吉野信夫(よしののぶお)1908〜1936
千葉県生まれ。中学校から詩作を始め、『中学詩集』『美しき天国』という未刊詩集にまとめていたが、東洋大学に進んで1928年に「東洋大学詩人」を創刊、芳賀誠、安岡蘆夫、伊福部隆輝、石原広文、中村漁波林らとともに詩作に励んだ。その廃刊後、1930年に「吉野信夫個人雑誌」を創刊。1931年に「詩人時代」を創刊、自由詩の振興と後進の育成を標榜したが1936年2月に腹膜炎で手術、7月に死去。
『永遠の恋人』吉野信夫(詩人時代社/1932)
【海の呼ぶ聲】
わたしは天を眺めてゐた
海のやうにひろい/\空にはいちめんに花輪のやうな星々が
きら/\と砂金をいちめんにちりばめたやうにきらめいてゐた
そこの砂丘の暗がりからは
哀れげな海女らの網をひく唄聲がきこえてきてゐた
篝火はさう/\と汀にその炎影をおとし
その哀れな海女らの合唱はをり/\に杳かな波濤に洩れ流れ
ぐる/\と砂濱の臺木に足をふり/\腰をふり/\
つぎ/\と漂泊の唄をうたひつゞけては
どう/\めぐりをしつゝ遠網をまいてゐた
わたしは満天を眺めてゐた
この砂丘の暗翳(くらがり)に哀れな海女たちの唄聲にきゝ入りながら
遠くとほく太古の世界の出來そめた幽明(はじめ)から
そして永遠のこの世界の破滅の際涯の極みまで
こうして遠く沖合の方からむく/\と盛り擧がりあがつて來ては
倒れかゝり遙かにはるかにたほれかゝり、空高く飛沫(しぶ)きみなぎらし波浪する
この怪奇な遠くどこからともなくひた押しにへし押しに
寄せかゝつてくる海!この憂鬱な壯麗な海の誘惑!この動揺!渺茫!
波!波!波!波!波!波!波!波!波!波浪!波浪!波浪!
あゝ、この闇黑深く黑衣纏える不可思議なる巨大な永劫の世紀を貫く生物!
よせてはかへしかへしてはよせよせてはかへしかへしてはよせくるよせくる
遙かに杳かに空高く砂煙りのやうにあがる砂漠の大砂塵の遠望!
その言語に絶した巌のやうな絶大な偉力に壓倒され
海を思へば永遠の怖ろしさ悠久さを考へてゐた
おう!おう!おう!おう!おう!おう!おう!おう!おう!
あゝ、光茫とした涯てしない大きな海の波濤の呼び聲!海の聲々!海の呼び聲!
そして永遠の一瞬にすぎないこの小さな生命小さな自我の生存!
わたくしの考へることはこれらのこと
またわたくしのこの海の一瞬の泡沫よりもなほ儚なく脆い
自分の消えて夢散してしまつてからとても
永遠の際涯のはてまでもなほも極みなく蠢くであらう
いまは生き見るこの波濤!波浪の海の呼び聲!
わたしは天を眺めてゐた
暗いくらい沖合の方から鳴動し唸る海面を眺め
をり/\は高いたかい海のやうにひろい天涯の星達を見上げたりしてゐた
わたしの更に考へることはまだこの世界が新らしかつたころ
紅蓮の焔のやうに炎々と光茫を曳いて眩耀いてゐたであらう
あの星空の星座の星達のこと
そしてこの世界がやがて終滅に近づくころ
遠く淡くあはい幽仄かな明滅の星群となりはてゝしまふであらうこと
わたしは天を眺め暗い沖合を望み
いつまでもいつまでもしつとりと潮の香のしめつた濱砂にうづくまつてゐた
海は巨大な肉體をゆさぶつて久遠の咆哮に轟いてゐる呻いてゐる
【瀬戸内海を想ふ】
燈臺、海、鴎
そして丘の上の一點の人影
白砂青松――
噫、壯麗な夕べの訪れと共に
夜天の祝祭をこめて
月明の夜の海に詩人の感傷の華が花咲く
嵐の中の胡蝶!
蒼白な面貌(おもて)にかゝる後れ毛を拂ひ
船舷に瞑想の佇立からさつと躍らす閃光
高まりつゝ溯過する波浪のヒステリヤ………
海の花嫁として
永遠の波濤の只中に一抹の水泡となり
散華した悲劇の詩人I氏のアンニユイ
嵐の中の胡蝶!
白い味爽の歩みが夜の幕を閉ぢ
打ち擧げられた渚々の晦瞑に
空と樹木と街とはなほ暗くオリオンは瞬く
『永遠の愛人』より
「序詩」
白ばら、白ばら、野の白うばら
吾れはゝ斯る乙女を此の世に求めてありき
あゝ、白ばら、白ばら、野の白うばら
そが永遠(とわ)なる椽にしの女性(をとめ)、此の世の涯にて
遂には遭遇(めぐ)りて逢ひぬ、めぐりて逢ひぬ
白ばら、白ばら、野の白うばら
そは香たゆげなる情操(おも)ひと、薔薇(さうび)の象徴(サンボル)!
あゝ、そが白ばら、白ばら、野の白うばら
「黄昏の歌」
【私があなたに始めて逢つた時き】
私があなたを始めて見た時き
あの無數(たくさん)な人込の中で
私があなたに始めて逢つた時き
あゝ、私は見ましたわたしは見ました
此の世で未だ見た事も無い何處から遠い幽(とほ)い
大きな巨(をほ)きな紺碧(あほ)い青い曠茫(ひろ)い海を
始めて見たやうな氣が了ました氣がしました
あなたは緑色の衣物(きもの)を着て居らつした
緑色の寛衣(ガウン)が、着衣(ころも)が私を捕えた惹き付けた
私はわたしが此の世で絶えず永い長いこと
捜(もと)め喘(あ)ぐみ探し求めて居た
遠い遐(とほ)い此の世の涯果(はて)の永遠の愛の女神の訪れを
始めて見たやうな見付けたやうな氣が了ました
私があなたと始めて逢つた時、始めて見た時き
私は電光のやうに稲妻のやうに打たれました
あゝ、あなたは紺青(あほ)い曠茫(ひろ)いひろい
際涯(はて)しない海のやうな方でした
海のやうな紺碧(あほ)い青い瞳の窓でした、碧(あほ)いあほい海の眸のやうな漣波のやうな
美くしい方でした
【想ひ出】
想ひ出すか、思ひ出すか
愛しい、いとしい容優(やさ)しいひとよ
その夕べ、その夜、闇黝(くろ)く暮れ落ちた樹(こ)の間蔭中を
縫ひ搖泛(ぬ)ひて吾等二人は彷徨ひ來たり
あゝ、彼方に遐(とほ)く光茫の皎赫(ひか)りの巷、あの遠い幽(とほ)い
市街の響音(おと)は聽聞(きこ)え來たる!
私があなたにその次ぎに逢つた時き
その夕べ、その夜、私がそなたに逢つた時き
あゝ、私は見ましたわたしは見ました
此の世で未だ見た事も無い何處かの遠いとほい
大きな巨(をほ)きな紺碧(あほ)い青い曠茫(ひろ)い海を
やつぱり初めて見たやうな氣が了ました氣がしました
けれどあなたは此んどは
白薔薇(ローズ)色の寛衣(ガウン)を着て居らつした愛らしくも苛憐げなる垂れ髪が白い帽子が
私を電光のやうに稲妻のやうに捕えた惹き付けた
想ひ出すか、思ひ出すか
愛しい、いとしい容優(やさ)しいひとよ
その夕べ、その夜、闇黝(くろ)く暮れ落ちた樹(こ)の間蔭中を彷徨ひ來たり
空は限り無く美くしく朦朧(おぼろ)げに晴れ渡り
紺青の星は花瓣(はなび)らと影斑らに月輪は夜空の彼方に懸りて
あゝ、何たる甘美さ誇らしさ!
嬉しくも優しく悲しげに頭(こうべ)振り
彼女の唇を洩れ來たる私に囁く最初の挨拶(あま)えの言葉の甘美さだ!
爽やかな白い寛衣(ガウン)よ白い帽子よ苛憐げなる愛らしい小ひちやな面輪よ黑耀の濡れた
垂れ髪よ小ひちやな白い鞣靴(くつ)よ!
あゝ、私が心哀しかつた七月の夕べ
そなたの双眸(ひとみ)は紺碧の漣波と愁ひに沈み降り灑ぎ
微笑み乍らそなたは私の眼の前に顯現(あらは)れて來た
爽やかにまたしても崇厳(おごそか)なる晴れ渡る六月の天使の女神のやうな小女であつた
【皈(らぬ)想ひ出】
おゝ、遠いとほい愛人よ、想ひ出すか、思ひ出すか
その日、その夕べ、その夜、私達はたつた二人で歩いて居たのさ
紺青の夜空に星は花輪のやうに美くしく朦朧(おぼろ)げに晴れ渡り
遠いとほい距離(デスタンス)よ、月暈は悲しげに空高く森の梢に懸り
吾達(わたしたち)たつた二人は夢見心地で只歩いて居たのさ、嘆き交はしてゐたのさ
おゝ、遠いとほい愛人よ、想ひ出すか、思ひ出すか
その日、その夕べ、その夜、私達はたつた二人で歩いて居たのさ
遥か彼方森の梢ほうほうと哭く夜鳥(よどり)、彼の遠鐘、もの凡(な)べて遠く悲しき
遐(とほ)き市街の響音(おと)は聽聞(きこ)え來たる!
私達二人の蔭影(かげ)も月影に泛(なが)く幽暗(ほのぐら)く何も彼も佗しくそして悲しかつたのさ
吾達(わたしたち)たつた二人は夢見心地で只歩いて居たのさ、嘆き交はしてゐたのさ
おゝ、遠いとほい愛人よ、想ひ出すか、思ひ出すか
戦慄(わなゝ)く吾等二人が面額(おもて)は憂愁の瞳に閉ざされ
優しさよ!優しさよ!嬉しくも柔(やさ)しく悲しげに
私の耳許に囁き洩れ來たる彼女の言葉の何たる誇らしさ!甘美さ!
吾達(わたしたち)たつた二人は夢見心地で只歩いて居たのさ、嘆き交はしてゐたのさ