金子光晴

金子光晴(かねこみつはる)1895〜1975
1895年、愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商の家に生まれる。
1914年、稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドやアルツィバーシェフに影響を受ける。1915年、早稲田大学を中退。1916年、應義塾大学文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学。丙種で徴兵検査に合格。1916年、慶應義塾大学を中退。
1919年、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』を刊行。同月末、2年余ヨーロッパを放浪する。
1924年、森三千代と結婚する。1925年、長男・乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。
1926年、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。1928年、アジア・ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡る。1929年、上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行。1930年、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。1931年、パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポールへ渡る。1932年、4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。
1937年、三千代と中国北部を旅行。翌年帰国し、吉祥寺に転居する。
1948年、詩人志望の大河内令子と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。1975年、6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全により自宅で死去。

『赤土の家』金子光晴(麗文社/1919)
『こがね蟲』金子光晴(1923)
『鱶沈む』金子光晴(森三千代との共著)(有明社出版部/1927)
『鮫』金子光晴(人文社/1937)
『落下傘』金子光晴(日本未来派発行所/1948)
『女たちのエレジー』金子光晴(創元社/1949)
『鬼の児の唄』金子光晴(十字屋書店/1949)
『金子光晴詩集』金子光晴(創元社/1951)
『悪の華』金子光晴(宝文社/1952)
『人間の悲劇』金子光晴(創元社/1952)
『非情』金子光晴(新潮社/1955)
『水勢』金子光晴(東京創元社/1956)
『金子光晴全集(全5巻)』(第1巻が書肆ユリイカ/1960、第2~第5巻が昭森社1963〜1971)
『IL』金子光晴(勁草書房/1965)
『若葉のうた』金子光晴(勁草書房/1967)
『定本金子光晴詩集』金子光晴(筑摩書房/1967)
『愛情69』金子光晴(筑摩書房/1968)
『よごれてゐない一日』金子光晴(あいなめ会/1969)
『桜桃梅李』金子光晴(虎見書房/1971)
『花とあきビン』金子光晴(青娥書房/1973)
『金子光晴自選詩画集』金子光晴(五月書房/1973)
『塵芥』金子光晴(いんなあとりっぷ社/1977)

【くらげの唄】
ゆられ、ゆられ
もまれもまれて
そのうちに、僕は
こんなに透きとほってきた。

だが、ゆられるのは、らくなことではないよ。

外からも透いてみえるだろ。ほら。
僕の消化器のなかには
毛の禿(ち)びた歯刷子(ハブラシ)が一本、
それに、黄ろい水が少量。

心なんてきたならしいものは
あるもんかい。いまごろまで。
はらわたもろとも
波がさらっていった。

僕? 僕とはね、
からっぽのことさ。
からっぽが波にゆられ
また、波にゆりかへされ。

しをれたのかとおもふと、
ふぢむらさきにひらき、
夜は、夜で
ランプをともし。

いや、ゆられてゐるのは、ほんたうは
からだを失くしたこころだけなんだ。
こころをつつんでゐた
うすいオブラートなのだ。

いやいや、こんなにからっぽになるまで
ゆられ、ゆられ
もまれ、もまれた苦しさの
疲れの影にすぎないのだ!