ブッシュ孝子

ブッシュ孝子(ぶっしゅたかこ)1945〜1974
1945年 3月20日、服部一雄・和子の長女として生まれ、東京で育つ。幼い頃から、本当の「ひとの心」を求め、飼っていた金魚が死んだりするとさめざめ泣くような「傷つきやすい子だった」と、母・和子は証言している。学生時代から読書が好きでなかでも宮沢賢治、柳田國男、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マンの著作、詩人では八木重吉とライナー・マリア・リルケの著作を愛読した。
1963年 お茶の水女子大学入学。家政学部児童学科四年時に提出したレポートに自身の言語観をこう記している。「私は、いつの頃からか、世間には、同じ言葉で話せる人間と、それの通じない人間のあることがわかってきました。それは、心の国籍のようなものです。……同じ国籍者同士は、たとえ、始めてあっても、相手の心の中に、自分と同じ故郷の山河を持っていることが、わかるのでないでしょうか。……私がこれからしなければならないことは、その私自身の国の言葉を、より豊かに、美しく使えるようにすることです」
1967年 お茶の水女子大学家政学部児童学科を卒業し、大学院修士課程に進学、教育学者の周郷博、心理学者の平井信義、児童学者の本田和子らの下で児童心理学を学び、自閉症児の治療法について研究をおこなう。修士1年の夏休みに、ドイツのゲーテ・インスティトゥートの夏期講習に参加し、そのまま留学。ハイデルベルク大学でドイツ語を習得した後、マールブルク大学、ウィーン大学でハンス・アスペルガーの治療法を学ぶ。論文のドイツ語訳を手伝ってもらうため友人に紹介されたころをきっかけに、ウィーン大学で経済学を学ぶ学生だったヨハネス・ブッシュと出会い、人生を共にする約束を交わす。
1970年 8月に帰国。10月、からだに異変を感じて病院へ行く。
1971年 2月に乳がんと診断されて入院し、手術を受ける。9月26日、来日したヨハネス・ブッシュと結婚。四ッ谷聖イグナチオ教会で式を挙げ、ふたりで神奈川県鎌倉の海岸を旅行する。アペートでびふたり暮らし、ヨハネスは証券会社に勤め、孝子は結婚生活のかたわら、論文の執筆に取り組む日々を送っていた。
1972年 7月に2度目の手術を受ける。
1973年 11月に病の再発により入院。かねて「童話を書いてみたい」と願っていた孝子は、この年の9月9日から、詩をノートに記しはじめる。1部の作品については、「夢の木馬」というタイトルの下に、1冊の詩集としてまとめることを構想していたと思われる。ノートには、92編の詩が残されていた。
1974年 1月27日、永眠。享年、28歳。8月、周郷博の編集によりブッシュ孝子詩集『白い木馬』が刊行された。

『ブッシュ孝子詩集 白い木馬』ブッシュ孝子(サンリオ出版/1974)
『ブッシュ孝子全詩集 暗やみの中で一人枕をぬらす夜は』ブッシュ孝子(新泉社/2020)

暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから 空の彼方から
遠い過去から ほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達
暗やみを一人さまよう者達の声
(1973年10月2日)

家にもどる道がどうしてもわからなくて
見知らぬプラットホームで途方にくれてしまう
親しい人達とはいつの間にかはぐれ
尋ねると人はみんな親切だけれど
誰も本当のことを教えてはくれない

いつの間にか汽車も電車もなくなり
ひっそりしずまりかえった夜の町にさまよいでるけど
道はどんどんさびしくなるし
それにどうやらどうどうめぐりばかり
森を背にした小さなお宮の
赤い鳥居の前にきっとでてきてしまう ポツンと立った
裸の街灯の下で
私の心はもう心細くて
おそろしくて
ちぢみ上がってしまいそう

こんな夢をみるようになって
もう何年になることか
(1973年10月5日)

口にも出せず涙も見せずに
ひたすら耐える子供もいるのを
だから笑顔を忘れている子供をみたら
どうかやさしくしてやって下さい
子供らしくない子供だなといわないで

あなたはそういう子供を笑顔を忘れた子供だというのですか
子供らしくない子供だというのですか

でもその子は小さい大人なんかじゃない
ただそっとしておいてほしいだけなのです
もっと夢を見ていたいだけなのです

花やちょうやおかあさんの夢を
でもいたずら坊主がまずその夢をやぶるのです
大人の見てない時をねらって

次から次へと新しいいじわるを見つけて
たった一粒の 涙がみたくて

女の子達はないしょ話が大好きで
耳に口よせてひそひそ話
あることないことつげ口しては
かげでペロリと赤い舌だすのです

あなたは何んにもきづいていないのですか
この世に満ちて悲しみへの予感がもうすでに
小さな心にふくらんでいくのを
幼ない夢が一つ一つこわれていくのを
(1973年10月9日)

迷子の小鳥は
私の窓辺にとんでおいで
私の手の中で
お前はきっと忘れた歌を思い出す

迷子のそよ風は
私の窓ガラスを叩いておくれ
私はお前に
ふるさとへの道を教えておあげる

迷子の流れ星は
私の窓辺に落ちておいで
私はお前を赤いローソクにともして
この世の闇を照らしだそう
(1973年11月18日)

〈魂のうた──詩人ブッシュ孝子の境涯 若松英輔〉
 ブッシュ孝子の詩の多くには題名がない。無題の詩の場合は、最初の一行を題名のように扱うという詩の世界の習わしに従っているだけだ。
 彼女が詩を書いたのは亡くなるまでの五か月間だが、そのほとんどが最初のひと月強の期間に生まれている。
 このとき、すでに彼女の病状は深刻な状態だった。詩は、言葉を紡ぐのにもちからを要するが、題名を生むのにも別種のちからを要する。また、本文と題名が同時に生まれてくるとは限らない。彼女は、詩集にまとめるとき、改めて題名を考えたいと思っていたのかもしれない。だが、彼女にその時間は残されていなかった。
(略)
 1973年9月9日、突然、詩神が彼女を突き動かした。「夢の木馬1(旅立ち)」は、この詩人の誕生を告げ知らせる作品にして、代表作の一つだといってよい。ここには詩を書かなければならなかった理由と、詩神はおそらく、幼い日から彼女の傍らにあった事実も記されている。

  白いスワンの木馬に乗って
  始めて空にとび立った日
  古びて黄ばんだ写真のような家から
  母に別れをつげてとび立った日
  子供の時代に別れをつげた日
  古い世界に別れをつげた日

  あの日以来 私の心は
  不安におののき あこがれにやかれ
  一点の青空を求めて 黄色い空に中をただひたすら
  とびつづけておるのです

 詩を「書いた」のは、半年に満たない期間でしかない。しかし、彼女が「詩人」になったのはおそらく、名前を自分で書けるようになる前だったのではあるまいか。同じ日に彼女は十二篇の作品を生み、最後の作品でこう書いている。

  素直なことばで
  本当のことだけを語りたい

 この素朴な衝動に生涯を賭した者こそ、詩の使徒と呼ぶにふさわしい。ブッシュ孝子は、二十世紀の日本において数少ない使徒の一人だった。