矢山哲治

矢山哲治(ややまてつじ)1918〜1943
福岡市で生まれる。1936年旧制福岡高等学校時、剣道部でかなり無理をし関西へ旅行中に発病。肺門浸潤と診断され休学。自宅で療養。1937年、この年から39年にかけて雑誌投稿欄に詩や短文を寄せる。同時期の投稿者に、鮎川信夫、田村隆一、三好豊一郎、衣更着信らの名前も見える。1938年歳、島尾敏雄らの「十四世紀」創刊に参加。創刊号発行と同時に発禁処分を受け挫折。4月、第3学年に進級。文芸部員となり「校友会誌」の編集に携わる。福岡高校教授で「九州文学」同人の浦瀬白雨らの知遇を受け、同人となり詩を発表する。このころ立原道造との文通が始まる。この時期、太宰治、檀一雄ら「日本浪漫派」の作家の作品を愛読する。8月、第一詩集『くんしやう』を刊行。9月、久留米歩兵連隊に在隊していた檀一雄に面会に行く。12月、長崎に旅行途上の立原道造と福岡で会う。1939年、高校卒業。3月に立原道造死去。4月、旧制九州帝国大学農学部入学。10月、同人誌「こをろ」創刊。巻頭に立原の「詩人の手紙」を掲載。1940年、第2詩集 『友達』12月、同人誌「こをろ」解散。1941年、東京朝日新聞を受験し内定。12月、九大を繰り上げ卒業。兵役検査を受け甲種合格。真珠湾奇襲攻撃の翌日、当時左翼的傾向をもつとみられていた九大新聞に在籍していたため数日間拘束される。15日、第3詩集『柩』刊行。1942年、久留米で入隊。6月、両肺尖炎・両肺間浸潤で入院。10月除隊。このころ失意大きくノイローゼが昂じ情緒不安定になる。1943年、前年に引き続き精神状態が不安定であった。1月29日午前6時30分頃、ラジオ体操の帰り、西鉄大牟田線薬院~西鉄平尾間の無人踏切で、轢かれて死去。自殺であったか事故であったかは現在に至るまで不明。

『矢山哲治全集』矢山哲治(未來社/1987)

【夜に】
あまりに昏い ぼくの夜だから……
みを耐へてゆかうと おきもだゆるのに
千しもとは ふりやまず
万のつぶては うちやまず
清烈な 光にみちた聖夜だった――あれは
とけうすれた記憶が 闇をひとすぢ
はるかあたりにまさぐり ひそひそととよめく
あれは 僕の生誕だつた と
死ぬことならぬと たれが決めた?
ころがりころんで ぼくは生きてゐるけれど
最初の光は 亡ばぬ……
これの光を かきたてるのはたれだつた?
夜になげいて ぼくの泪は涸れつきたが
純潔な とほい石にむかつてなほ呼ばはつた……
せつにちかくに 存在を与へてよ
あやふう もつと光を! と

【夕の歌】
たれかれも もうはつきりしない
ひとしきり子供たちをよぶ声が
露地から 露地をかけぬけたころ
とあるお寺のかどにぼくは立ちどまつた
さて立ちどまつたぼくだつたが
お門のうちへはいつたものかと考へた
おもても境内も おんなじやうに
昏うなつて涼しいけはひは流れてゐた
べつに用もないが さしつかへもなからうし
お地蔵堂と本堂のあひだをぬけた
と いつせいに無数の白い顔がほのめくと
たちまち ざわめきは遠くへ消えさつた
とりすます硬い肌ばかりのこつて
この夕から なにやらぼくは知つたのだ

【てまりこ】
モツアルトの唄のしらべを
ちひさい声にひとはうたつた
たれもきいてゐないと おもつてか
くろい瞳をあやしくすゑて
膝のへのをさない妹はお眼めを
とぢた 雨にぬれてゆれた
てまりこの花 その花ほどに
くらいお椽にお顔がういた
しらないしらべのしらない唄をくりかへす
かのやうで しらないひとに
まるでみえたが
白露をしたたるおとがひが
わづかふるへた ああ その時
はげしい渇きをぼくはおびえた

【父・母】
梧桐のあひだからひつそり夜が
たちのぼると再びぼくは身をなげかけた
そこはひんやりとあたたかく
奪はれることからとほくて明るい
居なれた小座敷にも似てゐるもんだから
あやしさで胸がつまりさうなのだ
だがぼくはみた 物語の父のすがたを
だがぼくはみた 物語の母のすがたを
父はすこしばかり伏して坐つた
木石とかはり謡の風をよびおこしながら
水のやうにゆるい衣紋の母が
片ひぢに息ついてこつそりハンケチを
かくすてつきで新聞をあしらつてゐた
無数の暗いものが駈ける庭、露地、格子門
地上のあらゆる場所より そこだけ
くつきりと晴ばれしい 輝いてゐるのだ
ちち四十七歳 よいかな
はは四十七歳 よいかな
と 額のなかを指さきが描いてみた
漲つたものが十重八重にせきをつくり
なにか子供すら踏みこませないのだつたが
思つてみてもそれはそこに
しびれるほどの幸福をかぐはしながら
たしかなもののかたちがあつた
短くなつたタバコは屋根へ
物語はここで今晩もおしまひへ
すべからく心空しうして本は読むべし
それにしてもぼくの父はどこに居るのだらう
なべて父はコホロギのごと歌ひあげて
カゲロフの死をくりかへすのかしら
やさしいばかりにくづれるお母さんが
港へもどる老いくちた船にみえた

【雅歌】
八月のはげしい一日
歌つくりの少女にいざなはれ
海岸のサナトリウムへ十八の
少年を自動車でおとなうた
濶葉樹の山肌から甘く
アマクサの香はこぼれ来
合歓の木かげに白亜館の
人らの寝息はすこやか
幾十冊の書物にあけくれて
回復の日数を耐へぬ
おとなびた少年の毛ずねは
黒い頬ひげはかたい
秩序あるこの建築のなかでは
ぼくらの健康こそあやしいものだ
この錯覚がたのしく酔はせ
歎異鈔のリリスムを説きたてたが
ほほゑみ耳かたむけた少女と
少年の契約の美しさはかぎりなく
五彩にめくるめく沖へ遠い都会の
空へ駱駝の雲へ瞳をぼくは返す
     お前よ 美しくあれと
     声がする
柩(十三年冬)

【柩】
いつから
母はぼくをみうしなつたのだらう
どうして
友をよぶすべをなくしたのだらう
くりかへし
いくども 秋はやつてきたやうだつた
それから
冬が みじかい足どりにかけて来た
まるつきり
冬と秋とで一年を織るかのやうに
空は
かわいて天までからから声がとどいた
笑ひが
さやり草むらへかくれてぼくを嘲つた
光がわれ
冷い殻のばつたのやうにぼくをおそつた
たしかに
ぼくは旅へあるらしかつた――遠い誘ひへ
誰もゐない
このおろかな草花の野をぼくはいそいだ
はしたない
身ぶりでゆくてをあらはな樹木がよぎり
みぎひだり
風景はずりゆき湖水へくづれおちた
しらじらと
径から霧がわいて梢をこがしながら
みえない
粒になつてぼくの肌をつきさした
のがれゆく
巨きなぼくの影が芝ふをはしつた
   * * *
それから 還つて
来たのは秋だつた? 冬だつた?
それから やつて
来たのは夜だつた? 闇だつた?
樹木は よろばひ
草原は かたむき
ざんこくにぼくの影を吹きちぎり
闇が すべてを
恐怖のいろに塗りつくしたとき
ぼくをもとめて ぼくはうち伏せた
なにを?
奪つてぼくにあたへてくれただらう
なにを?
闇はぼくへ許してくれただらう
しかし
偽りの証拠をぼくはたてない――闇は
恐怖にみちてゐたとは
ぼくはをののきふるふのだつた
存在を ぼくのまへにしてのみ
螢のやうにみを灼きつくしながら
どこから!
お前はここへ降りてきておくれなの
なにゆゑ!
お前のかたちが姿にみえてあらはれたの
ぼくは
一つの光でありはしなかつたらう
ひとつの
ほほゑみと
つめたい手をお前はぼくに許しておくれだ
どこから!
いまふたたびぼくは問ひはしないだらう
なにゆゑ!
くりかへしもはやぼくは尋ねないだらう
ひとつの
光は お前だつた(お前でなしに誰?)
しらない
ぼくのこころがとうに知つてたかのやうに
ぼくへ
光を 点けておくれなのはお前だつた
言葉もなく
おたがひのなかへおたがひをかき抱いた
時間もなく
すばやい時間はおほくながれすぎさつた
夜を 闇を
季節をなくした季節がいくかへり訪うた
かなしい思ひに
よろこびよりもたいへんにふさはしくて
遠いあたりから
かすかな嘆きをおたがひに聴くらしかつた
失ふことの
おそれが ぼくにきざしたとすのなら
かぎりない
いのちを ぼくが疑ふことがあつたなら!
ああ
償ひえないそれは悔いへの誘ひだつた
ああ
過つてぼくはお前を死なしてしまつたのだ
形骸と変つた
お前を なんでぼくの泪がよび醒さう?
ひとへりは
白菊を こまかい金貨ほどに浮彫らして
誰がため
白檀のほそい柩をつくつたのだらう
夜の極みへ――この柩を送れ ひようと哭く
楽をきけ 闇がかくす千の万燈をみよ
おお!
苦痛を朱につらぬくぼくの珠数をなげて
はげしく
形骸でしかないぼくのいのちを絶たう

【七月の日のうた】
   鳥井平一に
まだあつたまらない部屋で 耳なれた
ヂブシイソングがしづかに弦を鳴らしてゐた
ひと少い午前のとある喫茶店 テエブルに
置いた大きなぼくの麦藁帽 色あせた紅リボンに
扇風機の風が乾いておだやかだつた 何を
田舎へ帰る友達とぼくは語つてゐたことか
おびただしいおしやべりに 何と自分を
放ちながら悔いもなく愉しかつたことか――
はすかひの隅から黒い麦藁帽のやさしく冷いふかい瞳
意味もなくゆきちがふと ああ ぼくは満ちたりるのだ!
聴きほれて友達にするあつい眼ざしの頬を
リンネルの腕が支へて ああ ぼくは見るのだ!
知らない さうして もう逢へない約束が
ぼくを堅信へたかめたことだ!――七月のとある日に……

【小さい嵐】
小さい…… しかし美しい嵐は
了つたのだ ――晴れた日の午前
晩春のなまあつたかい街を あをく
とほい山波の方へぬけて
乱されたものは 何一つ
残されてゐやしない ――誰が
心ふるへながら見送つたことか
ふたたび 風景は無縁だ!
屋上をひくくアド・バルン 地面を
およぐあの影で ぼくは在りたい
――たやすく うごく……
建築の白い陽ざしのあはひに
ぼくは見た!―― あめ色の蝶のかたちを
やがて近い嵐を約束するやうに

【野薊花と詩人のうた】
ひさしくぼくが憧れてをつたのは
お前なのだつたかしら!
た折らうとさしのばすと ひそかに
お前の呼吸のはげしさはすくませてしまふのね
しるひととていない悔恨の海を
耐へながら流れついた この野辺に
きよらかな王冠! 誰が
お前をかづくことをゆるされたのだらうね
あせばむ風をゆあみする明るい日 お前の
はだよ 草いきれはげしくむせかへるとき
空間はつひに夢よりほか何を容れしめる?
わかいお前 と なげきのはて せつない
ぼくの過失に うつくしい顔はすべて母か!
きえてゆく時間を許しておくれ こ紫の花よ

【夏野のうた】
お前の腕いつぱいに 夏の草花
惜しげもなくまいて行くお前の道が白い……
 空のあを 野のあを
 とほい海の青
散らされた花を
あつめるぼくで 在りはしない
わづかと風が吹く くれなゐ みづ色
おこん花 何とした遊びだらうか
明るいあかるい ああ まつぴるま
お前が歩むはこの道でありはしなかつた……
 空のあを 野のあを とほい海の青
戻らないお前に悔がなく
みたされない願ひで ああ 僕はみた
空いつぱいに はな色のお前の瞳!

【鳥】
  ○白雨先生に。「ボートの三人男」といふ先生の
    立派な訳業を頂いてお返し。
翔けあがつた鳥は
いつか古巣に降りてみるのです
その狭く固い床のうへの日
息つくために歌ひはじめたことでした
ああ 歌は摺り餌のやうに口移しで
いろはのいの字から見知らぬxyzまで
養ひの親がどうして忘れられませう
それで鳥は明るい空を憧れて飛ぶのです

  ○「人々は(彼)を理解するずつと以前から彼を
   説明し去らうとしたのです。あらゆる創造的な
   人物と同じやうに創作することを欲しながらで
   き得ない幾万の人の為に苦しんだのです。この
   型の無意識な羨望はそれ自身『批評的基準』に
   変装します。そしてその攻撃はいつも本質的に
   創造的な、独創的な芸術家に向けられるのです。」
              ……オルデイングトン
かよわい鳥なのです
やうやく飛べるほどの若い雛です
雲のやうに高くはありません
雲を憧れて飛びたつてゐながら
鳴騒ぐうるさい一羽でした
口先ばかりが達者な奴め
雲は流れるながれる
鳥は小さくなり消えてしまつた

  ○おなじ枝になきつつをりしほととぎす
   こゑはかはらぬものとしらずや(和泉式部日記)
わたしは鳥
もう一羽の鳥によびかける
日が暮れるまで
羽がくたびれるまで飛んでゐようよ
わたしは鳥
もう一羽の鳥によびかける
夜が明けるまで
羽が休まるときまで翔けてゐませう

【薔薇のマントを纏つた少年たちが…】
薔薇のマントを纏つた少年たちが
噴水のリボンを結んだ少女たちとさざめきながら
公園の日向でおひらきしてゐます。
光線がまばゆくて愉しい声も緑陰のなかに
吸はれていつて
誰にも見えない 私にも見えやしない
一つの鍵を廻さなければ 青春を
悪魔に売つた詩人ばかりに
神様のお許しの出た一つの鍵を

【春日】
花陰のおほい径を踏んでゐた
虫や鳥がざわめいてのどかだつた
呼吸を合はせたやうに息をのんで
肩を並べてのやうにひとり歩いてゐた
葉洩れ陽が地面に花絡をひき
空気にからだが溶けてしまふほど
すべてが満ち溢れて欠けてはゐなかつた
誰かと腕を組んでのやうにひつそり歩いてゐた
空は青くあたたかい光の径
緑の立木へつづく記憶の径
身軽く辿りながらふと蹉いた時――
ああ あの日だつたと意味もなくつぶやいたほど
心ばかりを雲のやうに重く漂はすと
光のあぶくのやうにからだは消えていつた