ナナオサカキ(ななおさかき)1923〜2008
1923年(大正12年)鹿児島県生まれ。紺染を生業とする裕福な家の7男として生まれたが、のちに家運は傾き一転、極貧の生活となる。太平洋戦争中は鹿児島の出水海軍基地でレーダー解析の任務についていた。この時、長崎に原爆を投下しに飛来したB-29爆撃機の影をスクリーンで見たという。
戦後、旋盤工、鋳物工など職を転々とする。一時、改造社の社長秘書となり、志賀直哉、大川周明、斎藤茂吉など作家や思想家、歌人、詩人と接する機会を得る。しかし、金よりも時間のほうが大事と悟り、1950年代初め頃にドロップアウト。無職、住所不定となる。1960年代半ば、新宿ビート族という若者集団とのつきあいを深め、独特の風貌と強い個性でカリスマ的な存在となった。このとき、ななおはすでに40歳を過ぎている。1967年、日本のカウンターカルチャーの先鋭、またヒッピームーブメントの核となる「部族」の立ち上げに加わる。「部族」を母体とした、信州冨士見高原の「雷赤鴉族(かみなりあかがらすぞく)」、東京国分寺の「エメラルド色のそよ風族」、トカラ列島、諏訪之瀬島の「がじゅまる夢族」(のちの「バンヤン・アシュラマ」)などのコミューンを拠点とし無銭旅行を繰り返す。
詩作は少なくとも1950年代からはじめており、1963年頃、たまたま英訳されたななおの詩を読み興味を持ったゲーリー・スナイダー、アレン・ギンズバーグに京都で知遇を得て、その後深い交流を持つことになる。1969年に初めてアメリカに渡り、西部の山々、砂漠を歩き、とくに未開な地域を探索し、雄大な自然の中に浸った。その後は、ヨーロッパ、中国、オーストラリアなどを訪れるが、とくに北アメリカへの旅は繰り返され、滞在も長期に亘った。詩作や放浪の旅だけでなく、諏訪之瀬島のヤマハ・レジャーランド開発ボイコット運動や石垣島・白保の珊瑚礁を守るための活動、反核・反原発運動へ積極的に加わっている。国内で出版された本は、詩集3冊、翻訳詩集1冊。海外では、英訳詩集4冊のほかに小林一茶の翻訳がある。またチェコ、フランスでも詩集が出版されている。
ゲーリー・スナイダーは、”Break the Mirror” (アメリカで出版されたななおの詩集)初版序文のなかで「ななおは、日本から現れた最初の真にコスモポリタンな詩人の一人である」と書いているが、マスコミを拒絶する姿勢を貫いてきたので、日本でほとんど知られていない。また、ななおの遺言には、「いかなるコマーシャルにも詩の使用不可」という言葉が明記されているという。最晩年は、長野県下伊那郡大鹿村に暮らす古くからの友、内田ボブのところへ身を寄せた。2008年12月23日未明、南アルプス山麓の土の上で息を引き取った。享年85歳。
『犬も歩けば』ナナオサカキ(野草社/1983)
『地球B』ナナオサカキ(スタジオリーフ/1989)
『ココペリ』ナナオサカキ(スタジオリーフ/1999)
『ココペリの足あと』ナナオサカキ(スタジオリーフ/2010)
【これで十分】
足に土
手に斧
目に花
耳に鳥
鼻に茸
口にほほえみ
胸に歌
肌に汗
心に風
これで十分