石川啄木

石川啄木(いしかわたくぼく)1886〜1913
岩手県の常光寺で生まれる。本名一(はじめ)、別号に白蘋等。盛岡中学中退後、明星派の詩人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。渋民小学校代用教員を経て、北海道に職を求め新聞記者として各地を流浪。明治41年(1908)上京。42年『東京朝日新聞』の校正係となるが、なおも窮乏の生活は続く。しかしその創作意欲は短歌によって表現され、歌人としての新生面をひらく。43年12月、三行書の歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目された。同年6月大逆事件に衝撃を受け社会主義思想に接近、新しい時代の波に対し、土岐善麿と提携して文芸思想雑誌『樹木と果実』の発行を計画するが実現せず、45年(1913)肺結核のため小石川区久堅町の借家に波乱に富む生涯を閉じる。享年27才。

『あこがれ』石川啄木(小田島書房/1905)  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876263
『啄木遺稿』石川啄木(東雲堂書店/1912)
『石川啄木詩集』石川啄木(弘文社書店/1925)  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/968915
『石川啄木抒情詩集』石川啄木(紅玉堂書店/1926)  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/968914
『呼子と口笛』石川啄木(高須書房/1947)  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128918

【飛行機】
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

【夏の街の恐怖】
焼けつくやうな夏の日の下に
びえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこ/\と電車線路へ歩いて行く。
八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛は垂れて動かず。
閉された幼堆園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子の花が死落ち
生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚気患者の葬りの列。
それを見て辻の巡査は出かゝつた欠伸噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして
塵溜の蔭に行く。
 
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこ/\と電車線路へ歩いて行く。

【起きるな】
西日をうけて熱くなつた
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味気ない生命がある
正体もなく考へに疲れきつて、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男のロからは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
その上に蚤が這ひあがる。
起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。
何処かで艶いた女の笑ひ声。

【口笛】
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。
青塗の自動車の走せ過ぎたあとの
石油のにほひに噎せて、
とある町角に面を背けた時、
私を振回つて行つた
金ボタンの外套の
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。

【手紙】
「もう十年も逢はないが、
君はやつぱり昔どほり
元気が盛んだらう。」と
その手紙に書いてあつた。――
湯にでも這入らうかと
それ一つを望みに、
ぐつたり疲れて帰つた時、
机の上に載つてゐた
昔の友の手紙に。

【あゝほんとに】
夜店で買つて来た南天の鉢に、
水をやらずに置いたら、
間もなく枯れてしまつた。
 
棄てようと思つて、
鉢から抜いてみると、
根までから/\乾せてゐた。
「根まで乾せるとは――」
その時思つたことが
妙に心に残つてゐる。――
あゝほんとに
根まで乾せるとは――

【古びたる鞄をあけて】
わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
 
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
“これなり”とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。