相澤諒

相澤諒(あいざわりょう)1927~1948
1927年1月13日生まれ。
1948年9月28日、腸結核による闘病のあげく大宮日赤病院で服毒自殺した。享年21歳。
生家は埼玉県児玉郡藤田村(現在の本庄市)牧西において酒造業を業としていた。父公平、母スヤとの間の長男で、4人の姉と1人の妹があり、父と義母との間に生まれた弟妹もあるようだが、その消息はさだかではない。父公平は事情があって家業をつぐことなく、証券業にたずさわり、鉱山の採掘なども手がけ、経済的に生活もかなり浮沈があった由である。4人の姉のうち2人はごく稚いときに死去し、母スヤは1937年に、次姉都は1944年に、父公平は1950年に、いずれも結核で死去している。
相澤家は雑司ヶ谷、浦和市木崎、下谷区谷中真嶋町などを転々し、諒は1940年下谷小学校から府中5中に進学するがやがて父と義母とが埼玉県深谷に移転し、諒だけは駒込に1人で下宿することとなり、その後21歳で自らの命をたつまで家庭生活を知らず、1人で下宿あるいは自炊の生活を続けることとなった。このことは人間性や義母との関係などに原因があったものと思われるが、そのことは別として、諒の試作品にみられる深い孤独感、甘美な肉親への慕情などは諒のこうした生活と無縁ではない。
府中5中時代に、同学校で年に1回発行されている雑誌「開拓」に短歌、詩、随想を発表した。特に短歌は石川啄木ふうの感傷的で特筆すべきものがあった。
1943年、中村久慈(現在の仲村八鬼)主宰の「若い人」文学会の会員となり、1943年同誌に5篇の詩が掲載された。これらは注目すべき才能の萌芽を示してはいるが、習作の域をでるものではなかった。1946年、「若い人(第2次)」が復刊され創刊号に「鎧塚に寄せて」を発表した。仲村はこの作品に接して、「驚くべき成長を遂げていたというよりの、既に完成したと私はひそかに欣喜雀躍を禁じ得なかった」と後に語っている。
1944年3月、府立5中を卒業し駒沢大学に進学した。勤勉な学生であった気配はなく、怠け放題に怠けていたようである。その頃、諒の関心はもっぱら立原道造に向いていたようであり、詩作の多く立原道造から強く影響されていることは誰の目にも明らかだが、諒が彼なりの個性を開花していたことも間違いないだろう。
諒の短い生涯だった詩作を考えると、天性の資質として言葉に対する敏感すぎるほど敏感な感受性に恵まれていた。そのゆたかな感受性が立原道造にめぐりあって、立原の影響下に若々しい個性の花を開かせた。立原が諒の身に合わなくなったとき、諒に訪れたものは言葉というものに対する本質的な不信であった。言葉がもつ日常的な意味やイメージ以上のものを、同じ言葉が詩において表現できるのか。――聴こえない音、視えない風景など言葉以前の記憶としての詩を考えていた。だから、諒はほとんど不毛の、未知の世界に挑まなければならなかった。短い生涯の最晩年の主題はいわば脱出口のない絶望であり、かがやかしい喪失であった。(『風よ 去ってゆく歌の背よ』より)

『風よ 去ってゆく歌の背よ』相澤諒(青土社/1981)

【鎧塚に寄せて】
――鎧塚 ふるさとの野につい最近までおもかげをとどめてゐたといふ――

みちゆくひとよ
ともすれば
ともすれば忘れゆくこの人の世の愛(かな)しみのなかで
古き世の荒廃(すさみ)の痕に
足をとどめて まさぐりて
草 かきわけて
苔 かきよせて
碑(いしぶみ)を読め

自然の力は
さまざまに大地の疵を消してゆくが
心に通(かよ)ったあとを消さうか
余りにも疾い時間が
忘却が
いまだ尚底ふかく燃えてゐるこの地表を
月に変らすおほいなる掌(て)が
雨を濺ぎ
雪を濺ぎ
かがよふ径を隠さうとも
青苔に祷りも消ゆるときが来ようと

人は知らぬ
太古このかた消えてしまった星を知らぬ
進歩と呼ぶ人の力が
肉眼には見るすべもない新しい星を発見(みつ)けたが
そして
この遊星の この地球の 真上の虚(そら)に
この蒼窮(あおぞら)に
またたかぬ星がいくつあるかを
人は知ったが――――
しかしあなたは知ってゐよう
あの流星は
穹に映った澪(みを)だったと

花よ
地上の花よ 野の草よ
常磐樹ならぬ菩提樹のあるこの国に
よし無憂華の華はなくとも
軀(み)をかがめて
ゆかりの色を
しづくせよ
燻(くゆ)らせよ
ゆふぐもよりもやはらかな微風にそよげ
そして冬の日ともなれば
せめてはあたたかくわくわばで裹(つつ)め

自然のたくみの愛(かね)しさを知れば
恋しいおもひも虹と懸けて
このりんれつたる大気の下でも
ひととき
蒼窮よりも美しいひかりがうつった眸(め)を
ひとみを
睫毛のかげに
ひたすらの未来を罩めて絶えいるまで
ほこりかに
きらめくばかりにまたたけよ

信じよう
月のおもてに翳さすものをば命をこめて信じよう
この大地は
厖大な宇宙のなかで
やっぱり
――――ひとつの星なのだ

みちゆくひとよ
伝説の塚へと続くこの小径をばゆくひとよ
この人の世を愛(かな)しく生きゆく
あなただけは知ってゐよう
過ぎ去ったたたかひの野の静寂(しじま)の裡に
美しい自然のあゆみに匿されて
雄々しかった
純らかだった
碑(いしぶみ)が
いくつも
いくつも ある ことを…………
(昭和19年3月3日)

【糸遊(かげらふ)】

美しいひとつの誤解を携へて
風のなかで渺茫をながめようかな こころを和まぬいちにちは
赤と茶いろとむらさきと――(心づかひにわすれさられた僕の踵(かかと)のほころびよ)
あたたかい そんな毛糸のくつしたを 僕はもらった 叔母さまから

こひしさよ うすれ陽(び)よ おもかげを啼いてめぐるか
ゆきずりのほほゑみのやうに そよめいて――
やまなみを指して ゆくてのみちを指しても 大空よ おほぞらの下よ
このおもひにたへうるか 僕よ

孤りばかり ゆきずりのみちは
唯 さびしさに慢じるか
頼りないばかりのいのちの日は 美しい背広がまとひたくて

さりげなく胸にはらむ二人ばかりのしあはせとは――
ああ眸(め)の衷にひとすじのやさしみだけがくづれるのか(沓(くつ)が鳴る沓がなる野路)
……白雲よ しらくもよ 僕は―――ぼくは うつくしいか
(昭和19年4月)

【みちぞひ】

もっとよく もっとさびしく
ながめよう 私よ 睫に そして まなかひに
もっとさびしく しかし もっとよく 私よ 秋は
風が 雲が 小鳥が かげらふが ゆめのやうな青にほけてとんだと

みのりは蒼窮(そら)にきえて 地(つち)にめぐむ 春に
きえていったいのちが さしぐむ―――それを
かなしみとは なぜ いふのだらうか なぜ いったのだらうか
ひかりは雲を透けて――さう 陽かげはあかるいものでさへあれば いい

たへて きたのは うたって きたのは あを虚(そら)の
おもみ だ いつ おまへに うたへよう いつ 私よ
あの いちめんの灰空を そして 傘にかしぐさびしさを

―――傘をかたむけて
いつ 私を おまへは ぬれる あるきはじめた日を おもふ―――みちぞひ
旅するおもひに―――しかし聊さかは美しいそらにみちびかれたと
(昭和19年9月)

【かげらふのうた】

もうとほくなった日は 灯のともる草むらで星を映してゐた
やさしい眸(まみ)のやうだと 微風(そよかぜ)は怪訝(けげん)さうに 草によく
訊ねてゐたものだった あの虫がむすんで点滴(しずく)となったか
あの熱くない螢の灯(ひ)はあれがひやしていまふのか と

またたかぬ星が消えてゆくと熱い空がやがて呼んだ――泉は
応へず流れてゐた ぎんいろに姉妹(きやうだい)たちがゆれてゐた
ひるがほが身をかしげて囁いた葩のなかへと……けれど
もっと優しいささやきがあった 誰ともなく どこからともなく

おゆき しづくするものははてないのだよと くさつゆの
ゆかしい匂ひが冲ってあをいそらとなるのだよと……そして私は
地のなつかしさと空の愛(かな)しみをわかちあった……

姉妹(きょうだい)たちよ あの日から より美しい日が地の上には輝いたらうか
やさしかった 草や花や声のきれいなこほろぎたち――
ごらん 空をふんで 星をゆすってゐるのは 僕なのだよ
(昭和19年11月)

【喪】
聾(みみし)ひて風のおと聴くひともがな……
(稲津静雄氏に――
“言葉”との訣別の日に あれら“うた”であった日の筐に
――まこと! 純粋なる詩とはことば以前の記憶でなくてはかなはずよ……)

……………熱い 記憶の中で ふって
ゐた こゆき…… ちらり と 一瞬
星を拡がらせて たちまち 消してし
まふ そらの ふしぎ…… ……こゑ
ごゑにたち罩める風の気配であるやう
なうそさむい夜のむらさきの下で あ

――――遠い林の中で 私を終へようとするいちにちが物静かにあるやうだ……
あをいいそらが 瞬いてゐる…… ……しろい燠………

私は 聴いたのか……!………またしても…… めくらむやうに青い聳えに墜ち
てゆく蝶の趐(は)おとを――――
ああこずゑ!――自然の 青空への 破風――――かぜがくる
ひかりが零れる しんしんとちりみだれる なにもかもこぐらかる とほくなる
とほくなる ああ 睡むりのやうに青く均(な)らされる………そして
――残んのゆふひのやうにもう埋まってゐる白い肩………

キラキラと無限に私は聴いた
ああ無数をもつものを あいせ……!
………かぜがくる―――いまも
あかあい夜のくらみからもう離れない深い動きが残ってくる……

えゑ!埋没み 朽ち果てよ!ことば!――月よりの火もふぶくがいい……!
そのときはゐない私の俤を魅する秘密が風景を輪廓にかぎってゐたのだ……
粉雪のなかへ星が隕ちる日 散らばる灯――
――――蘇る  風のなかの歌―― 疲れがそのなかで赫やいた――
……なつかしい時代が雑沓する 神々(かうがう)と白く拡がる 無数に――むすうに兆(きざ)してゐたことばはある……

私は 大気のなかで叫びこみあげる記憶を耳にした……
あなたがみてゐた――! 天の泥濘――
うたってゐた 私 私たち――

私は咏った さうだった……!
私は 私の祈(いのり)の 私の周囲を融かしてゐる半円をみた
そして同時に そのそとの大気からふとわらひ声や叫び声を耳にしだした……
そしてそのとき

―――私  ああ私―――わたしは……!―――
―――私は  私の詩(うた)の半円をみた!

そのときはゐない私の俤を魅する秘密が風景を輪廓にかぎってゐたのだ……
―――くち はてよ……!……こと……ば……!……

夢からでも 鐘は鳴らう……

夜の  奪ふやうにも美しい耽りこそは……!………ああ数を崩して
いましむげんにふり罩める………
……ふりこめてふりみちる……………ふりしきる……………
(昭和19年12月6日)

【啞の歌】

どの星に―― どの星に 帰ることばであったらう
ああ北斗!……青空の残りに 星が霧から美しいあたり
胸のかへらぬことばかり――かへってはこぬことはばかりが ひるがへり……ひるがへり
ああきらびやか!天の柄杓―――汲みもつくすか?野の微風――

ひるのなかに 風のなかに点(つ)けっぱなしの星は私の眼をみない ああ私
………青空に花の内部を聴いてゐた
風のなかに村があるのだ こゑだにしない人里だった
そしてことばは私の外へ こゑとなり 涸き 赫(かが)やき 大きな白昼(まひる) 景色のやうに消えつくし……

忘れはてた灯影をおもひ だすほどの
すでにこ昏れてゆく思慕はこ雪に濡れた黒い瞳(め)で 矌野の果に
明減する きらめき隕ちる ああ澪!天の!

流れ星―――(……雪がくる……天の柄杓(ひしゃく)は傾(かた)ぶかず――) 夜となる 遠ぞらの中をなくしてなつかしい!
女(ひと)   野の草の向ふのやうに
消え かかる 信!《啞をやぶって血を喀くか⁈》―――雪あびる いのちの弧影……
(昭和20年1月末)