福本まり子

福本まり子(ふくもとまりこ)1944〜1965
1944年3月10日。奈良県五条市今井町南垣内の未解放部落に生まれた。
1950年4月宇智小学校に入学。
1956年3月同小学校を卒業。4月貝塚千石荘准看護学院に入学。この年から創作活動を始める。
1961年3月貝塚千石荘准看護学院を卒業。4月千石荘に勤務。この年最初の精神的危機を自覚する。
10月9日の日記に「自殺をはかった」と告白。12月千石荘を退職。
1962年1月な奈良市岡谷病院に就職。4月千石荘時代に知り合った男性に求婚され父に相談し、
始めて部落民の子であることを告げられ激しいショックを受ける。12月末岡谷病院を退職。
1963年10月31日「また私のうつ病が発病したようだ」と日記に記す。
病院でノイローゼと診断され自宅療養をする。12月ジイドの『狭き門』1冊を携えて失踪する。
その後、捜査したが見つけだせなかった。
1965年1月16日午後4時頃、白骨遺体となって発見される。19日告別式。3月碑を建立。

『悲濤』福本まり子著 福本正夫編(部落問題研究所/1965)

—10歳—
【灰の夢】
夢をみました。
おかしな夢でした
「おばちゃん飴 売って」
「よっしゃ」とあめをうってくれました
よろこびながら
そのあめをたべようとしたら
くろいものがついている

くろいものは灰でした
もしか水ばくの灰とちがうのかしら
ひやひやしてもう一度あめをみつめると
あめがばくだんに化けました
ばくだんこわい
こわい夢はいやでした

—15歳—
【春の息吹き】
春だ
何とやわらかい風だろう
甘い花の香をのせて
私の鼻をひきつける
何もかも丸くなった
木の花も空も雲も空気までも
それが私を歌の世界に引っぱって行く
踊りの輪の中へ行こうとさそう

【鏡の中の顔】
丸い大きな顔
まゆがこく 低い鼻
むつかしい顔
これが私の顔
どうしてこんな顔に生まれてきたのかしら
あーあ
じっと見つめる
  どこかいい所がないのかと
気まざらしに思う
「でもこの顔 世界中のどこを探してないのだわ
ここにしか、たった一つしかない顔なんだ」と

—17歳—
【海へ行きたい】
海へ行きたい
行って胸の中のすべてを吐き出して
あの大きな波にさらってもらいたい
あの雄大ではてしない大海原の前で
一粒の砂のような私
いくら力をいれて立ってもふんばっても
波にはかなわない あの大海原の巨大な波には

【道】
皆が平らな道を歩いているようにみえるのに
私だけがうねうねと曲った坂道を
のろのろと遠まわりして歩んでいる
何がためにこの坂道を歩まねばならないのか
同じ道ばかりを歩いている
前にも進まずに気だけが前に進んでいる

【孤独感】
星をみつめるときはいつも
    一人ぼっち
横をむいても 誰もいない
冷たい雑草と白い石ころだけ

歌を歌うときも
    いつも一人ぼっち
誰もアルトを唄ってくれない
冷たい風が寂しく歌うだけ

レコードを聞く時
    いつも一人ぼっち
横をむいても 誰もいない
白い壁のつけ人形だけ

—18歳—
【唄いながら仕事すると】
唄いながら仕事すると
とっても楽しい
皿はどんどん美しくなり
水はざぶざぶ音たてる
ピカピカのお皿が棚に並べられ
白い光が目にしみる
ランランラン
唄いながら仕事しよう

—19歳—
【その町には】
その町には澄んだ河が流れていた
心の美しい人はその河畔へよくきた
そしてより美しく人間となって帰って行った
汚れた心の人はこなかった
そして清める事も知らず ますます汚れの中に踏み込んで行った

その中間の人は行きたいと思っているが
思い切って行けず苦しんだ
その河は清らかな輝きをたたえ ぎらぎら光りながら
いつまでも永遠に町の中を流れている
ただその流れが見える人と見えない人がいて
人間は対岸となって行くのだ

風の強い小寒い日だった
今朝方パリに行っている夢をみた
川の流れている町を私がすまして歩いていた。