杉山章夫(すぎやまあきお)
摩周湖の展望台よりおよそ五百メートル離れた茂みの中で、最後まで書き続けていた黒皮表紙の手帖と小さな旅行かばんをそばに、なんの苦しみもなかったかのように、彼は永眠していました。
かばんの中には、この旅の途中読み続けていたと思われる四冊の本と筆記用具、ノート、洗面用具などがはいっていました。四冊の本とは「母と子」フィリップ著 山内義雄訳。「愛と思想と人間」グラムシ緒 上杉聡彦訳。「人生と社会の考え方」寺島文夫緒。「若きヴェテルの悩み」ゲーテ著 秋山英夫訳。
このうち、「母と子」には札幌で買ったものであろうか布製のアイヌみやげらしいブックカバーがかけられてありました。彼のポケットには二百円あまりの小銭と家族と妹にあてた遺書二通がはいっていました。
沈みゆく夕日を浴びて、この摩周湖のほとりに永眠の地として選んだ彼の心には、一年有余の苦悩の生活らら解放された安らぎと落ちつきがあったことでしょう。最後まで、冷静に自己をみつめ自己を表現している手記がそれを物語っています。(『十七歳の死』より)
『十七歳の死』亀川正春・畠中千畝編(三一書房/1972)
【おれの詩(うた)】
おれは書きたい
おれ自身の詩(うた)を
おれの魂の詩を
皆に同調し
皆を激励し、教諭する
糧ある詩を
鼓動するなにもかを握り
詩む人たちの心の奥に
なにものかの心の奥に
なにものかの生ある核(たね)を残す
そんな詩を、書きたい
ただ、書きたい
【指】
この指から……
この指から
ぼくの小さな歴史が生まれるのです
この指に
ちっぽけな苦悶と
ちっぽけな夢と
あらゆるものが隠されているのです
この指で
ぼくは小さな未来を創造するのです
新しく美しく進歩するために
現実と闘うのです
この指は
初めての社会生活を吸収しているのです
工員の下積み生活を知っているのです
この指の感動は
ぼく自身の感動なのです
ちっぽけな、だけど
美しい感動なのです
【ぼくという人間】
孤独なぼく
悲哀のぼく
苦悩するぼく
文句をいうぼく
反撥するぼく
学生服姿のぼく
少年工員のぼく
恋人のほしいぼく
泣き虫のぼく
酒の好きなぼく
バクチをやりたいぼく
浅薄なぼく
幼稚なぼく
ぼく、ぼく、ぼく……
弱いぼく
でも
正直なぼく
悪のきらいなぼく
反省するぼく
回顧するぼく
愛するぼく
考えるぼく
空を見上げるぼく
永遠をもとめるぼく
美を知るぼく
書物を読むぼく
文章を書くぼく
音声を聞くぼく
物事を見きわめるぼく
ぼく、ぼく、ぼく……
いいぼく
そんなぼくもいる
【紙幣】
給料袋から
ひらひらと淋しく散った
数枚の紙幣
一枚、一枚
ふるえる指先で拾って
においをかぐと
生々しい金への魅惑が
ぼくの心へ浸透するのです
これが労働か
これが報酬か
ぼくは、こう思わずにいられないのでうす
ぼくは、どうして汚損しているのでしょう
ばくは、昨夜見た悪夢を思い起こすのです
金銭を要求したいばかりじゃない
苦悩なんてごめんだ
だけど
ぼくの青春は、労働です
労働は、苦悩です
労働は、金銭です
金銭は、物質です
ぼくの人生は、物質的意欲の結果です
油と、汗と、ほこりの中で
あれほど精根こめて
労苦の連続に
くちびるをかみしめ働いたのに
ぼくは、金銭のみを求めたのです
紙幣だけしか知らなかったのです
人間なんて小さなものです
金さえあれば
食欲も、性欲も
衣服も、住宅も
名誉も、健康も
すべての欲望が満足できるのです
汚ないけれどぼくも金がほしいのです
だけど
ぼくは、貧しいんです
どれいなのです
学歴や年齢のために
工員という機械のどれいになり
苦しみ悩んでいるのです
それでも紙幣を求めているのです
【労働】
眉はつりあがり
眼は、機械をにらみ
我が情熱は、機械に、労働に、そそぎ
神経は、針のごとく鋭く
己を縛る
腕を見ろ、腕を
はげしい労働の修練の中で
血筋は、肉をつり上げ
我が腕は、働くため、生きるため
自らを忘れ、機械に向かう
汗と、油と、ほこりの中で
無我夢中で働く
我が身は、闘魂を
労働にぶちまけ
労働は我が身をやしなう
【社会】
社会が俺を変えた
俺の思想は、社会により確立した
新しい見聞を広め
自己の存在を
社会の構造を
知り、悩み
知り、喜んだ
社会により、人間をみ
労働を、把握した
社会は、歪曲のみ
労働は、下僕のへつらい
人間は、汚損して見える
だが、その試練は
甲斐ある青春を、発見し
現実の進歩を、証明した
進展する社会にも、毒素がある
しかし、毒素は、時に必要だった
若い苦悩は
過去の甘い社会への観念を捨て
美しい現実を求める思想を作った
その思想は
未来への生活の糧となろう
ああ、社会は、喜怒哀楽だ
実在の社会から、自信をもえた
だが、幸福は、遠いもの
俺は心血をそそいだ
涙と汗と労苦で
幸福を勝ちとるために
【青春の悩み】
一人の青年が
暗夜の街路を歩いていた
青年は、外套の襟を立てて
両手をポケットにつっこみ
こぶしをにぎりしめていた。
眼は、鋭く夜空の一点を凝視し
身体を、かすかにふるわせ
くちびるを、堅く閉ざし
青年は。しきりに、思考していた
“人間と思想のあり方”
“個人と社会のあり方”
“物質と精神の相違”
“理想と現実の矛盾”
青年は、明解が得られず
苦悩のどん底に陥り
いつしか、全身は、硬直し
眼は、街路にそそがれ
足跡は、もはや、正常でなかった
だが、青年は、歩き続けた
その姿は、まるで地上にさまよう亡霊のようであった
一瞬、青年は、衝撃を覚え
からだは、前にのめったが
腕は、どうにかそれ以前に、地上にさし出され
青年は、からだを支えることが出来た
やがて、起き上がると
手についた土を払い
青年は青白い腕を
しみじみとながめた
てのひらには
十六年の彼の歴史の統計を
十ヵ月余りの工員生活の生傷が
潜在しているようだった
ながめ終えると
青年は、用件をすませたように
再び歩き始めた
青年は、顔を上げ
「これでは、だめだ」
閉ざされた口元から
彼自身の耳に、こうつぶやくと
青年は、態度を革新したかの如く
快活な人間に変わった
瞼は、大きく開き
ひとみは、未来に向かってかがやき
手足の行程は力強く
青年は、驀進しているようであった
今度は、彼自身の
未来の設計と
生きる目標を考えていた
青年の頭脳からは
新しい目標が、つぎつぎと湧出した
“勤勉と労苦”
“言行の一致”
青年は、やがて、二つの目標を定めた
今までとは遠い
きわめて安易なことばで
目標を、表現したことを
青年は、当然に思っていた
ここまで来た時
青年は、足を止め
足跡の残った街路をふり直り
過去の道程を反省した
“理屈だらけの青春”
“目的なしの人生航路”
ここまで回顧すると
もう過去を現在に復帰させるのがイヤになった
青年は、深呼吸をし
過去に向かって大きく息を吐いた
白濁した息がやがて消えると
彼自身の過去の汚れも消えたように思った
青年には、もう、“苦”はなかった
もう“死”ということばはなかった
「己が転倒すれば
己自身で起きよう」
青年は、口ずさむと
体内に湧出する力を感じ
青年は、力いっぱい走り出した
【反撥】
俺が口笛をふいて
腕をまくり、ギヤをふいていた時
「ギヤを入れ違うな、
まちがえると、クビだぞ」
真剣なのか、冗談なのか
俺は、そいつに大声でいい返した
「クビだといわれたら
会社をやめたらいいさ」
そいつめ、驚嘆のようすで
なにやらいったが
その声は、機械にかき消された
俺は、再び、快活に叫んだ
「心配せんでもええ
失敗なんかしてたまるか」
上司め、うなずきやがって
なにか注意したが
騒音が、音声をかき消した
俺は、油のついた腕をまくり
天井を見上げると
電灯め、ついたり消えたりしていやがる
冗談いうな、この野郎
“いやでもこの仕事続けるんだ
やめてたまるもんか”
俺は、何度も、こうつぶやいた
【退学届】
私は四日間、あの空気を吸ったのだ。
そこには、労働者の黒い手があった
そこには、勤労学生の意欲が燃えていた
私はその中で、厚生委員を命じられた
先生は“諸君の活躍を期待する”といった
だが、私、は四日間だけの高校生で終った
四日間の厚生委員であった。
私は五日目に、早くも退学届を出した
先生は“せっかくだから、続けて頑張れよ”といった
だが、私は四日間の高校生活を味わっただけだ
四日間の厚生委員をつとめただけだ
やめたことを苦にしたくない
自分には、今、T学院への夢がある
その上に、自分の人生を開拓する光がある
だが、これからが、本当の勝負だ
私は、これから苦しむために、あえて退学届を出したのだ
【大自然にいどむ】
日常の単調な生活を打ち破り
若者たちは 大自然にいどむ
鍛えられた身体と
鍛えられた精神と
合致し、そこに生まれる
人間と山界との妥協
しかし、そうはうまく行かない
そこには、幾多の困難と苦痛が
待ち受けている
若者たちは、決して敗けない
頂上を踏みしめるまでは
決して敗退しない
若者たちは与えられた使命感と努力で
懸命に足を踏み入れる
そこに、かがやかしい
登頂への栄光があるのだ
【愛の告白】
君に愛を告白する
それは容易ではない
愛を告白すれば
君は、ぼくを野獣とののしるかもしれない
不幸をどん底に落とす悪魔と思うかもしれない
それが恐怖となり
僕は愛を告白できない
だが見よ
人生を探求するごくの脳裏を
真、善、美を求めるぼくのまなこを
ただ、情熱のみ求めるぼくの心を
それらはけがれていない
それらは清浄な青春だ
それらは泉から湧きでた生命だ
精一杯に生きるぼくのすべてだ
接吻、抱擁、肉欲
それだけしか知らない人は、哀れだ
いくら愛を表現したくても
身体の接触のみではいけないのだ
なぜならば
愛は本能や行動ではない
愛は、精神の交流だ
生きるものの情熱のかたまりだ
二つの生命の結合だ
ぼくはこう思う
孤独にたいくつすれば
愛の小さな秘密がいやになったら
ぼくはそっと告白しよう
静かにやさしく求愛しよう
君はどう返答するか
ぼくはそれが知りたい
だが君の声を聞くのはよそう
心臓が鼓動する
【おろかなる青春】
本能、本能、本能
それを好まずとも
欲望は、我が身に宿り
おろかなる青春は
白濁した精液を地上にまき散らす
理想は高くとも
現実は、底辺に横たわる
【汚れた若者ども】
瀬田川の水は
白濁した液体にごとく
濁りに濁っている
その水上に
汚れた若者どもが
楽しそうに、ボートを浮かべている
【人生】
人生!
それは苦しみである
それは人間の挑戦である
我々の世界に立ち向かうもの
それが、人生である
人生!
それは尊い
しかし、人々はそれを忘れている
人々は人生の中になにも発見できない
人々はあまりにも浅薄である
人生!
それは、深い意義を持っている
それは、高い理想を持っている
その意義と理想が理解でき
我々は初めて人間になる
人生!
それは、人間の動きである
心臓の鼓動と同様に人生も鼓動する
動き!それは躍動である
躍動!それは生活の息吹である
【足跡】
走っても
歩いても
足跡は、できる
しかし、止まってしまうとできない
進む限り足跡はできる
横道に入り込めば横道の
逆もどりすれば逆もどりの
不安定ならば不安定の
足跡が、地上に刻まれる
足跡は、正直に人の心を写す
走れば、浅いが、多く
歩けば、少ないが、深く
足跡は、できる
子供の足跡は、素直だから小さい
大人の足跡は、卑屈だから大きい
足跡には、欠点も、美点もある
アスファルトの足跡は、なかなか消えない
苦労のない足跡は弱いが
苦労した足跡は強い
強い足跡は大地に植えつけられる
足跡は、続く
果てしなく、続く
足跡は、過去を残し
現在を切り開く
【孤独の星影(1)】
若き日の
苦しみは
幾多あり
我一人
孤独にして
裏道に
さまよい
つかれ果て
暗闇の
街路にて
くちびるを
かみしめて
星空を
にらみ上げ
故星の
父想う
星影は
我が身刺し
おろかなる
青春は
被写体となり
写される
【孤独の星影(2)】
ひたすらに
愛求む
愛はなく
ひたすらに
幸求む
我が命
幸はなし
孤独になる
星影は
死をこらえ
死を想う
愛情は
青春の
みちしるべ
されどわれ
孤独になる
隣辺に
愛はなし
【苦悩の断章(1)】
太陽、天空、希望
昔は、それらは、美しかった
だが、今はもう
夢想、破片となって散り乱れ
太陽には、黒点が
天空には、暗雲が
希望には、陰影が
混濁し
青春、苦悶に変じ
薄胸、動悸を打ち
暗影、にごれる湖水に
ゆらぎ映ずる
幼少の追憶
今も脳裏に漂う
泣別の友、今はなく
孤独にして、落ちた輝石
波紋えがきて消え行くのみ
てのひらにすくう湖水漏し
再び湖水に帰る
月光、蒼き面前を照らし
眠視、湖底に落つ
滅前の残想
父母の面影のみ
今は、受難を待つばかり
地底、暗闇、失望