増田晃

増田晃(ますだあきら)1915〜1943
1915年、東京府に生れる。東京帝大の法学部に入学後、中心となって創刊した「狼煙」に詩作を発表し、1941年に刊行の「白鳥」で詩壇の注目を浴びた。冊めの詩集「白鳥」を上梓。だがしかし、その同じ月に、天才とうたわれたこの詩人は戦地へ赴かねばならなかった。荒蓼とした異国の野づらで、絹糸のような情趣を、母への手紙に、たばこの空き箱に、ノートの端に書きつづった。1943年、戦死。享年28。

『白鳥』増田晃(小山書店/1941)

【白鳥】
しづかにゆるく
薔薇色の酒をながすやうに
いつか消えいるそのおもひ
白鳥がすべつてゆく………
あつい火の接吻(くちづけ)のあとの
おきどころのないこころとアンジェリュスが
やさしい祈りをうたふとき
白鳥がすべつてゆく………
雪よりもはかなくとけやすく
藍いかがみにうつるその白
その白をなげくやうに夢みるやうに
白鳥がすべつてゆく………
その胸よりわかれるウエーヴのしわは
亂されたとも見えぬばかりに
いつか練絹のあはい疲れとなり
白鳥がすべつてゆく………
その白いまろい胸にわかれるなみは
ルビーのさざめきをこぼしうつし
白い手に消えてゆくまどろみのひとときを
白鳥がすべつてゆく………
夢によくみるこのひととき
夢のなかからみえてくる幾羽かの白鳥
ただすべつてゆくばかりで
白鳥がすべつてゆく………

【バルコン】
海のみえるバルコン
 しつとり靑む高麗芝のうへ
けふも快い壓迫がわが八月をたたへる。
 透きとほつた朝の清いめぐみは
ちらちら葡萄の葉蔭に明んでゐる。
私は夏の白磁の花瓶を見つめながら
 けふもくる白いレエスの少女を思ひつづける。
明るいあさの野菜のやうに
 夏の日光がきらきらその髪にかゞやく。
「海にゆきませうよ」
 ああやがて健康な微笑が幸福な一日を迎へにくるのだ。
眞紅や黄に盲ひたカンナの炎を
 芭蕉の巻葉にうつして潮風がかよふ。
そして私は晴がましい胸の日光をかきわける。
 ああ紺靑の海につづく空の爽かさよ。
私は魚のやうな少女と一しよに
 沖遠く幸を求めつつ泳いでゆかう。

【こひびと】
美しきあぶらしたたり
金のあぶらしたたりおつるごとく
きみをあらしめたまへ
百合の花つゆに垂れしなひ
ましろの百合匂ひたかきごとく
きみをあらしめたまへ
いろ紅き薔薇雨に濡れ
濡れし蕾やはらふふめるごとく
きみをあらしめたまへ
つめたき御空のいろ水にうつり
御空のいろの暮れゆくごとく
きみをあらしめたまへ
ましろの雪のひややけく
ましろの雪の柔らかきごとく
きみをあらしめたまへ

【手】
そのころ私はあなたに捧げる
あかるい曙のささやきをもつてゐた。
金箔のやうにほの明るい
夕もやの小徑をあゆみ、
まだ開いたばかりの赤い罌粟をつみ、
その甘いめしべに
爽かな匂ひをうつされた手で
あなたの白い小さな手をとつた。
まだうすく煙りこむ雪の
ほそい炎の重なりあふなかを
夢みるやうに眠るやうにあるくとき、
かたくとりあつたあのやさしい手、
母らしいやさしいその手は今どこにあるのか。
そのころ私はあなたに捧げる
明るいゆらめく光のささやきをもつてゐた。
あなたのその手は
まどやかなきよい夢をゆすぶり、
ほそい愛憐の炎をみだし、
柔かいアンジェリュスの夕べを祈り、
苦しみの扉をしづかに開く。
そしてつつましい祈のときに
あなたのルビイの脣からこぼれでた
愛の證しさへいつか薄れようとするのに、
誰も氣にとめないあの小さな手ばかりが
私の消えいる思ひを呼戻さうとする。

【爪を染める】
大川のほとり七月の夜氣のものうきおもひの
鳩尾にしむそのやるせなさ もの秘めたさの戯れごころ………
つれづれに爪染めかはし身近きゆゑのそなたの髪の
ほのけき炭火であぶられる息ぐるしさ………
こひびとよ お見せ 螢よりもいぢらしいおぼろな爪を
いま爪紅(つまくれ)で薔薇いろに染めたばかりの爪をお見せ………
(玉虫の綠金の繻子より脆く
 朱(あけ)の小箱のほつくよりやわく
 赤いぼんねの紐よりうすく
 すうぷにとけゆく麺麭(パン)よりかたい
 おまへの光つた爪を見せて………)
こひびとよ 文月の夜の七夕すぎの
物干に涼むこころのその雅さ その哀れさ………
身近に匂ふ甘酸いそなたの髪に醉ひながら
かなたに光沸く街のどよもしを聞くその切なさ………
こひびとよ 夏の夜氣のたのしい戯れごころに
お見せ 今染めた可愛い爪 爪紅に濡れたるこころを………

【汝は活ける水の井】
朱と褐色のぎらぎら光る砂のうへで
わたしは裸のこひびとを見つけた。
彼女は身籠りのからだを砂に置き
移り香ほどに濡れた瑠璃の瞳を
天になげてうつつに夢みながら
その珊瑚の脣(くち)のあはい微笑を
安らかなためいきで濡らしてゐた。
乳のしたには手毬でも抱くやうに
赤い素焼の水甕をかゝへ抱き、
そしてその口からは絶えず狂ほしく
牛乳のごとく香ばしい水が溢れ落ち、
放恣の時のもの哀しさを踏みながら
若々しいよろこびに雪を沸かせた。
その聖い水をてのひらに享けながら
わたしの胸はふしぎな思ひにふさがり
うみぬくむ白波のやうに震へだした。
彼女の大きな眼は聖母のやうに私を見つめた。
やがて水はその眼からも珊々と晶めき落ちた。

【水仙に】
魚の腹より白がねに
雪よりも薄くれなゐに
咲く水仙よ、白鳥の子よ。
産れてはじめて見知らぬ青年に
をののくその手を任せる乙女の
嬉びと羞らひに咲く水仙よ。
餌をさがす鵠が朝霜を
仄かにふみくづす跫音をきく
花になつたわが戀人、春の使よ。

【冬來り】
小雪がかろく裳(すそ)ひいて走りしのち
つひに武藏野に冬は來れるなり。
刈田は目刺の眼のごと青く澄み、
うすき夕靄はあらはなる櫟林に湧く。
ほの暗き野路にひとり佇めば、
今空ふかくトロイの落城をいたみ
面輪蒼ざめ哀しみ舞はむとする
すばる星こそ今日のわれに親し。
戀人よ かつて君はわが前に
行秋の霧はれてかゞやきいづる
ヘレネのごと優しく寄りきたりぬ。
されどけふわれは敗れぬ。けふわれに
君をまもるべき薪もなく 砦もなく
僕(しもべ)もなく 讃歌もなく 劍もなく……
さあれ空ふかくわがために
なほ蒼ざめて舞はんとし立上る星を
涙に仰ぎ見てわが二十五の年は暮れゆく……

【鶏肋抄】
   壹
 柘榴をとりてわが歌ひたるうたひとつ。「おお神よ、かく柘榴
のみづから割りてかゞやきいづるは、御身がうるはしの業のあ
らはれなり。御身は石塊ともおぼしきかたきものに、かへりて
うるはしき欲念をあたへたまふ。」
  貳
 薔薇のかをりを歌ふわがうた。「薔薇よ、薔薇よ、汝がかをり
はわが愛しきの くちに釀めるわづかの酒を 身震ひつ羞らひ
しつつくち移しして飲ましむごとし。」
  參
 椿を見つつわがうたへる一息のうた。「なんぢは生ける炬火な
り。神はあめなる聖き火より つきざるのあぶらを汝にそそぎぬ。」
  肆
 嫁菜をつんでわが歌へる。「神よ、愛ふかき夫にまもらるゝ、妻
のごとき 汝が飾りなき嫁菜を摘む。細き睫毛あはせる優しき
妻のごとき 汝が見どころもなき嫁菜を摘む。雛祭ちかき春田
の畦に 貧しげに嬉しみ泣ける 汝が嫁菜をば摘ましめよ。」
  伍
 枯れたる母子草をおこしてうたふ。「神よ見よ、あはれなる母
は叫び泣けり。今こときれんとする嬰兒を抱き すでに足枯れ
て立つ力なく、共に伏せつつ咽び泣けり。神よ見よ、汝が惠な
き春の母子草はけふつひに、冥福を祈る人もなく息絶えてゆく。」
  陸
 第一の詩章をなさんとしてわが祈るいのり。「われに第一の詩
章をなさしめたまへ。われをして天平の光明のみ后をば頌さし
め、春の宴げの燦めく宵をかなしましめたまへ。若草のべに春
山の霞み壯夫をして、藤を咲かしむの歌をうたはさしめ、愛すべ
き口ひろき邪鬼をしては、一節のセレナアドをも聞かさしめたま
へ。われらのいにしへの相聞のうたをば、再びわが口よりなさし
めたまへ。」

【日光尊者】
  ―三月堂佛像 天平時代―
日光があなたの足許にかがよふた。
低い聲があなたの耳もとでかう囁いた。
「おまへは日光尊者となのるがいい、
おまへはわたしの息吹にわつて輝くであらう。」
そのときから あなたの眼は、
ふしぎな氣魄にらんらんとして來た。
天上の炎があなたに宿つたのだ。
あなたの夢はやがて天馬にうちのり
星の群林をとびこえ、
白い旗印をはためかせて天へ馳けのぼつた。
それゆゑあなたの前に立つと
ひとは身ぶるひを覺え、
日に灼かれるやうな
歓喜と衝動と磁力とをかんじたのだ。
あなたの脣は
赤いくすんだ色を殘し
大日輪のめぐみを湛へて
豊かに綻びかけてゐた。
その脣をみてゐると、
ひとは艶々した栗の圓みを思浮べたり
いま開いたばかりの花をおもつたりした。
そして自分たちの犯した罪も
自分たちを傷けるものとはならないで、
その思想にます/\厚みを加へ
花のやうなナイーヴさを増させるものと感じた。
あなたのもろ手は
若草のやうにやんわりあつてゐた。
その合掌は未來への大道を示してゐた。
ひとはその合掌をみて
天地の上も下もない燐光のあひだに
一つの大いなるものの出現を直感した。
そして一日 つひにあなたの夢は
龍のしるしの日の車をかつて
突如 天上の崖頭にあらはれた。……
ある日 三月堂の大扉が左右に開かれ、
日光のかがよひはあなたの足許に雪崩寄つた。
「おまへはもはや佛像ではない。
おまへの夢はおまへ自らの姿だ。
おまへはまさに天日、そして既に私だ。」
かうひくい聲があなたの耳もとで囁いた。