長田恒雄(おさだつねお)1902~1977
1902年に静岡県清水市(現在の清水区)に生まれる。
生家は真宗大谷派の入江山明通寺。恒雄は寺の跡を継ぐべき住職の長男だったが、旧制静岡中学2年の頃、仏門に疑問を感じて詩を書きはじめる。かくして決定的な事件は起きた。たまたま高名な英米文学者になる以前の福原麟太郎氏が、静中2年の担任教師なったのは縁で長田少年の詩に関心し、のちに世に出た第1詩集『魚青集』(1929)の製作費はまるごと福原氏が面倒を見たという。だがそれより凄かったのは、革命児というべき長田恒雄の叛骨である。彼が京都東本願寺で得度したのは10歳のときだったが、福原先生との縁は転任のため1年で途切れ、父も早逝して家郷を捨てた彼は、詩を書きながら、各地を放浪。新潟三条の念仏道場、京都の一灯園などで修行し、食うために名古屋千種監獄の書記見習いや町工場の電球製作工、卵売りの行商までして糊口をしのいだ。またあるときは清水に帰って真宗三ヶ寺の青年信徒を糾合し、関東大震災震災者の救援活動に当たりながらも詩の同人雑誌を発行。山村暮鳥と文通していた時期もある。その彼を忘れなかった福原は『魚青集』によって 長田恒雄を詩壇ににデビューさせたが、その詩が生い立ちとは無縁のモダニズムだったのは、彼が北園克衛編集で創刊したばかりの「VOU」に参加していたことでもよくわかる。ラジカルに戦中を生きぬいた長田は敗戦からわずか半年後に北園克衛、村野四郎と共著の詩集『天の繭』を刊行した。
(『言葉たちに』平林敏彦 より)
『青魚集』長田恒雄(詩洋社/1929)
『朝の椅子』長田恒雄(昭森社/1940)
『朱塔』長田恒雄(研文書院/1942)
『東京』長田恒雄(現代史研究所/1963)
『風来坊』〈歌集〉長田恒雄(現代詩研究所/1969)
『仏のことば』長田恒雄(三笠会館/1978)
『博物誌』長田恒雄(現代詩研究所/1979)
『仏を讃う』長田恒雄著 林行雄編(中山書房仏書林/1989)
『青魚集』より
【畏れ】
ふけひそんだ部屋に
どこからともなく
流れてくるこのにほひはなに
かいどうの花のにほひか
出港の汽船(ふね)のけむりか
はた、渃き女(こ)の乳房のにほいか
このやうになまぬるく
しつとりとした空氣のなかに
よどみたゆたふもののにほひ
そこはかとなくたよりなげに
眼がしらにしみ
嗅覺をいざなふにほひはなに
すでに夜は深くひそみ
靑い壁の汚點もしづもるに
わかくたくましいぼくの心を
ひそかにゆすぶるもののにほひ
底しれぬ暗の夜ふけを
ながれゆく、この
ひとすぢのにほひはなに
【海よ】
海よ
はるばるとけふもけむり
沖の方へ、沖の方へ
茫漠とひろがつてゆき
その底に、かすかな一線をおいて
揺れ絶えぬ波を
いちめんに散らして
海よ
おほいなるおまへの動き
おほいなるおまへの靜けさ
その中に
この小身の人間を、ひとり
ぽつうりと浮めて
身にしたしい感觸と
ひたひたとした愛撫とを寄せつつ
海よ、海よ、かなた
ただひろく、あをく
らうらうと澄み渡った大空に
ひとつ、飛翔する鳥が見える
くろく、影をながして
とほく
海よ
おまえの大きさ
そして、蒼窮の深い大きさ
彼方に ひとつの鳥かげ
こゝに流れてひとりのぼく
ああ
これはなんという嚴しい
おほいなる寂しさであらう
いま、かの鳥にぼくの心はかよふ
苦しくも生きゆくものの
この身命の小ささよ
海よ
けれどもつねにゆたかに
はるばるとひろがりわたり
寛宏に心を持するものよ
きらきらと波を
けふもいちめんにをどらせつつ
ああ
海よ、海よ、ぼくはここに
身をなげだし
ふりあふぐ大空のかなたへ
とほく、とほく
こころを奔りゆかしめる
みちたりて、いまは