原口統三(はらぐちとうぞう)1927〜1946
朝鮮京城生まれ。本籍鹿児島市。父統太郎の仕事のため中国東北部各地に転居。奉天一中、大連一中を経て一高文科丙類に入学。ランボーに熱中、人生を芸術とすることを夢想し、終戦前後の一高の寮で文才に富む詩人と目されて伝説的人物となった。純潔としての死を選び赤城山にて自殺未遂、逗子の海に入水自殺した。遺書『二十歳のエチュード』があり、1943年に書いて回覧雑誌に載せた「天外脱走」などの詩はその角川文庫版にある。
『二十歳のエチュード』原口統三(前田出版社/1948)
『死人覚え書』原口統三(ユリイカ/1948)
『二十歳のエチュード』原口統三(ユリイカ/1948)
【天外脱走】
日輪は遠く逃げゆく
有明けの天上ふかく
日輪は遠ざかりゆく
仰ぎ見よ暁闇の空
罪びとの涙もしるく
薄冥の雲間に凍り
日輪は遠く消えゆく
【海に眠る日】
海に溶け込む太陽だ ランボオ
かれは真昼の海に眠る。
茫洋たる音楽のみどりに触れあう はるかな
蜃気楼の奥深くかれは眠る
あふれる香髪(においがみ)のみだれ巻いて溺れるあたり
とおく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。
さうして はるばると潮の流れる耳もとちかく
かれは一つのなつかしい言葉きく
お兄さん! お兄さん! お兄さん……
ああ こんな恍惚の夢のような日は
どこの海辺で待っているのか
Etudes Ⅰ より
告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、
僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。
傷のないところに痛みはない。僕にとって、認識するとは、生身を抉ること
であり、血を流すことであった。そして、今、僕の誠実さの切尖が最後の
心臓に擬せられたからとて、僕は躊躇うだろうか。
僕に、自意識がついには無意識を装いうるということまで到達しなければ
ならなかった。けれども、それは外見の上のことだった。僕はそれを内心の
表象の世界にまで推し進めねばならぬ、と考えた。
つまり、すべての表現――われわれの中に存在し、外に存在する、image―
言語・論理・数学に対して、苛酷になることであった。
*
何故なら、「明晳さ」、は僕においては「潔癖さ」の度合いによるものだ。
そして、僕の純潔とは、潔癖な自意識を最も忠実な使者とする、「精神の肉
体」と名づけられるものへの形容詞であった。
二種類の孤独について。
窓の内側に住む孤独と、窓の外側に立つ孤独と。
むかし、僕の幼い魂は、終日、窓ガラスに頬を寄せて蒼空を眺め、未知の天
地に恋い焦がれていた。
そして、自分を孤独だと歎いたものだ。僕の詩人は、すでにこの時に生誕して
いたのだ。
けれども、僕に帰ってゆく家がなくなってから、僕は行きずりの家々の窓の中に
かつての「空想児」の姿を見つけては、彼らの平和な一日を祝福して歩くように
なった。
そして僕は、これこそほんとうの孤独だと、思った。
*
窓のある所に孤独がある。今日、僕は己を孤独だと言うまい。
僕はもう「見る者」ではなくなったのだ――窓を捨ててしまったから。
ところで、これこそ真の孤独ではないだろうか。
僕はやがて死ぬ男だ。
真の詩人は詩論を書かぬものであり、真の信者は信仰を説明しないものである。
*
哲学者は真理を語りはしない。彼は作品を書くだけだ。
*
日本の自称哲学者たちは哲学は文章の外にあると思っている。
言語学と文法とを勉強しないで哲学ができるわけがない。
*
沈黙を信じない人は、スタイルだけを信じればいい。
*
表現とは、所詮自己を許容する量の大小のあらわれにすぎない。
それは、正確に対して忠実・厳密でない、ということだ。
右の考えから、次の「悪魔への試論」へ。
人間は、自己の真情を吐露しようと欲することにおいて、罰せられている。
静かに独り、夕暮れの枕べに祈りを捧げている少女の姿を、僕は美しいと思う。
けれども、僕の心は、すでに、現代では一匹の野獣でさえ、信あつき少女の仮
面を装いうるということを知っている。
*
君たちは、信仰を持たないと公言して誇らしい顔をするが、それは少しも自慢す
べきことではない。
僕は信仰を尊敬する。何故なら、信仰はお喋りをしないからだ。
僕は黙っている海が好きだ。波の穏やかな日の海が好きだ。
けれども僕が、語らない海を愛するのは、それがすばらしい語り手であることを
知っているからだ。
静かな忍従の衣の下にやすらう黎明の海上にも、きっと、あの壮絶な暴風の夜
半が、怒号の夕べが、泡立つ正午が約束されているからだ。
だが、これは悲しいことではないのか。この約束なしにわれわれは海を愛せるで
あろうか。人は海べに来て、はるか青一色の沖合に砕ける幾つかの白い波頭を
認めなければ、最後の微風も死に絶えた大気の中に、かすかなざわめきを聴き
とらなければ、衰えた秋の陽を浴びて、じっと動かない灰色の砂丘の上に、無残な
嵐の一夜の傷痕を踏まなければ、恐らく退屈に耐えずして踵を返すだろう。
Etudes Ⅱ より
唯物論信者に。――まず、諸君の人生を、一個の物資として料理して見ることだ。
*
ボルシェヴィズムの神は、自らの手足を食う章魚(たこ)である。
*
プロレタリアートは太陽を地上にひきずり下ろそうとする。彼らは地球との無理
心中を夢みている。恋人こそいい迷惑だ。
太陽を欲するなら、太陽に行きたまえ。
*
神話への詰問。――何故に、日本人が、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、
西洋人がナルシスを先祖の一人に加えねばならぬのか。
*
アメリカは、新大陸に神話を創り出そうともがき、ロシアは、旧大陸の神話を亡
ぼそうともがき、地中海は、自分の神話をもてあまし、東洋は西洋の神話に媚
を売り、西洋は東洋の神話を手にとって当惑する。
Etudes Ⅲ より
言葉を捨てた僕が今、失った言葉を思い出そうと努力する。むだだ。所詮は
詩人以下の感傷だ。
*
ああ、少年の日。――僕は机に向かっていた。書物の中に没頭して、何も
かも忘れながら。――その時、お母さんが、僕の肩に手を置いたのだ。
「もう夕御飯ですよ」って。
*
少年の日。――今の僕より、どれだけ勇ましかったことか。
十七歳の詩
俺が涙が出ないから
お前を一つひっぱたいて
お前の落とす涙に酔おうと
そう思って俺は――
十八歳の詩
・・・・・・・・・・・・・・
ひとり怒りに耐え
かの遠き秋をゆかむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*
詩人たちよ。記憶を捕える方法を知りたいのか。では、まず君の皮膚に傷を
つけることだ。感冒にかかって、絶えず寒気を覚えるようになることだ。
ほんの些細なことが、君を驚かせるだろう。木の葉の微かな戦ぎが、書物の
ページのふと落ちる音が、通りすがりの垣根で嗅いだ名も知らぬ花の匂いが、
君の呼吸をとめてしまうだろう。どんなにわずかな扉の隙間からでも夜風は
忍び込んで、君の傷口にしみわたるだろう。
思い出はどこにでもあり、夢はいかなる形にでもある。
僕は、紅茶一杯でどんな夢でも見ることができた。仲間から離れて鍵を下した
一部屋で――僕の周囲をとり巻いていたのは、数百の書物と、汚れた白壁だけ
であった――黙って茶碗のスプーンを動かしている――この単調な動作の中から、
僕の詩集が生まれたのだった。