藤田文江

藤田文江(ふじたふみえ)1909〜1933
1908年鹿児島県大島郡名瀬村伊津部の生まれ。詩人。1910年、鹿児島市に転居。翌年、台湾に転居。
1921年、台北第二高女に入学。1923年、鹿児島第二高女に編入学。1925年、鹿児島女子師範に進学。
1926年、鹿児島女子師範学校を卒業。勝目小学校に赴任するものの、病弱のため教職を退き、詩誌
「南方楽園」の同人となる。昭和1928年、鹿児島女子師範専攻科にすすむ。1929年、専攻科卒業。
新屋敷つる子主宰の女性だけの詩誌「くれない」同人。「くれない」第4号で脱退。 詩誌「松籟」
を創刊。1930年、宮崎孝政編集の「詩神」に掲載の詩で新人推薦をうける。1931年、詩誌「鬣」の
同人となる。1932年、「鬣」終刊。詩誌「茉莉」へ詩を寄稿。永瀬清子との文通が始まる。1933年、
万国婦人博覧会に応募の詩が一等入選、コロンビアから古関裕而作曲でレコード化される。「昭和
鹿児島の紫式部」と地元紙は讃えたが、同年4月 腹部の激痛に見舞われ、同日死亡。刊行途中であ
った第1詩集「夜の聲」が通夜の席に届く。

『夜の聲』藤田文江(私家版/1933)
『夜の聲 復刻版』藤田文江(鹿児島詩話会/1991)

【誘惑】
惡魔(デモン) おまへはなかなか達者だね、
おまへは何だって
私をその樣にさらつてゆかうとする。
勿論
私に巣くうてゐる
悒鬱(ゆううつ)といふ鳥は
度々死(おまへ)の國を慕ふてゐた。
然し私ではない。
私ではないのだ。
まちがつてくれるな、たのむ。
昔、昔、ほんのちょっぴり
おまへの男つぷりに惚れたこともあつたけれど。

【或る手紙(C)】
いつか送つて下すつたミナト先生の
「靈を迎ふる濱邊の子等」は素晴しかつた。
おそらくそのゑは終生私の肌を離れないだらふ。
ブラマンク
コロー
ピサロ
セザンヌ
ゴッホ
ルノアル
ローランサン
私の好きだつた人々の誰も最早私には
殘夢の如きものとなつてしまつた。
小さな,(コンマ)程の日本の國の北方に
かつて美しく生きてゐたその人に就いて
私はいろいろと思はずにはをれない
それにしても若いかくれた天才がすでに此の世にないといふことは
なんといふ大きな悲しみだらふ。
「親切でも下手な人はお醫者樣でもかなしい」
 といつた貴方の言葉を沁々思ひ出した。
おゝ
「眉と眉の間に雪の如くつもる哀哉」
どうしてもこれをあなたにうつたへずにはをれないのだ。
どうやら變な手紙になつてしまひました。
それに私も少しばかり疲れてきたので
こゝらでペンをおきませう。
さて又私は例の樣に私自身にどならねばならない。
おまへはまるで氣狂ひだ。
否、おまへはまるで乞食だ。

【疾む】
     肉體は悲し噫、われは悉皆(すべて)の書を讀みぬ。
                    ―――ステファヌ・マラルメ
遂に鬪ひに破れて夕日の樣に
倒ふれてゐます。
私は毎日熱い海の上に
白い帆かけ舟を幾つも流してゐます。
それはまるで私の子供を流す樣でもあり
貴方の子供を流す樣でもあり
たまらなくおそろしいことです。
此の世にきびしく坐つてゐる距離といふものを
今日程うらめしく思つたことはありませぬ。

【泣いてゐるこども】
こちらをむくな。
寒い貌をむくるな。
私の方へ歩るいて來るでない。
おろかな仕樣のないこども。
私は眠らねばならないのだ。
かみさまも お眠り、
かみさまも お眠り、
だが、
私はやはり白い絹の寝巻の中で泣いてゐる聲の方へ歩いてゆく。
わかつてゐるよ、
わかつてるんだ、
涙をふいておやすみ。

【桟橋にて】
老いて寒い桟橋(かれ)の顔に
言葉の樣な時雨が降る。
誰を送つたのでもない出船のあとに
蒼ざめて立つ小石の樣な女。
遠く波のしぶきの中に消えてゆく船體の背後に
私、しろがねの矢を放つて孤獨なる己を思ふ。
はるかなる海路の果てにあるものを思ふ。
美しきもの懸垂せる國を思ふ。
心やさしき人の住める國を思ふ。
眞冬、寥々と物さびて港は北風を噛む。
ふるへて喪失すな。
犯したる罪悪。白き蹠(あしうら)。現世につゞく桟橋。

【棹さす】
夜が來れば
冷たい地球の上で
眠りこける者、
彼等の氣配もいつか止まつてしまつた。
初冬のとがつた星屑が
チカチカ窓掛に揺れてくると、
霜に凍つた小草のにほひが
額の上を渉る、
しあはせとは何であるか、
夜とは何であるか、
眠るとは、
すべて生優しいものが憎みたくなるのはどうした事か。
窓をあくれば霜月十日の月だ。
肌を裂かうとつめよせる夜氣に
私のくさつた胸が嚴しく顫へる、
夜鴉の樣な寒い姿、
此處は地獄の手前だらう。