松木千鶴

松木千鶴(まつきちづ)1920〜1949
長野県長野市西町に生まれ、間もなく父母とともに東京市向島区隅田町に移り住んだ。府立第七高等女学校に学ぶ。1937年頃から詩作をはじめ、『日本學藝新聞』、詩誌『歴程』などに作品を発表した。1939年7月、アナキスト遠藤斌と結婚。宋世何や辻潤など多くの知友に恵まれたが 1945年、千駄ヶ谷において戦災に遇い、遠藤の郷里、山梨県西八代郡富里村(現下部町)に疎開。戦後1946年4月、東京に戻り、アテネ・フランセに学ぶかたわら日本アナキスト連盟の機関紙『平民新聞』の刊行に編集長遠藤を助け、同紙に多くの作品を発表した。1947年6月から病床に臥し1949年2月没した。

『松木千鶴詩集』松木千鶴(ぱる出版/1998)

【瑪瑙】
かもめは
飛行体の原型でとんでゐた。
彼の中に
エキパージュは居ず、
彼は孤独に冬の海を覗いてゐる。
私は彼の捜してゐるものを
知つてゐる。
塗りかへてゐる貨物船から
あてもなく港を見てゐる
印度人の瑪瑙の瞳だ。

【蓮 1】
何億何万貫の重量のある冬だ。
北氷洋のガラスだ。池を閉ぢてゐる。
あなたも
わたしも
見られない
蓮の花は
あなたの後に咲くか、
わたしの後に咲くか、
生きて行かう
友よ。
わたしの屍からもやはらかい茎が出る。
あなたの屍からもやはらかい茎が出る。

【蓮 2】
彼等は同一部落人種で、
すこぶる完全な集団生活者だ。
切られても、切られても伸びる、
強靭きはまりないやつだ。
彼等が立派な花を、
惜しげもなく咲かせる訳だ。

【枯木と私】
私もお前のやうに
時には天を刺したい。
サクレツする事の出来ない
老いたる者の怒りのやうな。
動物園の鷹のやうな。

【胸片】
わたしもお前も
お前もわたしも
ひとも他人も
知らないうちに。
わたしの胸片は
切り取られ
空にかざされた。
胸片は
乾かず
ひくひく西の空に在る。
お前もわたしも
ひとも知らず。
切り取った
胸片を
お前は知らない。
すこしづつ崩し
そこから運ぶ。
私は点々と
滾(あふ)れた。
お前ではない。
お前ではない。

【ちくび】
夕か暁のやうなひかりが胸間に漾(ただよ)ふやうになった。
角笛が聞こえたり
言葉のない喜びが叫び声を挙げて居たり、
愛といふ愛が完成され、
二つの乳房は噴泉の甘い放射を待ちかまへ。
けれど
をみなのちくびは
たべてしまひたいやうな
桜の実のあかさが消えてしまつた。
叡智のごときものであらうと
そこにはもうまあるい虹が
懸らなかった。

【昨日・今日】
ゆるやかに流れる朝(あした)の雲を あなたの胸で見。
夕映えの紅(あけ)を あなたの膝で見。
泣いたりしてはをかしい。
それはみんなむかしのかれこれであつた。
わたしは今あなたの皮膚を嗅ぐことが出来るし
あなたの髪の毛を撫で上げることも出来る。
 ―むかしのこと―昨日のこと―
 お母さん! 見えない 聞こえない 円錐体の奥の お母さん
 私を生まない 私のお母さん 私は人を愛して居る
 むかしの呼び名を忘れない人を。
刻まれた映像をあなたは削り取つたか。
海の彼方へ風と共に運んだか。
私の 手と足と わたしの乳房と 髪の毛と
騒擾の黄色い蝶の群れたち
―今日のこと―むかしのこと―わたしのひと―わたしのひと―
空しい石色の裸体で部屋々々を駈けめぐる 駈けめぐる。

【創痍】
あなたは傷口に黄菊など
挿して居られるのではありませんか
返逆(ママ)されない反逆が
あなたを かなしみを
掘る。
黄菊よ、黄菊よ。
わがからだのいづこにて
あなたを支へ得よう。
あなたの深い谷へ、
たち匂ふ香となる一束の黄菊とともに、
どうぞ私を降りらせて下さい。

【仲間】
私はお前を殺したい
殺さなくては醫(いや)し難い
つめたい石の非常階段で
お前の瞳の見えるほど
もつと間近で
私はお前がしたやうに
臓腑の底まで
むごたらしく見てやる
むごたらしく
私もお前も
畸型の鴉であらうが
鴉の仲間に違ひなかろう

【泉】
いつの日よりか
ここにこの泉湧く。
咽喉のかはいた夜あけの星のやうに
わたしは飲む
塩からい泉をば
月の明りに
傷ついたけもののやうに
私は唇(くち)づける
苔むす森の奥に
いつの日も溢るるはよし。
わたし創痍こそ
わたし泉なれば。

【ひかり】
一瞬だから美しい
美しいけれど消えていつてしまふ
それは流星
ひからないけれど
止つてゐる 己の力一ぱいな
かすかな米粒の星に
私はなりたい
かすかだけれど
どこ迄も透る
そんな光に私はなりたい
たくさんの私が 私達が
億万ボルトになつて光る
夜明けになつたら
みんな太陽のうちへ帰る
その一粒の星に
私はなりたい

【檻】
倒るところに檻がある
女が入った檻がある
女の中に檻がある
私の入った檻がある
拳を振り
体を投げ
気狂いのような私がいる
歪んだ檻に私がいる

【淵】
青いみどろの淵に立つ
渦巻くみどろは白い飛沫をあげ
木の葉がくるくるまはつてゐる
奔騰しようとして堪へてゐる
堪へ切れず巌を噛む そぐ
音をひそめてゐるつもりだが
渦巻く底の浪が
耳を塞ぐ
木の間を洩れる光が波の光と争ひ
ふと淵の瞳を覗く
(妖しくもこゝろ失はんとするひとの)
束の間に消え去る
落ち入るもの一切を呑み
淵は一枚の鏡となる

【花びら】
せまい庭に
何時からあつたか一重椿が
たくさんの蕾をつけた。
桃色が一つ開いて
雨がそこにとまりたがつてゐる。
裏の家では
親子五人が昨日も今日も
その前の日のやうに いさかひをして居る。
花の中から出たしづかなものたちは
どこへゆかうかとまよつてゐる。

【不和】
雨がとまつて居るあをい葉。
いさかひがきらひで山茶花は
地べたに墜ちた。
空の襞 雑念に疲れて
ねむつてゐる。

【病気の花】
横降りの雨が
街灯をうつて居る。
わかれて来た人の
さびしい沈黙。
めつたに
ながした事のない
涙をながして居る。
風が空の奥で唸つて居る。
あのひとは
自分の家へ帰へつて行つた。
私は自分の寝床に
帰へらなければならない。
わたしはこゝに立つて居ませう。
めつたに泣いた事のない人の
哀しい皮膚の下に。
つめたい液体の下に。
眸をつぶつて
病気な花のやうに
大きく眸をみひらいて。
わたしは
こゝに立つて居ます。

  【壜】
水がごぼごぼなつてゐる。
水はこゝから出たいのだ。

【背中】
彼が何故重たく歩くか。
彼は決して角力取りのやうに
肥つて居ない。
私が知つた処では
彼の中に貘が住み
彼はおまけに
檻さへ作つて居る。
私はあまりにしばしば
街で彼に逢ふ。
昨夜もよくは眠らなかつた。
と彼の背中が言つて居る。

【聲】
開けてくれ。
開けてくれ。
私を呼ぶものが在つて
私は眠れない。
灯のはいらない
幻燈。
そこに私が横たはり。
わたしの僅かな才能が
私を苦しめに待つて居た。
目を開けたら
くらさは一層濃くなつて
居た。
開けてくれ 開けてくれ
あれは誰だ。

【無題】
友よ
あなたがわたしをかなしませても
わたしはちつとも困りはしない
あなたがすこし
ほんのすこしわたしをかなしませただけだ
あなただけではなく
あなた以外のいろいろなものが
そのかなしみをつくるのだから
人間に失望したなどとは
云はないことだ
あなたが亦わたしに手を出した時
わたしはあなたの手を握り
あなたの生きて居ることを喜ぶでせう
わたしは

たゞ一寸さびしいだけだ

【炎】
私が人を愛せし間に
銀杏は黄金の火をたいてゐた。
私が人を失ひしとき
銀杏の炎は消えてゐた。
遠い海からの
秋の雨に 私も銀杏も濡れてゐた。

【寝顔】
あなたの しづかな顔を
わたしの蝶が
あなたの ゆめに 花粉をあびせ
わたしの蝶が
ひら ひら ひら ひら

【無題】
私は世界につながらず
あなたにつながつてゐる、
愛(かな)しみを持つて
私はこれを思ふ。
それをあなたも知つて下さると思ふ。
私は世界につながらず
あなたにつながつてゐる、
愛しみを持つて私はこれを思ふ。
あなたの尖端からの
星のやうな火花は
私からも伝きはつてゐないだらうか。
私の抱く石のやうな孤独。
私は世界につながらず
あなたに繋がつてゐる。
私の世界につながる日
その時こそ
私はあなたにつながり
私は世界につながると、
よろこびをもつて私は思ふ。

【月夜の花】
母さん
あなたは美しい
月夜の花のやうに美しい。
昨夜(ゆうべ)かぎりの花のやうに。
母さん
私は不思議だ。
私にも手があつて足があつて
泣いたり喚いたり
叫んだり
小さな声でひとの名を呼んだり。
花をつけない無果樹の不思議
あなたの居ないわたしの不思議
世界は
築いたり、毀したり
理窟をいひあつて殺したり
愛や憎しみゆ離合。
不思議がウジヤウジヤ
なにげない顔して
手をふり足をふり歩いてゐる
どうしたわけでせう
母さん
不思議はやはり
不思議のはじめの無の中に
再び帰らうとしてゐるのでせうか。
母さん、私の母さん
私は生れて来なかつた
あなたも
おいでにならなかつた
青や紅や黄
毀せばかなしい万華鏡
さようなら
宇宙のはじめの混沌の
不思議のはじめの無の中で
もしもお互ひにゐたのでしたら
お逢ひしませう。
さようなら
私の母さん。

【氷】
あなたは遂に氷となるでせう
見えるやうで見えない
厚い氷と
見えないやうで見える
透明な氷となるでせう
触れるものすべてを
あなたは結晶させ
氷の透明となる
蒼い雪渓の沈黙に
あなたはなる
あゝ
それを覗いたものは
その眼を灼く 皮膚を灼く
ふたゝび消ゆる事のない跡をしるす

【墜ちた天使】
わたしは碧であり 朱であり
黄色であり
薔薇いろの翼をひろげ
花や乳をたゝへた皮膚である空を
亦ない清浄で翔んでゐたものを
あなたの掌が
世界をおとし
放り出された天使(エンヂエル)の顋門(えら)は割れ
皹(ひび)の入つた眼球の
冷たい 冷たい 冷たさ
風船はみんな空に飛んでいつた

【孤独な魂】
わたしはお前に残された
たゞひとりの友
わたしはすべてを知る
お前の徳や美についてではない
お前のひそかな裏切りを
狡猾な妥協を
あらはにしない憎しみを
わたしこそ
お前の秘密のとも
最后のとも
お前のゆくところ、いづこであらうとわたしは従ふ
氷の蒼い谷も、人ごみの嘔吐の街も
いづこであらうとわたしにとつて変りはない
よろこびのさなかにもお前の受けた十字架を
お前もわたしも忘れない
泥土のなかにお前の身を委ねよ
あらゆる譏(そ)しりを主の杯のごとく受けよ
過ぎこし方も行方をも洩らすな
わたしはお前のとも
お前の最后のとも
お前の敗北と勝利をねがふ
お前の孤独な魂

【やどがり】
かなしいやどがり
その殻をおいては
一歩も歩けないやどがり。
云ひたいことは勝手に喋り
聞きたくないときは耳を閉ぢてゐる。
宇宙はどんなに大きいか、殻の中に居ては解るまい。
因果なやどがり
殻にはくれないの血が通つてゐない。
君らが死んだそのあと、ぞろぞろ海辺に転がつてゐる
それは
いらなくなつた防空壕なのだが。
君らは両棲動物
陸でも海でも都合のよいところへ行ける。
天から
海から
陸から
ノアの洪水が押しよせて来ても
殻の中にさへ居れば大丈夫。
君の存在をけれども聞くまい。

【無題】
優しき蝶は
毛虫よりなるが
天使より
悪魔にひとはなる
花野の故に
荒野の故に

【作品】
これはわたしです
わたしの顔です
わたしの皮膚です
わたしのハート 形ではないハートです
鏡にうつつたわたしです
どんなに歪んで映つても
よそのひとではないらしい
ピカソがかいた絵はみんな
ピカソをかいた絵なんです
俎板に乗つた魚です
にげもかくれも出来ません