高木護(たかきまもる)1927〜
1927年1月25日、熊本県鹿本郡山鹿町ミドリの徳永質屋の倉の中でうまれる。父末喜、母道江の長男。姉あり。一家揃って質草に入っていたのかもしれない。
1933年4月、本籍地の同郡岩野村小学校男岳分教え場に入学。このころ病弱のため、病名不明の発熱で苦しめられる。
1939年3月、同郡岩野村小学校を卒業、それまで岩野村小学校本校、同郡八幡村小学校、岩野村小学校、長崎県の佐世保市福石小学校、山鹿町小学校と7、8回転校する。4月、山鹿町の町立実業学校商業科に入学。
1942年3月、山鹿実業学校を卒業。福岡市の丸善書店博多支店に就職。書籍部の小僧さんになる。このころからものを書きはじめ、文字好きの九州大学の学生や「九州文学」の同人たちや、古本屋の南陽堂と知り合う。また南陽堂から辻潤のはなしを聞かされる。
1943年、昨年の秋ごろから、『蝋人形』『岩壁』『詩歌少女』などに詩のようなものを盛んに投稿したが、一度も載らなかった。もっぱら、ペンネーム作りに熱中した。7月、肺炎に罹り、丸善を退社して熊本県菊池郡隈府町の家に帰り療養。10月、同郡花房飛行場にあった陸軍気象部菊池観測所に入所。軍属となる。12月、南方要員として転属を命じられる。
1944年7月、三重県鈴鹿の石薬寺の第一気象連隊を経て、門司港から乗船、マニラを経て、シンガポール港に上陸。ただちに同島のシグラップ村にあった第三気象連隊本部に配属される。気象観測勤務に就いたとたん、デング熱、疥癬、熱帯、潰傷(風土病のひとつで、肉が化膿し、腐れる病気)、アメーバ赤痢、マラリア熱帯熱などに罹り、高熱で全身が黒焦げとなり一時は死亡とみなされ、屍体置き場に運ばれたこともあり、員数外となる。
1945年、員数外で勤務先がないので、シグラップ村の近くのカトン町にあった兵寮の図書室に、毎日通う。7月、マライのバハン州メンタカーブに赴く。8月、員数外のまま現地入隊、二等兵になる。一週間目に一等兵になったが、敗戦。10月、クアラルンプールにて武装解除を受け、重労働ののち、リオ郡島レンバン島に送られ、そこで抑留生活。飢えとマラリアの再発で苦しむ。
1946年6月、名古屋港に復員。父、母が死んでおり、弟妹5人が残されていた。熱病の後遺症で、歩くのがやっとの状態だった。
1947年、山の中の炭小屋をつくらい、小屋暮らしをする。このころは死ぬというのが、唯一の希望のようなものだった。
1948年、小屋暮らしのおかげか、歩けるようになったので、土方や農家の日よう取りをはじめる。2月、『詩と真実』の同人となる。
1949年、岩野村の弟に居候になっていたが、村を出たり入ったりする。ぶらぶらの練習みたいなものであった。
1950年、定食にありつけないまま、山番人、製材所行員、伐採夫、トラック助手、町で密造酒造りの手伝い、ちゃんばら劇団員、闇市場の用心棒などをする。このころ丸山豊を訪ね、第2期『母音』に参加。松永伍一、森崎和江、川崎洋、平田文也、有田忠郎、深田準之助と出会う。また三木一雄編集『文学の季節』の同人となる。
1951年、飢えからの栄養失調のために村に帰る。当時の体重は39キロ。短編小説を2、3篇書く。
1952年、村を出てぶらぶら歩く。行商の手伝いをしたり、土方、札売りをする。
1953年8月、熊本市の荒木精之主宰の『日本談義』の書生になる。永松定、森本忠、安永信一郎、安永蕗子、永畑道子、吉村光二郎、長谷敏男、と出会う。詩の他に童話、小説を書く。
1955年10月、『日本談義』をしくじり、いったん村に帰る。それから、本格的にぶらぶら歩きはじめ、九州一円を歩く。勿論、野宿専門である。自称、自然学校の生徒だと名告る。
1958年、ぶらぶら疲れをしたので、筑豊の炭屋に住みつき、ボタ山のガラを拾って暮らす。
1959年7月から2ヶ月、谷川雁と森崎和江のサークル村の居候になる。10月北九州の八幡の労働下宿に住みつく。
1960年、労働下宿を転々とする。また沖仲仕になったり、めし屋の手伝いをしたりもする。たまたま雇われた飯場でマイトをかけそこない、吹かれてケガをする。
1961年、労働下宿に戻り、まじめに働く。喧嘩で豚箱のお世話にも再々なる。
1962年、ノロの下敷きとなり全身打撲、右足指や左足甲の骨折で歩けなくなる。上京、文筆生活をしている松永伍一が訪ねてくる。
1963年、使いものにならないと、労働下宿を追い出される。おかげで下宿の借金は棒引きになったが、宿なしの浮浪者暮らしとなる。『週間女性自身』が「本誌が発見した放浪詩人」 として、特集を組んでくれる。
1964年1月、吉田鵆と結婚。ぶらぶらの足を洗って上京。大田区東雪谷の6畳1間のアパートで、彼女に養ってもらいながら、ものを書きはじめる。
1966年1月、長男友生まれる。5月、西山又二と出会い、「個」の会に参加。
1967年、たまに原稿の注文があったが、ほとんど無収入の日がつづき、冗談に「ぽかん教・教祖」と名告ったりする。11月、松尾邦之助編『ニヒリスト—辻潤の思想と生涯』をオリオン出版社に持込み、出版してもらう。
1968年、宗不旱の2冊ある歌集のうちの1冊(『茘支』)を入手する。
1970年、大田区石川町の石川町住宅に引っ越す。月の家賃が安かったので助かる。
1971年7月、長女由生まれる。
1972年、『月刊ペン』連載する。
1976年、大田区南雪谷に引っ越す、痛風に罹る。
現在に至る。(『虚無思想研究』高木護自筆年譜より)
■詩集
『裏町悲歌』高木護(田舎社/1950)※ガリ版全22頁。200部限定。
『夕焼け』高木護(国文社/1965)
『知らない』高木護(UPP出版部/1969)
『やさしい電車』高木護(五月書房/1971)
『ひとりのあなた』高木護(R出版/1972)
『高木護詩集』高木護(五月書房/1974)
『へ』(豆本詩集)高木護(胡蝶の会/1979)
『天に近い一本の木』高木護(日本随筆家協会/1980)
『人間の罪』高木護(新評論/1981)
『鼻歌』高木護(日本随筆家協会/1986)
■随筆
『夕御飯です』高木護(母音社/1954)
『放浪の唄』高木護(大和書房/1965)
『おろかな人間』高木護(オリオン出版/1967)
『いつかきっと』高木護(五月書房/1973)
『人間浮浪考』高木護(財界展望新社/1973)
『川蝉』高木護(美成社1974)
『落伍人間塾』高木護(白地社/1977)
『人夫考』高木護(未来社/1979)
『辻潤―「個」に生きる』高木護(たいまつ社/1979)
『木賃宿に雨が降る』高木護(未来社/1980)
『あきらめ考』高木護(新評論/1981)
『なんじゃらほい』高木護(未来社/1981)
『虫けらの唄』高木護(日本きゃらばん文庫/1982)
『野垂れ死考』高木護(未来社/1983)
『飢えの原形』高木護(白地社/1983)
『忍術考』高木護(未来社/1984)
『愛』高木護(新評論/1985)
『穴考』高木護(未来社/1985)
『棺桶ひとつ』高木護(未来社/1987)
『ことばの生命』高木護(新評論/1988)
『人間畜生考』高木護(未来社、1988)
『現住所は空の下』高木護(未来社/1989)
『人間は何を残せるか』高木護(恒文社/1990)
『足考』高木護(未来社/1992)
『かんじんさんになろう』高木護(五月書房/1998)
【雲】
白い雲が浮いていた
あご髭のような雲がおかしく
あんまりしんから眺めていたら
雲からほろりと
ごみのような涙が落ちてきた