山川彌千枝(やまかわやちえ)1917〜1933
16才で結核で夭逝した文才豊かな少女。ドイツ語教授の父・幸雄と女流歌人・山川柳子との間に9人兄妹の末っ子として生まれる。父は早くに亡くなるが、才能溢れる兄や姉たちに囲まれ、文化水準の高く自由な雰囲気の中で育つ。
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(沙羅書店/1935) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719773
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(甲鳥書林/1939)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(ヒマワリ社/1947)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(能楽書林/1948)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(四季社/1955)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(美和書院/1956)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(久保書店/1966)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(創樹社/1987)
『薔薇は生きてる』山川彌千枝(創英社/2008)
【あるく】
床の中では、どこもかも自由になった。床の上で字もかけば、床の中でお裁縫もすれば、床の中でかるたもすれば、すっかり床の中でなんでも出来るとうになった。けれども今日のように起きると、背ばっかり高くて、足が長くっても、よちよち小さく歩かないところびそう。一たん座れば、もう立てない。看護婦さんに、手伝ってもらって、ようやく立つ。よたんよたんよたんよたん歩く。
皆私の歩くのを見て、ここまで歩いてごらんなさい。ここまであるいてごらんなさいと、私のあるきかたの御見物です。それでもこの頃は足がかたくなった。もとはふわふわで、看護婦さんに、おもちみたいだと言われたけれど。
【だめなにわとり】
コケコッコ、夜があけた。
なんだ、もうおきたよ。
こんなに日があたってから鳴いたって
誰も、ねている人はいないよ。
目ざまし時計にならないよ。
コケコッコ、夜があけた。
なんだ、もうおきたよ。
もう九時頃だというのに、鳴いたって
誰もおきる人はいないよ
お前の声で起きる人は。
【春】
鳥がなく
チイチイ
今日はお天気
鳥も嬉しいだろう。
ねむくなる。
春の片瀬はねむくなる。
江の島の空は、うす桃色。
すすきの株に青芽が出てる。
鳥はチイチク、いい声でないてる。
牛がもうとないている。
ねむくなる。
春の片瀬はねむくなる。
【雨と風】
風と雨、昨日はそうでした。今朝もそうでした。もうさっき、ガラス戸がガラガラどしゃんと、はずれました、今は、風が雨を吹きとばして、雨はふっていません。雲がどんどんにげてゆきます。日があたって来ました。青い空が出て来ました。縁側から外を見てみたらすすきが前よりずーと青く見えました。椿が赤い、真赤なのが、木の間からちらちら見えました。土の色は、黒いしめった、気持ちの良い色をしていました。木のたまった所は紫色でした。桜の葉がこの間より沢山ついていました。青い、その先に白い、小さな花が、ゆれてました。雨にうたれ、風にふかれて、さぞ元気がないだろうと思ったけど、それは違いました。それは、しめっぽい気持よい青々とした、木や草になってました。桜の幹は雨で黒い茶色に色になりました。青い葉とよく似合っていました。所々かわいて、白くなって、いました。鳥がピイチクなき始めました。江の島が黒く、青く、うーすらと見えました。松は、いつもより、色がこいいく見えました。かげがもっとこいー青になっておりました。家もはっきりきれいに見えて来ました。あー、すずしい風だこと、いい気持ちだこと。
【雨あがり】
お八つを食べてしまうと、日がぱっとあたって来た。雨があがりの日ほどきれいなものはない。つつじの葉っぱの露がきらきらと耀き、芝のあちら、こちらに、明るい日光があたって、今までのねむさ、だるさ、陰気さを取りのけた。宮崎のみやちゃんとしげちゃんとで、日がぱっと照って来たので、嬉しくなって外に出た。なんという気持ちよさ。なんという木々の色。久しぶりの青空、きらきらとまぶしく光るs日の色。くるくると廻るような太陽。
私はとても嬉しくなってぴょんぴょんと芝の上ではねた。
【母様】
おでこで、目が大きく、鼻が細く、口が大きいです。若い頃は西洋人のようでしたそうです。
母様は四十九で、歌よみで、時々何か書きます。
母様はお芝居が好きで活動が好きで開けています。
母様の事を書こうとしたら何だかよく書けない。母様がどんな人だかよく分らなくなってしまったのです。
それに悪口等を書いて見られてどうせそうでしょうよとあっちへ行かれたら困るのですもの。
【菊】
私のお部屋には菊の花があります。
一つはけんがいでクリームの花。この花はあんまりきれいではありません。一つ一つとして、しかし、皆咲きそろってる所は、非常に美しいです。それに、ずーと下へたれてますから、私は小菊が好きです。中のしんのまっきいろな花弁の白い花。何というか知りませんが、よく式の時に売っているようなのです。この花は上品、愛くるしい花です。
もう一つはやはり小菊で、前の花よりももっと上品で、青みかかった、つややかな感じを持つ花です。
菊は上品だと思います。
においも、形も。
【湯気】
おやかんの口から、シュンシュン言う中から、ゆげが立っています。
ゆげは不思議です。
ゆげはゆらゆらと、横へいったり、まっすぐにたったり、大きくなったりしながら、上に行くとすうとなくなってゆくのです。
ゆげの形は面白いです。
ゆげが消えてゆく時、ゆげはとびまわります。そしてなくなってゆくのです。
ゆげを見ていると不思議な気がします。
ゆげは、いい気持ちそうに、ゆらゆら一つの大きなかたまりになったり、小さく小さく分れて、そして消えてゆきます。
【お正月】
もうじきお正月。お正月と言うと何だか嬉しいような気がする。
女中達はお正月なんて、年をとるからいやだって言うけどやっぱり嬉しいのだ。さっき、隣の部屋でお正月の道具を出してる時、それは嬉しそうに笑って「おとそ」なんて言っていたもの。おとそ、私ははおとそと言ったのを聞いておかしくて、嬉しくて、変な気がした。
十五、何だかいい年が来るような気がする。
私は早くお正月が来てほしい、そして、あの新しい日記帳に何か文字を書いて見たい。十五のお正月にはどんな事が起るか、どんな文字が日記に書かれるか。
さあ、私はなるたけ、この病室を美しくかざって、病気だけれども、たのしいお正月を迎えよう。
【病気がなおったら】
病気がなおったら、なんて嬉しい言葉なんでしょう。私はどうしようかしら。
私は白いフェルトの黒いビロウドのリボンのついた帽子をかぶって、ラシャの真赤な洋服を着て、どこへ行こうか。
病気がなおったら、花屋へ行って、花を沢山買って来て、私の部屋へ、具合よくかざります。美しい桃色の大輪のバラは美しいガラスのいれものに、白いテーブルかけの上に。
白と桃色のカーネーションは本箱の上に、桃色のスイトピーは私の机の上。
色々の花で私の部屋を、もも色と白でうづめてしまうのです。
これから、私の大好きな大好きなお友達を呼ぶのですもの
【大きくなったら】
私はこの頃、こう言う事を考える。大きくなたら私は何になろうか。
どうせ、こんな病気になったんだからあんまりいいものにはなれないし、おまけに小学校だってちゃんと卒業しているわけじゃないし、でもどうかしてお金をかせぎたいもんだ。一生懸命勉強して絵かきになろうか。だめだ。この頃に私の絵は下手だ。それに、ちっとも書きやしない。仕方がない。少女雑誌の口絵でもかこうか。また小説家になろうか。この私に小説なんて書けるかしら。と言って、事務員だの秘書なんてとても出来やしない。第一、女学校卒業もしない。もと病気やった人なんか。
ああ、なんかいい職業ないものかしら。キリストは、いたずらに明日の事をわずらうなかれと言われた。こんな事考えるのはやめよ。でもやはり考えずにはいられない。
今のところ、まあ、病気を直そう。一生懸命に。
【風に乗って】
私は起きてもいいと言われた時、本当に嬉しかった。けれどもあの腰のいたさやら咳の事を思い出したらいやになった。
私は起きたい起きたいと思わない。起きたい気がちっともしない。
何故だろうか。私は起きたら、また起きれなくならないかという事と、またおきてもいいと言ってるが、何かおこってまた起きられなくなりはしないかと言う気持ちと、長い間の病気の中にあきらめてしまったからだ。
この頃、いやにつまらなくなる時がある。ひょっとつまんないと心に浮ぶのだ。ひらめくのだ。
私の小さかった時おひなまつりがとても持ち遠しかった。嬉しかった。赤い布を段々の上にひろげる時おひな様を出す時の包んである紙に皆の小さかったお習字を見るたのしさ。私は本当に嬉しかった。私はきれいにかざられたひなだんをそーっと一人でいって見て、美しいおひな様をいじってみた。内裏様の刀をぬいて見た。お菓子のふたを開けてみた。(未完)
この間、私はこんな空想をした。
私達は、スイスにゆく。あの美しいスイスへ。スイスは非常に空気がよくて、私みたいな弱虫がすっかり丈夫になると言う。
ある日の事、その日は風の強い日でした。
私はベッドの中で思いました。この風にのって世界中めぐったらと。
【風の中の桜】
おお、ゆれてるゆれてる。
さくらの花が
黒い枝と、ほの赤いさくらが、ゆれてる。
さくらとさくらとぶつかってる、
なんてひどい風だ。
ところどころ白く光ってる。
ああ、嬉しい。
【小さかった頃】
私が小さかった時
私は追分に行った。
そこで、私はとんではねた。
白樺のそばで、すすきの原で、
なんて黒い私だったろう。
長い足をすねまで出して
長い手をそーっとのばし、
とんぼとりしたっけ。
赤いとんぼ、黄色いとんぼ。
青い空へとんでった。
その頃の私も今とやっぱり
似てる所がある。本が好きな事だ。
追分で、すずしい風のふく所で、私は
足をばたばたさせて本をよんだ。
白樺の葉は銀色に光った。
それから絵を書く事だ。
えんぴつを二、三度うごかすと
顔が出来る、本当に面白いもんだ。
小さい時の事はなつかしい。
私のおてんばだったあの時代。
【私、大きくなったら何になろうか】
大きくなったら何になろうか。私の二年か三年頃、私は奥様になって西洋にゆくのだと作文の時書いた。今考えるとおかしいけど。私、大きくなったら、西洋の本を日本語に訳す人になる。そしたらどんなにいいでしょう。病気がなおったら、外国語を一生懸命覚えて、それには女学校出た人でなくてもよいし、もと病気した人でもさしつかえなく、自分のお家でしてもいいのですもの。向うのよいものをよい言葉で日本語に訳す。何て嬉しい事でしょう。それは幾度いやになるでしょう。でも私に一番適してると思う。
じゃなきゃあ、何でお金もうけしましょうか? もしも大きくなって私の思ったように訳す人になってお金もうけたらどうしましょうか。世界旅行? ああ、行きたいな。でもそんなもうけられないわ。
じゃ何? かわいいお家を建てて、一人暮しましょうか。
お隣りは母様のお家、そのおとなりははあちゃん、みやちゃん、百合さん、京さん、どんなにたのしいでしょう。
皆で母様の家によって遊ぶたのしさ。また御飯もお掃除も皆、自分でするたのしさ。部屋一杯ちらかすたのしさ。きれいにするたのしさ。母様のお家へいって甘ったれ、自分の訳した本を読んであげるたのしさ。
考えても嬉しい。私の未来が分らなくて本当によい。どんなにでも考えられるのですもの。
【転地】
「ねえ、母様、早くどっかに連れてって下さいよ。もう七月よ。ぐづぐづしてる中に今年もまたどこにも行けなくなっちゃうわよ。ねー」
「うん、ふふん」
母様は困ったように笑ってらっしゃる。でも今年の夏はどうしても行きたい。去年はとうとう行けなかった。そしてもとより悪くしてしまったんだもの。去年、あの人見絹代さんだって夏の暑さ死んだ。それから有名な人が、九、十月頃、あの暑さの疲れでぞくぞく死んだ。だから私。
「ね、母様、私いやだわ、東京にいるのなんか。あつくてなお悪くしちゃう。どこでもいいからつれてって下さいよ」
私は一生懸命頼んだ。
「うん、でも、食物だって違うだろう。それにどうして行くの? や子、行ける?」
「うん」
「じゃまあ、先生にお話しといてよ。いいようにしてあげるから安心しといで」
「はい」
私はほほえんだ。
【ひよけ】
中野の駅を下りて長い道を行くと大きな黒瓦のいかめしい家がある。
その家は芝の上に桧本の植えてある土手が出来ていた。夏の事であった、その黒いいかめしい西洋館の東の一室に弱い女の子が寝ていた。
女の子は五月からずっと今まで寝床の上に座れもしなかった。娘の母は、暑かろうとその赤と白の縞の日よけを作らせた。娘は日よけを非常によろこんだ。なぜならそれはあつい日が入らないし、夏の真青な空に――娘には空がただ一つのなぐさめであった――赤と白のはっきりした縞が、ひらひら見えるのは随分いい気持ちであったから。
道をゆく人は思った「おや、あすこはきっと女の子の室だな、きれいな日よけだなあ」と。
【面白かった事】
お天気がよい。風がひどいけどそれだけあつくないからよろしい。
春ちゃんとお手紙のやりっこしたらとても面白かった。今日はお手紙が来なかった。でもきっとじき来るわね。
私、今日つまんなくてしょうないの。どうしたのかしら、でも明日はきっと面白いと思うわ。
私、海や山へ行きたくてしょうないの。心の底がうじうじしてるの。
皆がたのしい夏休みしてるかと思うと、つまらなくてつまらなくてしょうないの。
お馬鹿ちゃんね。自分で気をつけなくて病気になったくせしてこんな事考えて。
私、このつまんない心追い出そうと思って面白かったこと、うれしかったこと書きはじめたの。でもよそみちに入っちゃったわね。
じゃsまた考えてみよう。
母様が寝巻きを作って下さった。白地に菊の模様。
【私の心】
なんか楽しい事はないかしら。私の心の底でそう言っている。私の病気を忘れるような、楽しい事はないかしら。青い空を見て、地を強くふんで、ぽっと飛ぶような愉快な事はないかしら。ない、ない、今、私の心の中でそういっている。あの美しい菊を見てごらん。たのしいじゃあないか。違う違う。私の心の中でそういっている。
【手風琴】
羨ましいな、手風琴
あそこを押して、こう弾けば
ミが出る、ブーと面白い。
羨ましいな、手風琴
あそこを押せば、フーと
風が出る出る、面白い。
羨ましいな、手風琴
私も体がよかったら
ああして、こうして弾くんだに。
【遺言書】
今、私は妙な事を考えた。
それは遺言を作ろうと言う事である。
私の病気はもう随分悪いかもしれない。母様や看護婦さんがよく話してくえないあら、知らないけど、作っておけば死なないで生きてた時は面白い思い出となるし、良いと思う。
私は遺言書なんて見たこともない。だからここに自我流の遺言書を作とく。
皆様、長い事、いろいろお世話になりました。
私が生前、おかした罪をどうぞおゆるし下さい。私もまた、皆さまの罪をゆるします。
さようなら、有難う御座いました。
一、母様には、私の本箱と(これは母様がお好きですから)一千九百三十一年のクリスマスに頂いたお人形と、私の作った壁あっけ一つと、それから、私の持っているだけのお金と、を差し上げます。しして、いつもご心配させたことのお詫びと、私を可愛がってくだすった事のお礼と、いつも私のためを思って下すった事を、感謝いたします。ほんとうに有難うございました。(なお小さなおもちゃは皆母様に差し上げます)
一、春ちゃんには、金の箱と、中に入っているハンケチを上げましょう。いつも面白いはなしをしてくれた事を有難く思ってます。
なお長い間看病してくれたお礼として、みやちゃんから貰った黒ビロードのお人形を上げます。
一、兄さん達には、私は何を上げてよいのだかさっぱりわかりませんから、皆様がよいようにして下さいませ
一、木村の姉さんには、綺麗な桃色の帳面と私の洋服とを上げます。私の洋服はどうぞ、明ちゃんや美和ちゃんの洋服に作りかえて下さい。
明ちゃんには古いコドモノクニを全部、美和ちゃんにはセルロイドの大きなお人形を上げましょう(なお朝子ちゃんには朝子ちゃんの好きな物を上げて下さい。明ちゃんにはまた本をやって下さい)
一、由里さんには、私のスクラップブックと愛児トロット、トロットの妹、ジャンとピーター、と針さしを上げましょう。
けいちゃんにはアンデルセン童話集と世界家庭文学全集と、小布とを上げます。ようちゃんには、いや、皆二人にします。おままごと道具をあげましょう。暁ちゃんには見はからってください。
【一人ぽっち】
淋しいようなこわいような気持ちがとれてきて、お腹のくうくう音のするのが嬉しいようにひっそりしてる。
ラジオの三味線の音がするが、それさえひっそり落ちついてる。
まっくらな二階にただ一つ、この部屋だけ電気がついているだろう。
一人ぽっちの気持ちよさが静かにわいてくる。
【三月一日】
つまらない、私ほんとにつまらない。
私の目には涙がじくじくしてる。
何でつまらないのか、それは理由なしじゃない。皆が私に向ってかんしゃくをおこすな、辛抱しろって言う。そして誰も今まで辛抱してこないように言う。
おお涙が、そして私の顔が涙と一緒にあつくなって来た。つまらない、今まで辛抱してたんだのに。
だんだん涙がかわいて来た。看護婦が階段をのぼってくる。私が泣いてるのがわかったら、何と言うだろう。
【私の大きらいなもの】
からかわれる事。
泥棒。火事。地震。雷。
病気、つまらない時。
おかずの少ないの。
怒られたり、泣かれたりする事。
熱が出る事。浪花節。詩吟のレコード。
返事のおそいの、呼んでも中々返事しないの、大嫌い。
うに。おっぱらい。煙草のけむり。
たばこのみの手。女給の声と格好。
白粉真っ白ろ。眉毛真っ黒ろ、口唇真っ赤。ほっぺた真っ赤。アッパッパ。
お菓子のういろう。留守番。
くわいの煮たもの。汚れたもの。
「何か面白いことなあい」私はたずねます。
「何んか何んかすてきなことない」
私はつまんなくてしょうがないのです。
今、私は、こう飛び上がりたいのです。手をひろげて、おもいきり息を吸い込んで、片方の足を強くふんで、高く高く飛びたいのです。
そしてこのつまんない心をどこかに捨てたいのです。
でも私は飛べない。だから面白い話でもきいてつまんない心を捨てたいのです。 「ねえねえ、お話し下さいな。面白い、たのしいおなはしをして下さいな」
私は言います。
【思い出】
生い立ち
私は、山川幸雄の子供です。母は柳子、ここに、私は今までどんなにくらして来たかをしるしておきます。
私の五歳の時、父が死んだ、大塚で。
今、それを考えますと、大変暗いようだったり、明るいようだったり、はっきりしない。
小さい時はお医者ごっこが好きだった。八ツ手の陰にござを敷いて、お医者ごっこをしたような気がする、子供部屋の前には木が繁ってた。
爺や、婆やの所へ行くとお菓子をくれた。それから、私達はよく張板をすべり台にしてすべったっけ。色んな事が頭にごちゃごちゃ湧いてくる。
ある時、用だんすの上に、大きな箱がおいてあった。そっと開けたら、人形。それからしばらくたってお二階でその人形を貰った。ひょこひょこあるく人形だった。それから舌の動く人形があった。
【無題】
おこしてよ。おこしてよ。
私の病気なおしてよ。
早くしないと春が来ちゃうじゃないの。
桜が咲いて、楽しい頃までに早くなおしてよ。本当に私は待ちくたびれた。
早くなおさなくちゃあ、花瓶をわるぞ。早くなおしてよ。
気がせくせく、おきたいおきたい。いくら寝たとてなおるかどうか。早く起こせばなおるかも知れぬ。早くおこしてよ。
「私をよい子にしてよぅ。私、中々よい子になれないのよ。私はやさしくないのよぅ。ねってば」
あー、私、こんなに甘ったれて抱いてほしい。母様のやわらかい絹の着物を見ると、母様のやわらかそうなひざを見ると私はだきつきたい気持ちがする。そして私はただ、母様のひざにさわる。または袂にさわって見る。「あー」と大きな声を出す。抱きしめて抱きしめてほしい。
【無題】
何時だったか、病気がとてもいやになり、胸が憎らしくてたまらなくなり、こんなものなければ丈夫で病気にもならなかった。こんなもののためにみんな足や手が犠牲になった。そう思ってとても憎らしくて肺臓を出して床にたたきつけたくなった。
ところが、隣に先生がたがいらっしゃって、ひそひそ独逸語で話された。それは私の事で無いだろうが、私は私の胸の事を話されているように思って、先生方にそんなふうに話される胸が急に可愛そうになった。そして胸を先生方の目からそらせたいように思ってきっと抱きしめた。