佐藤渓

佐藤渓(さとうけい)1918〜1960
1918年 3月31日、広島県安芸郡熊野町にて熊野筆の製造元である父義清、母ふじの長男(8人兄弟)として生まれる。本名・忠義、他に渓、渓山人、忠石、教祖などの号をもつ。
1928年 12月1日、東京市小石川区駕籠町尋常小学校に転入。
1930年 3月、同校を卒業。4月、東京市小石川工業学校(機械科)入学。
1932年 同校卒業。
1933年 川端画学校中退。このころ、父義清は筆づくりの職人をし、母ふじは釣り竿屋を営んでいた。渓は宮下町の家の3軒先の文房具屋(豊島区巣鴨)の2階を間借りし、釣り竿のうるし塗りなどを手伝いながら絵を描いていた。
1939年 1月4日、入営。10月、中支派遣。
1942年 11月5日、除隊。12月、徴用(満州四平街238部隊軍属)。
1943年 11月19日、応召(西部第2部隊、独立混成第5連帯)。
1944年 1月、宇品港を出発。2月14日、ポナペ島上陸(独立歩兵第345大隊)。
1945年 12月27日、召集解除。復員し、浦賀に上陸する。上京したが家は焼失。
1946年 1月、疎開中の家族の住む島根県出雲市大津町明休に落ち着く。文化団体、出雲文藝社に参加。『詩文学』『出雲文学』などに詩を投稿する。
11月、大国章夫らと5人で、緑蒼会を結成、第1回緑蒼会展を出雲市で開催。
1947年 5月、緑蒼会第2回(出雲市)を開催。8月、個展を旧出雲市図書館にて開催。
1948年 10月、題12回自由美術家協会展に出品した〈腕を上げた裸婦〉が初入選。
1949年 3月、森芳雄、山口薫、鶴岡政男などの推薦により自由美術家協会会員となる。5月、中野重治などの推薦により新日本文学会会員となる。
6月、毎日新聞社主催の第3回美術団体連合展に〈運河〉〈風景〉を出品。7月、東京での第1回個展を銀座ミモザにて開催。
8月、美術団体GOMYの創立運動に参加。10月、第13回自由美術家協会展の審査員となる。東京での第2回個展を銀座ミモザにて開催。このころ、「ひまわりの家」と呼ばれた箱車をつくり、東京の京橋公園で生活していた。11月、個展を京橋図書館で開催。12月、自由美術家協会大阪展の全山陰地方移動審査員となる。
1950年 2月から6月まで京都府亀岡市に住み、大本教の機関誌『愛善苑』の表紙を担当。5月、第4回美術団体連合展に〈富士恵像〉を出品。10月、第14回自由美術家協会展に〈風景〉〈蒙古の女〉を出品。自由美術家協会を退会。
1951年 6月、出雲市図書館で個展開催。8月、島根新聞にコラム「真夏の画帳」(スケッチと文)を連載する。
1952年 11月、茶室ドガ(大阪道頓堀戎橋北詰西入)にて個展を開催、〈辯財天〉〈黄鶴桜上にて〉〈茶館にて〉等を出品。この頃、神戸市茸合区雲井戸通に住む。
1954年 10月ごろ、埼玉県川口市青木町に転移する。
1955年 4月2日、東京を出発点として第一回目の長期の旅にでる。5月、第6回全日本画人連盟展に会員として〈自画像〉〈爐辺屏風〉〈御茶席襖絵A〉〈御茶席襖絵B〉〈御風呂襖風〉を出品。8月から9月にかけて中国・九州地方を放浪。下関、博多、萩などに宿泊する。10月、広島で10日間ほど遊び、大阪に向かう。
1956年 3月、栃木県宇都宮市周辺を放浪。4月、東京都荒川区尾久町の友人宅に寄寓。ここから第2回目の長期の旅に出る。8月から10月にかけて中国・関西地方を放浪。広島、呉、尾道、福山、岡山、大阪などに宿泊する。11月、東京の友人宅に戻る。
1957年 3月ごろ、東京を旅立ち、宇都宮、横浜など関東地方を放浪。9月から10月にかけて山陰から山陽地方を回り、出雲、広島などに立ち寄る。
1958年 このころは、広島を中心として、岡山など中国地方を放浪。9月から10月にかけて徳島、高知など四国地方を回る。
1959年 秋、旅先の静岡県沼津市で脳卒中のため倒れる。
1960年 12月30日、大分県湯布院町の両親のもとにて永眠。

『佐藤溪詩画集 どこにいるのか ともだち』佐藤溪(由布院美術館/1993)
『佐藤溪の世界 流浪(さすらい)』有働義彦(学習研究社/1995)

【ともだち経】
どこにいるのか  ともだち
あるきながら  をもいだす  ともだち
しごとしながらをもいだす  ともだち
まるいかを しかくいかを ほそながいかを よくしゃべる ともだち
だまっている  ともだち  しんけいしつなやつ  どんかんなやつ
からだがよわくて しんぱいなやつ
いろいろ  いきているうちの  ともだち をたがいが  ともだち
どうしているか  をもいだす  ともだち
ぼやぼやっときえてしまったとだち  けんかしてしまった ともだち
さけのみの  ともだち
をくびょう  はれんち  だからとだち
こひしい  なつかしい  にくたらしい  をんなの  ともだち
しやくきんを かえしてくれない ともだち
しゅっせして ぼくをばかにしている ともだち
それでも  ともだちは  ぼくのともだち
うれしい  ともだち
どうしてもわすれえぬ ともだち
わかれるときないて  てをにぎった ともだち
わかれるときわらってぼうしをふった  ともだち
あすこで  あのときの  ともだち
ぶんがくの ともだち  えかきのともだち
くるしかったときの ともだち
いっしょにせんそうしたときの  ともだち
いつもぼくをはげましてくれた ともだち
まだいきているか  ともだち
さみしいよ  ともだち
どんどん  あつまってくる  ともだち
みんなちりち”りになった  ともだち
けふの  ともだち  あすの  ともだち
とほい  ともだち  きんじょのともだち
もっと  たくさん  ともだち
がいこくの  にほんの
みんな  とほい  ところの  みえない  ともだち
やさしい  こころの  ともだち
みんな  ともだち  ぼくのともだち
いつまでも   ともだち

【東京村にて】
夥しい牛馬の往来があって
幾万かの百姓たちが  それぞれの田圃の中で蠢き(ひしめき)働いて居た
私は旧式な長銃(スナイドル)一丁と
獲物はなにもなかった
ここには豚とかニワトリとか  そんな家畜は無数にみられたが
野禽はみられなかった
林はあっても  立入禁止
そんな田圃のアゼでどぜうや鮒の顔すら
ここでは土着の百姓たちの眼が光って居るのだ
ときたま昔の同族の猟人に会うとしても
彼等はたいてい真実の意味で猟を止めて居た
そんな格好はしていても  やはり土着の豪族の手先がなんかだった
ここではもう精神上の引金や照尺からは一羽の雀さえ得られないであろう。

【独語】
そろそろ あの世が近つ”いて来た予感は
どれい  のようにいがみあって争うことをやめさせる
それは何一つ  あの世に手見産としてもっていけそうもないので
やれ天国だの地獄だの愛だの慈悲だの芸術だの真理だのと
くどくどしく相も変わらず。
それら いったいなんだというのだろう
こういった。呑気で固着した手合いに。
いつまでもまるっきりお人好しで交際していた
俺自身の神性がこのごろにしてやうやくだ
プランクトンのように果てしない海洋の彼方に広がって行く

【津軽海峡にて】
ルンペンをしながら北海道を廻ってきたのだ
絵を描きながら詩をおもひながら
だがそんなことはどうでもよさそうだ
重要なことは
どこでもニコニコしながら
手を振ってさよならしたことなのだ

【他人を軽蔑せず】
他人を軽蔑せず
つまらないハカリゴトをめぐらさず
成功しても自分を英雄だと思わず
チャンスを失しても悲観せず
時機にめぐりあっても得意になってのぼせず
高いところによじのぼってもこわがらず
火の穴に落ち込んでもみんな夢の中の出来事だと云い
目をさましても心配することがなく
ものを食べるのも自由であり
呼吸はまろやかなほほえみでくりかえし
無理して生きようと死を相手にもがいてみたってしょうがないし
天のままに来
天のままに行く
だから自分の故郷を忘れることがなく
自分の落着き先を追及する必要もない
受けても有難度う
落しても有難度う
いつも性器が心の本体と離れることがないので
異性を求めず嫌いもせず
やむなくば「ママさんダイジョウビ」と言い
あらゆることを自然のなりゆきにまかせ
容貌は清らかでひたいは広く
冷え冷えと涼しいことは秋のようでもあり
ほのぼのとあたたかいことは春のようでもあり
喜ぶのも怒るのも春夏秋冬に合致し
どんなものごとに対してもうまくかなっており
誰もその奥底を知らず
その様子は高くそびえているが崩壊するに至らず
やることは遠慮深いがさほどへり下りもせず
直立独行して角があるが コチコチでなく
のびのびとしているようであるがファファでなく
茫漠としていかにも興ありげに見えるかと思えば
湧き出る水がたまったようになごやかで親しみやすく
木の茂った島がこんもりとしているように気格がどっしりしている
はなはだ寛大のようであり
はなはだ高慢チキのようでもある
大変おしゃべりのようでもあり
又どんな話でも話そうとは思わないようすでもある
このような人は雲気に乗じ飛龍を御して四海の外に遊ぶ

【忠告】
私が忠告するのは
いくら責めてもまだ白状しない罪人みたいに
いつまでも柳の下の泥鰌を狙っていて
つまりものごとは始めっからちゃんと決まっているのに
しつっこく あきらめ悪くて
噫々じれってえなあ
もういやだと思うことならキッパリとよせばいいのに
変にウロチョロと気を廻して
果ては未成年のくせに童心を失い
初手から妙にねじれて自尊心のみ強く
清貧に甘んずるなどと断言はしては居るが
口ばっかりで
やらなければいいのに コツコツまだやっている
第一可笑しいよ
下劣なくせに尊大ぶったり
弱いくせに強がったり
世の中からは村八分にされてるのも気が付かないで
依頼心は更に強く
どうにもならないところの人間的温度を
制圧したり 単なる
火事場泥棒か
胡間之灰の部類のくせに
もって難解なる芸術と称する「偽れる盛装」
なんかに夢中になり
哲学なんていう故事にとらわれて
骨皮筋右エ門的剣豪となり
果てはチンバで変梃子な友人共と交際し
キャキャ言ってるうちに歳をとってしまい
シマッタと思ったときには もう手遅れで
嘘みたいな生活の根本から
世にも不思議なその真髄とやらを
語ってもらいたくないばっかりに

【辞世の遺書】
これから生活に困ってだれひとり身寄りもなく
しかも病弱で遂にもう駄目だなと感じられたら
これから私は深い山の中に入ってアルコールと
多量の睡眠薬を服用します
多分一年に一度か二度役目上の義理で御役人
が踏込むという深い深い官有林です
たヾいまその場所は申しあげられません
もしみつかったら骨だけは残るでせう
服装も多分変相するから私とは思ひますまい
まして携帯品
も遺書もありません
一人の放浪画家が一生かヽって
あるひは苦しみあるひは楽しみながら
たくさんの遺書を描きつヾけて
きたと思ふからです