めない事実なのだ。いはんや敵は不思議な自信の中に私を獲へて放さないかのやうな威嚇を示してゐるのだ。そこで私は密に物物しい武装に取掛つたが、武装意識が私よりも敵の大きさを強からしめた。それが私を過らした最初だつた。果せる哉敵は堂堂と意識の上に攻め込んで来た。次いで早くも敵の触手は私の面上を掠めた。
追撃――追撃は極つた。私の茫然たる眼前には暗い泥海が盛りあがつてゐた、と思つた時は既に遅く私の胴体はその泥海の上を風のまにまに流れ、私の背後にうねつた夜明の方へ少しづつ動きはじめた。それから夢のやうな苦しみが肉体を刺しだした。私の全身は泥の中へめり込んでゆく。私の周囲の泥の上には草が生えぐんぐん伸びる。火のやうな太陽がカツカツと昇る。全身の下降が止つた。すると泥海はみりみり音をたてながら太陽の下で固つて行くのだ。その時だ。かの怖るべき敵は、大敵は私の無視の下に消失して了つたのだ。続いてその時、一大亀裂が私を再び地上へ投げあげたのだ。
【死岩(デッドロック)】
私の前には、死岩が顔を霧の中に埋めて立つてゐる。私は知つてゐる。しかし、私が彼に手をあてるまで、私は実に雄然と対立してゐた。死岩をとりまく霧は、渦巻いて私の手を払ふ。私がぴたり死岩に手をあてると、サツと彼はその毅然たる姿を現した。私は彼の動かぬ姿の中から、動かぬ速力の激流を感じた。それが真向から墜落して来た。はづみをくつて私はよろよろした。高さ!高さの下で痛めたのは羽ばかりではない。私は浮ぶことも沈むこともできなくなつた。高さは私の腕の長さではない。黙然と佇立してゐると、霧は起つて、私は遠くへ流されてしまつた。圏外。そこでは私に軽軽と安堵が向うてゐた。然し死岩の前から姿を消したとて、私には眼が見える。蟻のやうに登つて行く人々の足音がきこゑる。足音をきいてゐるうちに、私の身はいつのまにか、死岩に向つて歩いてゐる。私にかくまで喰ひ込んでゐる死岩の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めなほすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこだ。
【忘れられた猫】
忘れられた猫は、すみてのない舟の底に、忘れられた女よりも艶艶と生きてゐた。潜むが如く、その青い舟底に魔物の發作を燒印して、上目使ひに花片の舌を軋らす、その舌尖にありありと、しかも火の如くどよむ可憐な渇命。その可憐な渇命に映るは、あるひは虎よりもすさまじい幻影である。私の知るところとなつた、青い舟底の猫は、いつか月の下で耀いてゐた。孤獨の壁の中で、化石せる忘れられた猫は、この夜陰に見事な白珊瑚となつて、眞晝の如く煌々と月夜の青い舟底に秘むでゐた。
【寫眞】
殺戮された男の上には曠(むな)しい野天がある。その折の野天が蜘蛛のやうに、祖先の背に組着いてゐる。眉間のあたりに針が刺さつて、腐敗瓦斯に脹れあがつた蛞蝓(なめくじ)の泥面。鳥の足のやうな青く萎びた手を出して。むづかゆい蟲の觸覺を押しつけて行くこの惡臭を放つ一葉。
私は花のやうな残忍さの中で、顔を失つた。
【保護色】
僕は豫々その赤館の壁に衝動を撃込まれてゐた。が斷じて僕はその赤館に投石したのではないのだ。小心だつたから。
石は赤館の裏の沼地に放たれたのだ。それが狂ひのないコントロールであつた事は、今にしても充分な理由がある。
ところが意外にも赤館の壁から走り出した軍鶏のやうな男。男は忽ピンと反返へつた。沼地へ滑り落ちた。
僕が走りよつて見ると、石榴のやうな頭部を曝して斃れてゐた。眼球を剥いて、この男は眼を開いてゐたからいけなかつたのだ。
【壁】
壁は透明を慾する。透明な壁の中には美しい人間がゐる。泥化せる壁の中に脅えた眼がある。眼は壁の外を模索してゐる。壁を貫通するものは惡業のみである。壁の汚物は傷孔の如くに、消えはしない。二重三重の壁の中には更に恐るべき所業がある。
【失脚】
黄塵の壁は唸つてゐる。
高梁の開地だ。
華かな馬市は埃の中の埃のやうな人間達によつてひらかれ、そして終らふとしてゐた。
一頭の軍馬の脚下。砂塵は既に老人の膝を没してゐた。落日は遠い斷崖にかかつてゐる。老人の眼はそれよりも先に閉ざされ、枯竹のやうな腕は震へてゐた。
突然、老人は高く愛馬の名を呼ぶと、四つん這ひになつた。四つん這ひになると、崩れかかつた黄塵の中へまつしぐらに飛び込んで行つた。
月があつた。
沙の中には勳章のカケラが、少し離れた高梁の中には、既に蟲のついた老人の死骸が。そうして馬の尻だけが、月の下でトンガツてゐた。
【断章】
高梁の開地で馬市がひらかれてゐた。
一頭の軍馬の蔭で老人が買い手を求めてゐた。老人がやつと買い手を探しあつた頃、黒い山脈に落日だ。老人の手から馬が離れる頃、老人は四つん這ひになると高梁の開地を驅けめぐつてゐたが、いつか見えなくなつて了つた。月があがると、沙の中に勳章のカケラが輝いてゐた。少し離れた高梁畑の中にからからになつた老人の死骸が轉つてゐた。
*
坂を下りて來る男は隨力の二乘だ。ふらふら下りてくる。途端男の手が空に流れた。それつきりだ。
男は數個の銅錢を散らしたまま、斃れて了つたのだ。
暫くすると坂を登つて行く元氣のいい男だ。元氣のいい男は斃れた男の傍らの落ちてゐる數個の銅錢を拾つたまま、俺は知らんといふやうな顏して、悠悠坂を登つて裏側へ下りて行つた。
*
坂を登つて行くのは彼と乞食だ。ミイラのやうに身體を包んだ乞食は裕福な乞食だ。白い徳利を下げてゐる。
彼は突然乞食のふてぶてしい首つ玉に拳を振舞つた。乞食は病人のやうな抵抗を示しただけで忽ち脚下に横たわる。
すると急に彼の體は宙に浮いた。恐ろしい打撃がそれから二三回續けられた。
乞食の高笑が高い木の枝のあたりを蒸氣のやうに登つた。彼はさうして失神した。
*
半島の突鼻に燈臺があつた。燈臺の光は半島を一周して海へ。烈しい風速と雨だ。相次ぐ救難船だ。岩礁と岩礁の間。
マストの尖端で嬰児の泣く聲が微に聞えたのだ燈臺の活動は第二期に入つた。
所で半島の陸地の續きでは廻轉する燈光の中で殺人は完全に成し遂げられた。おまけに燈光は逃亡者の道を照して呉れた。