浅草にある田中忠三郎氏が収集した「襤褸」を展示しているアミューズ ミュージアムが、2019年3月31日(日)をもって閉館するそうだ。「襤褸」は、日本よりも欧米で評価され「BORO」として世界共通語となるくらい人気がある。いのちを尊重して大切に使い切るというのは自他を思いやる心に充ちているものである。
◆BORO 〜つぎ、はぎ、いかす。青森のぼろ布文化〜 都築響一
そんなに昔のことじゃない、たった数十年前まで、貧しい農村といえば、人はまず東北をイメージした。本州のどん詰まり、東北の端っこの青森県で極貧の生活にあえいできた農民が生み出した、恐るべきテキスタイルの美学、それが “ぼろ” である。
民芸に詳しい人ならば、青森というと津軽のごぎん刺しや、南部の菱刺しを思い浮かべるだろう、雪国の女性たちによって伝えられてきたごぎんや菱刺しは、昭和初期の民芸運動に発見されて、一躍脚光を浴びるようになった。もっともっと肌に近いところで農民の日常のなかに生きてきた “ぼろ” は、いまだに顧みられることがなく、「貧しい東北を象徴するもの」として、恥ずかしさとともに葬り去られようとしている。
〈略〉
ここに紹介するのは東北地方でほとんどただひとり、昭和40年代から青森県内の山・農・漁村を歩き回り、“ぼろ” とひとまとめに呼ばれる、布と人との愛のあかしと探し求め、保存してきた田中忠三郎さんのコレクションである。
そっくり復刻して、フランス語かイタリア語のタグと高い値段をつければ、そのままハイファッションになるにちがいない、完璧な完成度。それが民芸や現代のキルト、パッチワーク作家のように、きれいなものを作りたくて作ったわけではなくて、そのときあるものをなんでもいいから重ねていって、少しでも温かく、丈夫にしたいという切実な欲求だけから生まれた、その純度。
優れたアウトサイダー・アートが職業現代美術作家に与えるショックにように、雪国の貧農が生んだ、“ぼろ” 思いがけない美の世界は、ファッション・デザインに関わるすべての人間に根源的な問いを突きつけ、目を背けることを許さない。
◆物には心がある。 田中忠三郎
いつのことだっただろうか、過疎でほとんど人がいなくなった山村の朽ち果てた家で独りの姥にあった。その姥が静かに語ってくれた昔の話は私にとって新鮮であると同時に。しみじみとした感慨を残した。
なぜ、独りでここにいるのかと問うた私に、は答て言った。
「近くに先祖が眠ってる。墓を捨てて、どこにもいかれねえ」
姥の指さすその先に墓地が見えた。墓石は傾き、草に覆われ、供養に来る人もなくなっつていたが、姥にとってはそこが懐かしき人々の思いがこもった地であり、愛した夫を偲ぶ場だった。そこには亡き父母がいるし、兄弟姉妹、友だちもいる。
「おらはなんにも寂しくねえ。亡くなった人がおらを迎えに来るまで、思い出の中に生きて、待っている」
その姥のやさしさと清らかさが哀しく、私は思わず涙した。姥は続けてこう語った。
ずっとずっと昔に、おらは涙をなくしてしまった。若いときに、泣けるだけ泣いたから、今は流れるものもない。年をとるというのは良いことでなあー。欲もなく、人と争うこともねえ。欲は人を傷つけるし、自分をも悲しいくらいに傷つける。欲がなくなってこそ、土に還れるものだ」
姥はそう言うと、ふと小さな笑みを浮かべて私を見た。
「おめ、古い物が好きなら、この家さある物、何でも持って行け。姥の形見だ」
民具には人の温もりがあり、やさしさがあり、そして物語がある。
◆「もったいない」の心 田中忠三郎
「もったいない」は衣類や食べ物など物だけに使う言葉ではない。
慕われてい人、やさしかった人がなくなると、隣近所の人たちが「ああ、いだわしい(もったいない)人が亡くなった」と嘆くように、人に対しても使っている。
人が亡くなると、その亡骸は火葬することもあったが、「もったいない人だった」という肉親の情からだろう、昭和20年頃までは農村部では焼くことなく、自分の言えの庭や、家の近くの小高い丘に埋葬することもあった。亡くなった方がいつでも家を見ることができるようにという想いからである。
昭和初期までの日本の山間部には、現在ほど立派な寺や墓地があるわけではなかった。
いだわしい人、惜しまれてならない人をいつもどばにおきたかったからこそ、家の傍に埋めたのである。
昭和40年代だったか、青森県の南部地方での民俗調査の折に私は村の姥から聞き、その村の土葬の墓地へ行ったことがある。
姥が若いころの話だが、姥の子どもは生まれて数日で亡くなった。
青森では生まれたての赤ん坊をイジコという育児用の籠に入れるのだが、そのイジコに入れる間もなかった。悲しみにくれた姥は、そのイジコに亡くなった子どもを入れ、石を抱かせて埋めたという。
今度生まれてくるときは、石のように固く丈夫になるようにという願いだった。
縄文時代の大規模集落跡として知られる三内丸山遺跡でも、子どもを埋葬した跡から小石がよく発見される。いだわしい人が亡くなったという気持ち、親が子を想う母の心はきっと一万年前の縄文時代でも変わらず、姥とおなじ気持ちで小石と共に子どもの亡骸を埋めたのだろう。
私は幼い頃いつも祖母の傍にいた。祖母は私によくこんな話をした。
「人は亡くなると山にいく、人が死んだとき着せる着物は麻でなくてはならない。麻は自分の畑に植えた植物であるから地元の土に還りやすいのだ」と。
また、「布や着物は自分の体を守るものだから、どんな小布も大事にしなければならない。いだわしい」とも言っていた。それが口癖だった。
私は祖母から「もったいない」という言葉を聞き飽きるほど聞いた。