森川義信

森川義信(もりかわよしのぶ)1918〜1942
香川県生まれ。中学時代から詩作をはじめ、鈴しのぶの筆名で「若草」「蝋人形」に投稿。「LUNA」(後にLE BAL)に加わってから筆名を山川章と改め、このころ鮎川信夫、中桐雅夫らを知り「裸群」「早稲田派」「荒地」などに詩を発表。第2次大戦中ビルマのミートキーナで戦病死。

『森川義信詩集』鮎川信夫編(国文社/1977)

【雨の日】
硝子窓から青猫がやつて来てぼくの膝にのる
よろよろまるで一枚の翳のやうなやつだ
背をなでてゐるとぼうぼうと啼き出し
ぼくの腹の中までぼうぼうと啼き出し
こいつ こいつ …………
だがお前の眼のうるんだ青白い幻燈よ
ゆううつな向日葵のやうにくるりくるりと
黒繻子の喪服の似合う貴婦人か
お前は晩秋のやうにぼくの膝にやつてくる
苦い散薬の重いしめりに
色変へるまで青猫を思索するぼくの若さよ
何年も座つてゐたやうに立ち上り窓に歩みよる
ぼくはもうぼくの青猫を放たう
夕暮は力強く窓硝子をおしつけ
その向ふでは雨の跫音が嗤ふ
ぼくは掌をみる ぼくは胸をみる
青猫は――青猫はもうゐない
いや
青猫はまたどこかでぼうぼうと啼きだす

【季節抄】
葩束を編みながら美しく羞むひとよ
夕べバルコンの影の跫音の言葉なら
はるかな愛情も匂ふでせう
  ★
梢に鴉の喪章はゐない * * *
新しいアアチの青貝路にペンキの響き
自転車で春の帽子がかけてくる
  ★
樹樹の梯子を登りをりして歌ふものたち * * *
花に飾られた日射しの緑のブランコの
優しい肩にのりあなたは空まで駈けあがる
  ★
雲がじぶんでドアをあける
光りにまじつて小鳥の声もおちてくる
やはらかい枝や影がぼくを支へる

【季節抄】

梢が
空にとどいてゐる
美しい樹々よ
花の咲かない…………
花はなくとも
ああ せめてものわが願い

樹々の編む
光りのハンモツクに
僕はつつましく腰をおろす
風が静かにひかるとき
ゆれないハンモツクで
僕はそつと時間をみ失ふ

小さな口をあけて
ぼくぼくと駆けてくる
波頭よ
さうして
何も彼も洗ふがいい…………
貝殻の中の小さな海にも
冷たい空が
匂ふやうに光る

青い塔の半円形も消え
匂ひの向ふへ花がこぼれた
重たい風船のやうに暗い秋の陽が
落ちてしまつて…………
ひと掬ひの歌もない
海よ
貨物船よりもぢつとして
お前を視てゐる僕

【歌のない歌】
≪夕暮に≫
この傾斜では
お伽話はやめて
こはれたオペラグラスで
アラベスク風な雨をごらん
ひととき鳩が白い耳を洗ふと
シガーのやうに雲が降りて来て
ぼくの影を踏みつけてゐる
光のレエスのシヤボンの泡のやうに
静かに古い楽器はなり止む
そして…………
隕石の描く半円形のあたりで
それはスパアクするカアブする
匂ひの向ふに花がこぼれる
優しい硝子罎の中では
ひねくれた愛情のやうに
僕がなくした時刻をかみしめる
ぼくはぼくの歌を忘れてゐる

【雨の出発】
背中の寒暖計に泪がたまる
影もないドアをすぎて
古びた時間はまだ叩いてゐる
あれは樹液の言葉でもない
背中の川を声だけで帰つてゆくものたち

【衢路】
友よ覚えてゐるだらうか
青いネクタイを軽く巻いた船乗りのやうに
さんざめく街をさまよふた夜の事を――
鳩羽色のペンキの香りが強かつたね
二人は オレンジの波に揺られたね
お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?
友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ
窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを
昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ
それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが
ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も
友よ お前は知らないだろ?
ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて
今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて
猶太人のやうにほつつき歩いてゐる事を
だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて
ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ
そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは
かぐはしい昨日の唄声ではなかつたのだ
ああ それは――昨日の窓から溢れるものは
踏みにじられた花束の悪臭だつたのだ
やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ
ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま
小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする
いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする
ボードレエルよ ボードレエルよ と
ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが
――又仕方なく昏迷の中を一人歩かうとする

【冬の夜の歌】
私は墜ちて行くのだ
破れた手風琴の挽歌におくられて
古びた天鵞絨の匂ひに噎び
黝い霧に深く包まれて
ゆふぐれの向ふへと私は墜ちて行くのだ
今はこの掌に触れた蒼空もなく
胸近く海のやうに揺れた歌声も――
どうしたのだ私の愛した小さくて美しかつたものよ
小鳥たちよ 草花たちよ 新月よ 青い林檎よ
しきりに眩暈がおしよせる心には
悔恨が一本の太い水脈となり――
陰鬱な不協和音が青く戦き
狂つたヴイオロンが駈け廻り
すべては白?石の上に痙攣し
腐蝕した玻璃の破片が暗黒の空間に飛散するのだ
ああ 遂に今 若い肋骨さへ?み穿つ
寒々と冴えた牙の戦慄よ

【衢】
よりそふ暇もなく
こみあげる約束はうばはれていつた
疲れのやうに
吃つている炎よ
くづれる愛をさらに踏みしめ
時間のかげに身をこがしても
自分の力で倒れかかり
義足よ
記憶は埋れ
虚しい体温から
すべての言葉はかへらない
いまは
とざされた扉も消え
匂ひににた沈黙もなく
夜の静脉がかなしく映えてゐる

【衢にて】
翳に埋れ
翳に支へられ
その階段はどこへ果ててゐるのか
はかなさに立ちあがり
いくたび踏んでみたことだらう
ものいはず濡れた肩や
失はれたいのちの群をこえ
けんめいに
あふれる時間をたどりたかつた
あてもない歩みの
遅速のままに
どぶどろの秩序をすぎ
もはや
美しいままに欺かれ
うつくしいままに奪はれてゐた
しかし最後の
膝に耐え
こみあげる背をふせ
はげしく若さをうちくだいて
未完の忘却のなかから
なほ
何かを信じようとしてゐた

【勾配】
非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向つて
誰がこの階段をおりていつたか
時空をこえて屹立する地平をのぞんで
そこに立てば
かきむしるやうに悲風はつんざき
季節はすでに終りであつた
たかだかと欲望の精神に
はたして時は
噴水や花を象眼し
光彩の地平をもちあげたか
清純なものばかりを打ちくだいて
なにゆえにここまで来たのか
だがみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雑草のかげから
いくつもの道ははじまつてゐるのだ

【眠り】
骨を折る音
その音のなかに
流れる水は乾き
鳶色の風はおちて
石に濡れた額は傾くままに眠つた
みえない推移の重さに
骨を折る音
その音の中に

【壁】
扉や窓を濡し
支柱や車輪を濡し
出ていつた音よ
仄かな調和のどこにも
響はすでに帰らない
色彩はなく
無表情の翳がうかび
しづかな匂ひがひろがり
脱落するシヤツのあとには
あやまちのごとく風が立つた
柱廊はひきつり
手すりはくづれ
静止した平面は
静止した曲面とともに
いちぢるしく暮れた
きびしく遅速をかぞへる
時差のそとに
屹立する実体もまた
ひとつの影像である
壊れた通路を水がながれ
扉や支柱の倒れるなかに
その階段はどこへ続いてゐるのか
鋭い光の輪につづられて
果はみえない
だがその一角は墜ちた
深い空間をまたぎ
おびただしい車輪は戻つてきた
そしておまへの道を走つてゐる
放らつな円心に
廻転するおまへの声がきこえる
おまへとは誰か
強烈に踏みにじられた地域に
いつはりのごとく風が立ち
振動だけが支へてゐる
眼も肩もない
幻の街よ
かぞへきれない壁や腕椅子は
悲痛によじれ
水平のまま沈んでいつただろう

【哀歌】
枝を折るのは誰だらう
あはただしく飛びたつ影は何であらう
ふかい吃水のほとりから
そこここの傷痕から
ながれるものは流れつくし
かつてあつたままに暮れていつた
いちどゆけばもはや帰れない
歩みゆくものの遅速に
思ひをひそめ
想ひのかぎりをこめ
いくたびこの頂に立つたことか
しづかな推移に照り翳り
風影はどこまで暮れてゆくのか
みづから哀しみを捉へて佇むと
ふと
こころの侘しい断面から
わたしのなかから
風がおこり
その風は
何を貫いて吹くのであらう

【断章】
おほくの予感に充ち
おまへの皮膚にはとどかず
はるかに高い所を
わたつた
あの鋭い動きさへ
速かに把へたのに
精神よ
季節は錆だ
新しい時へ
歩みを移すこともできず
灰は灰に
石は石に還つた
しかし
それらの冷やかさを
身をもつて感じてゐることは
もつと不幸だつた

【あるるかんの死】
眠れ やはらかに青む化粧鏡のまへで
もはやおまへのために鼓動する音はなく
あの帽子の尖塔もしぼみ
煌めく七色の床は消えた
哀しく魂の溶けてゆくなかでは
とび歩く軽い足どりも
不意に身をひるがへすこともあるまい
にじんだ?紅のほとりから血のいろが失せて
疲れのやうに羞んだまま
おまへは何も語らない
あるるかんよ
空しい喝采を想ひださぬがいい
いつまでも耳や肩にのこるものが
あつただらうか
眠るがいい
やはらかに青む化粧鏡のなかに
死んだおまへの姿を
誰かがぢつと見てゐるだらう

【残像】
翳だけがささへてゐる
あなたの重量から
ゆめの耳もみえない
疲れのやうに羞んで
よりそへば傷ついてゐる言葉たち
どもつて吃つてわたしは
じぶんの位置をかんがへる

【樹樹】
つつましい文字のやうにその指を組み
いま じぶんの脚で立つてゐた
空にとどいた梢に
天使のやうな雲がふとつつかかる

花の咲かない樹樹は
そのほそい指のあひだから

【冬】
義足のごとく
つつ立つものの向ふに
新月は
かへれない
緑の時差を示し
地軸は
若い意志のなかで
折られた