北村初雄(きたむらはつお)1897〜1922
1997年2月13日、東京市麹町區飯田町5丁目に生まれた。父北村七郎は当時著名な実業家であった。
間もなく両親に従って横浜市南太田町2118番地に移り住んだ。最も繁華なる商業區の重なる甍々を越えて、教会の2つの尖塔や、青葉のかさなりがゆれる山手の丘を望み、波止場の波さえ眺めることのできる2階家であった。老松小学校を卒え、神奈川県立第1中学校に入り詩作のような事を始め、またビアズレーの絵を好み、自らもパステル、水彩画を多く描いた。この時期に特に親交の深かったのは熊田精華である。2人の出会いは初雄が中学5年、精華が1級下の4年の時からであり、精華が訪ねてゆかない日には初雄の方から訪ねてゆくほどであった。これが、のちに柳澤健を加えて3人の合著『海港』(1918年11月、文武堂書店刊)が出される謂わば、支度となったわけである。因みに詩集『海港』の扉頁には(Yokohama Senimental)なるタイトルが附されてある。
1917年7月、中学を卒業して当時一橋に在った東京高等商業学校に入学。この中学卒業の記念として、父親から出版してもらったのが詩集『吾歳と春』であった。此の詩集は発行所の名義を三木露風の主宰する未来社に置くものであったが、すでに初雄は中学時代より三木露風の添削をうけていたのである。雑誌「未来」は季刊で僅かに第2集を出しただけで廃刊にされてしまったが、同人には露風を中心として川路柳虹、服部嘉香、增野三良、山宮充、柳澤健、西條八十等があり、これは北原白秋を以て代表される官能的叙情派や、白鳥省吾・福田正夫らの民衆詩派に對坑して堅く高踏派の立場を守って、日本象徴詩の展開を志すものであった。北村初雄という詩人の成育史を考えるうえに、「未来」乃至未来社からうけたやしないと忘れることはできないであろう。更に、初雄は上級学校に進んでからはその堪能な語学力を駆使して盛んにフランス、ドイツの近代詩を原文で読み、それらの精粋を摂取して盛んに自己の詩精神の形成につとめたことも見逃し得ない。特にポオル・フォール、モーリス・メーテルリンク、そしてライナァ・マリア・リルケ。ガブリエーレ・ダヌンツィオ等の作品に親しんで、それらの譚詩を発表したりした。
1918年4月、永年住みなれた横浜を離れて東京市外日暮里元金杉百96番地の新しい家居に移った。この年11月、如上の合同詩集『海港』が出された。
1921年7月、東京高等商業学校を卒業。卒業記念として、このおり詩集『正午の果實』(稲門堂書店)を出版した。序において、「詩は絶えざるを進展を持つ人格の力が、特に緊張されて、詩人の個性の外部へと溢れ出やうとする、ある刹那に即して生まれるもので在る」と書くまでに、すでに詩は初雄にとってかけがえのないものとなっていた。三井物産株式会社に入社。
しかし、間もなく病いを得、1922年4月より床に臥すことを余儀なくされた。この年7月、ふたたび日暮里の家を捨てて、市外入新井町木原山1680番地の新しい住まいに移り住むこととなり、病中の躰がここに運ばれた。しかるに、病勢いよいよ募り神奈川県藤沢市鵠沼に轉地療養。あらゆる手だてにも拘らず、1922年12月2日、永眠。享年25。遺骨は横浜市鶴見總持寺境内に葬られた。分骨は佐賀市精町泰長院に埋葬された。
詩集『樹』は、遺稿として、詩人の死後に友人柳澤健、日夏耿之介、熊田精花の手によって刊行せられたものであるが、これはもともと全快の記念として自ら出版を準備していたものであった。
『吾歳と春』北村初雄(未来社/1917) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908797
『正午の果實』北村初雄(稲門堂書店/1922) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909836
『樹』北村初雄(私家版/1923)
詩集『樹』
碑銘
響もなしに生まて来たこの碑銘の主も
響もなしに死むで行くこの碑銘の主も
静かな身ぶりと蕭(しめ)やか眼ざしとの中に
汗を流し得る小さい土地を持つて居る
序
この一巻は、亡き吾子初雄が、去年の春四月病に臥してより、秋もをはりの十一月に至るまでに作りし詩三十有八篇にして、みづから「樹」と題し、友人熊田精華氏の跋文もありて、印刷に附するばかりに整へありつるものなりけり。
初雄は、はやく三木露風先生の添削をうけ、その中学卒業記念として、大正六年七月「吾歳と春」を出版し、次に、同10年7月東京高等商業学校卒業のをりには、詩集「正午の果實」を出でりき。こたびの大患にかゝりても、全快の記念としてのこの集を出さんと、左右の人にもかたり楽しみ、そが出版んp準備も、上述のごとすべてとゝのへありつるなり。さるを、その生前の希望はとこしへに興へられず、今玆に友人柳澤健、日夏耿之介、熊田精花三氏の好意なる監督のもとに、遺稿として印刷装釘のこと成れるは、いとせめて悲しびの中のよろこびなり。また「樹」と題する小品は、本来一月の三田文学に掲げられたるものなれども、そは初雄が、十一年十一月廿四日、即ちその最後の執筆なれば、こゝに再録することとしつ。
大正十二年二月 父北村七郎しるす
【樹】
人ひとり立ち上がる部屋のうちの
静かなとよめきを心に映す 路のうへの
一樹(ひとき)は
定まる形を己れに興へずしとやかに
風の来るままに 俛し また 伸び上がり
日を息しながら
蒼い時から蒼い時まで 聳え立ち
静けさに静けさを掘る動きに沿うて
押し移る
その色は
眺める眼(まな)うちの充(あら)ゆる風光(けしき)を生かさせる。
生(いのち)を女の睫毛よりも かげ深く樹姿にと見出す
遥かなる眼差のひと時こそ
身は
立ち
額は上(あが)る 水より宏(ひろ)く空を映してーー。
【死への想ひ】
本を伏せ籐椅子の中に見を重く沈めて 靖(やすら)かに
静かに 疲れた睫毛を憩はすために眼を閉ぢると
私の身を繞(めぐ)る海に暖められた秋の空気の和(やはら)かさや
此の病室へ時折落ちて来る小鳥の聲の郡(むら)がりが
私の手のひらに迄も優しく蒼い天(そら)をば低(ひく)ませる
想ひ出もなく希望もなく唯胸に息を昻める一時ののち
光の渦の音もなく行き交ふ中に 泛びあがる
親しい顔のひとつひとつに心地よく頷き返して行くうちに
ふと重ねる手元のその熱に蒼い天(そら)の匂を顫はせながら
若くして死ぬべきこの虚しい命數に心を痛く沈ませる
身に渗む寂しさをその眼尻(まなじり)につよく押へて
私の背(せな)にみに絶えず照りそふ私の詩のかずかずを
なほ幼皃(おさなご)のやう獨となし得ぬ過ぎ去つた私の顔々を
樹上に光る風と共に優しく秋の上に旋(めぐ)らせながら
眼は確(しか)と静かに石とともに默(しずま)りかへる
悉(あらゆ)るものがみな曾釋して影深い睫毛の裡(うち)へと降(くだ)り
新らしい姿と意味とを持つて眼に湧き上る
見る事に始り見る事に終る私の生活の最後の日を
祝ふがため 努力に充ち充ちた日の裡からのみ 祈る
私の貧しい血と肉とに依つて 死の穏(おほど)かに花さく事を
Le 18 October 1922