〈本チラシより〉
当館創設者の柳宗悦(1889-1961)は、アイヌ民族の工芸文化に早くから着目し、1941年には美術館で最初のアイヌ工芸展となる「アイヌ工藝文化展」を当館にて開催しています。その際に染色家の芹沢銈介(1895-1984)は、同展の作品選品や展示を任されており、自身もアイヌの手仕事を高く評価し蒐集しました。本展では、当館の所蔵する柳のアイヌコレクションに加え、芹沢のアイヌコレクションも紹介し、併せて「アイヌを最上の姿で示した展覧であった」と柳が評した1941年の展示を一部再現します。オヒョウやイラクサなどの靭皮繊維で織られた衣裳や、本州から渡った古い木綿に切伏や刺繍を施した衣裳、そして幾何学文様が魅力的な刀掛け帯、アイヌ玉の首飾、儀礼の際に用いられる木製のイクパスイなど、アイヌの手仕事には細部にまで豊かな想像力や深い精神性、そして卓越した造形力がみなぎります。柳がアイヌの工芸から受けた「真実なものへの強い感銘」を本展を通して共有することで、民族の多様性を尊重する社会へと繋ぐことができれば幸いです
〈『アイヌの美しき手仕事』 公益財団法人アイヌ民俗文化財団 刊より〉
1941年、柳宗悦は、日本民藝館で「アイヌ工藝文化展」を開催した。600点に及ぶ染織や木工芸を前にして、その美に感嘆し「どこからその素晴らしい美の力を汲み取ってくるのか」と自問自答した。それは信仰であるという事。切実な美への畏敬であり、真実なものに対する強い感銘であることを導き出し、そこにもっと本質的な只ならぬ美を含むと、言葉を結んだ。
柳宗悦の民藝思想であるこの眼差しは、近代日本が築いてきた価値観を逆転させるものでもあった。選りすぐられたものだけ美を認めるのではなく、当たり前のもの、それまで見向きもされなかった民衆の日常雑器に、美の本質があることを見い出したのである。
同様にアイヌ文化への眼差しも、多くの研究者の視線とは、全く別の次元にあったことを強調しておきたい。柳宗悦は、次のように言う。
「私が多くの学者(アイヌの民俗学者)に不服を感ずるのは、彼等はアイヌに好個の学的対象を見出しているが、それがとかく個人的な満足に終わっていて、アイヌの運命の為に闘おうとしているのではない。自己を捨て忘れて、アイヌの為に憂い気づかっているのではない。そういうことにむしろ冷ややかであって、自己の知識を増すことのみ情熱が集まりがちである。どこかそこに利己的な影がないであろうか」
アイヌ民族とその文化への視線は、1880年代から第一次世界大戦までの間、欧米諸国から注がれた。いずれも考古学、人類学あるいは民俗学的関心によるものであり、さまざまな分野の学者がアイヌコタンを訪れて資料を調査、蒐集し、現在、膨大なコレクションが国内や海外にある。
柳宗悦の言葉「知は美を見る眼とはならぬ」。もし、そこに美しさを見たいとするならば、知るよりも前に、自分の目で見ること、感じることが大事なのだ。
モレウ(渦巻き文様)の曲線の美しさ。紺地の着物の内側を広げてみたときに、刺繍糸が、まるで銀河に浮かぶ星のように輝いていることに気づけるか。その美しさを見出す準備が私たちにあるのか。
しかしながら、それだけでは、「もの」が語る言葉に耳を傾けたことにはならない。
2013年、北海道立近代美術館で「AINU ART― 風のかたりべ」展を開催したとき、アイヌの古い着物を展示しているコーナーで、一人のご婦人が私を呼びとめていった。「樺太アイヌが北海道に強制移住させられた時、生きていくために着物を手放すしかなかった。大切にしていた着物を、涙を流しながら学者に売るしかなかった。自分は、そのことを伝え聞いた」と。その女性は、「着物を見るとその涙を考えずにはいられない。そのことを覚えていてほしい」と私に話して立ち去った。
擦り切れた美しい着物に、何を見るか。意識を少し変えただけで、目に見えてくるものは大きく変わるはずだ。(五十嵐聡美(北海道立近代美術館学芸総括官))
グローバル化が進み閉塞した社会の中で人間が排他的になっている。差別はグループ分けから始まる。誰がどこにグループ属するか。国家なのか国民なのか、民族なのか宗教なのかというように属性で相手を量るようになっていく。
柳宗悦はナショナリズムの中に生涯身を置くことはなく、どんな民族にたいしても差別感情を持たなかった。それは他民族の芸術の中に発見した美を通して、人類の普遍的精神のあり方を見い出していたからである。
他民族の文化に触れて「知は美を見る眼とはならぬ」と「平和」を想う。