三石勝五郎(みついしかつごろう)1888~1976
1888年 11月25日、長野県南佐久郡臼田町(旧青沼村)入沢に倉蔵長男として誕生。12際で母と生き別れ、山河にしたしみ、自然詩人の心を養う。
1901年 4月、青沼小学校をへて県立野沢中学入学。
1906年 8月、野沢中学年在学時、長野市保科塾に学び、五無斎の感化を強く受ける。
1907年 3月、「佐久唱歌」自費出版、後に信毎叢書「佐久の歌」に付録として収録。
1908年 4月、早稲田大学入学。
1913年 7月、早稲田大学英文科卒業。「答辞あり」。
1914年 3月、南佐久郡史編集従事。
1915年 7月、朝鮮に渡り釜山日報記者となる。翌春帰国。
1918年 5年、南北社(東京・牛込)出版部に入社。
1921年 8年、信濃高原を題材にした「詩集火山灰」を吉江喬松(早大教授)に出版社紹介を兼ねて渡す。
1922年 11年、西田天香師に従って一燈園生活を始める。翌年7月まで秋田県田ノ沢・尾去沢・小坂の鉱山・十和田湖で働きながら行脚、続いて・青森・北海道・樺太の海岸を放浪行脚する。
1923年 4月、「詩集散華楽」(一燈園での生活)新潮社刊行。7月、宇野きくと結婚。
1924年 4月、「詩集火山灰」新潮社刊行。
1925年 春、東洋大学哲学科にて易径の抗議を受講。12月、東京伝通院前の大黒天境内に住み、福門堂易断所を開設して、運命判断、易占業を始める。
1942年 3月、信毎叢書「佐久の歌」信濃毎日新聞社刊行。
1945年 5月、戦災、帰農。
1956年 4月、閼伽流山明泉寺境内に香坂高宗詩碑を記す。
1957年 故黒沢茂雄医師主宰の信州百壮会が結成されるやその顧問となり会歌「神州長寿讃歌」を作詞詩、機関誌「百歳の壮年」にも原稿を寄せる。
1967年 11年、「詩伝保科無斎」高麗人参酒造社から刊行。
1968年 3月、八千穂村崎田に建立の篠原蔵人の碑文を記す。
1969年 8月、妻きく他界。11月、「指圧讃歌」で浪越徳治郎氏とテレビ対談。
1970年 4月、「信濃閼伽流山」美術年鑑社よち刊行。このなかに「詩集閼伽流のささやき」「詩集ひげの旅」を収録。
1971年 11年、臼田町稲荷山に有志者による像・詩碑建立。像リレーフ早川巍一郎、詩文リレーフ西条八十。
1976年 8月19日、小海町美浜台病院で逝去。享年88歳。
『散華楽』三石勝五郎(新潮社/1923)
『火山灰』三石勝五郎(新潮社/1924)
『佐久の歌』三石勝五郎(信濃毎日新聞社出版部/1942)
『詩伝・保科五無斎 : 百助生誕百年』三石勝五郎(高麗人蔘酒造/1967)
『信濃閼伽流山 : 摂政宮行啓地』三石勝五郎(美術年鑑社/1970)
『三石勝五郎全詩集』三石勝五郎:著 宮澤康造:編(ぶっく東京/2001)
『三石勝五郎全詩集』三石勝五郎:著 三石勝五郎翁を語る会:編(三石勝五郎翁を語る会/2003)
『詩集 散華楽』より
【青空】
おお、願いは湧けど
影もなく
一刹那はにげて行く
永遠に求めるものは何か
声もなし、あともなし
山にはたゞ大きくかゝる青空
(田ノ沢鉱山を出発して)
【我を呼ぶ声】
みどりの上に
赤き矢の一線
山はまるくねむり
夕やけの空は雲切れて
花ひらく
川岸に湯屋のけむりは細く
かつかつとないた雨蛙
おお、仏の子供よ
神の子供よ
天国にあそぶ雲のわだかまり
遠く呼んでいる人の霊
手をあげてすすむは誰か
死して花咲く聖者の声か
おお、我を呼ぶ声はここにあり
赤い赤い霊が
ひかりに向かいて
空高く反響する
合掌、ただ合掌
(1922年7月11日 小坂川に沿うて)
【芋ころ】
めくらが手さぐりで
畑つくりつゝ
お題目
【我は永遠にまずし】
都会離れて
虚空にとぶさびしき島よ
田舎は我が故里なれど
心のかげに、連れもなく
我はさまよう
遠く来て
この山中、いくる時
孤独は我を産む母か
心の中に湧きあがる
一つ一つの血よ
父よ、母よ、きょうだいよ
思想を、情景を、行為をみな我が生命
寂寂に巣をくう島よ、影よ
石ころの如く
冷たい顔していくる
我は、永遠にほほえみ紛う
【我は永遠にまずし】
(宮崎安右衛門さん著『聖フランシス』の序に天香さんは言われました—)
食もなく
宿を出た
天香さんはこのあたり
白壁寒き裏道に
冬の光を拝んだが
やれやれ、うれし
ながれくる大根一つ手に取りて
押しいただいた天香さんよ
心の空に慈悲の雨
遠く秋田の小川ばた
影はうつれど我ひとり
今日、しみじみ師を思う
【旅あと】
つかれたる心にひびく
虫のこえ—
やせ腕をさすりて、ベンチによれば
秋の昼過ぎ、心あつく
うき出たる幻が輪をえがいて
黙々として散る朽葉……
我が生命は死の影に
青い顔しておどり
旅あとの思い出は夢の如く
あまきはなしみににじむ
おお、つかれたるこの心
神も仏もとび去ってしまい
日輪をまわる鳥の
何とこの上野の森に騒がしいことか
(1922年11月樺太より帰りて)