中澤節子(なかざわせつこ)1930〜1947
1947年9月28日の京都版「朝日新聞」に”哲学少女の死”として服毒自殺を伝えられた1少女があった。17歳にして自らこの世を去った中沢節子である。節子は1930年宝塚で生まれ、1944年春、京都府立第二高等女学校に入学した。以来、降っても照っても一里半の道を自転車で東向日町の駅まで、そこからさらに電車と徒歩で半時間の道のりを二条城近くの学校まで、極めて勤勉に通学した。その限りにおいては、自殺するような少女とは誰にも見えなかったのであるが、実は感じやすい年頃の彼女の内部に凄まじい嵐が吹き荒れていたのだった。死後発見された15冊のノートや折にふれて書きためられた作文によってそれが明らかとなったとき、終戦前後のあわただしい世に生きた純真な魂の叫びを活字にして残すべく、彼女が属した少年少女の団体「希望の集い」の手で遺稿集『花ちりぬ』が編まれた。(「夭折の天才群像」より)
『花ちりぬ 十七才少女の遺稿』中澤節子(新生社/1949)
【眞晝】
カーテンの すそ なびく風
白薔薇の 花散らす風
蝉の聲 なみうつごとく
日ざしはげしき野のみちに
夢のごと 人來り去る
しづかなる 初夏の眞晝間
行く雲に 思ひはてなし
【敗北の少女】
美しき夢は破れて
運命の戦に敗北せる少女は
ただ一人歩み行く
さんさんと照る光の下に
こつこつと小石をけりながら
彼女は泣きぬれた靑い瞳をあげて
空を仰いだ
しみいるやうなコバルトの空は
やさしい笑みを堪へて呼びかけてゐた
明るく 強く生きよ! と………
彼女は立止つて何か考へた
そして涙をふいた
前と違つた足どりで 門をくぐつて行つた
その靑く澄んだ眼には
何かきつとした鋭い光が見えた
空には白雲が一片
ふわふわと流れて行つた
彼女を見守つてゐるかのやうに
森閑とした午後のひととき………
【生きんぞと思ふ】
一
汗を流して働く人は
勞働と休息とをくり返しくり返し生涯を終る
地位と名譽を追ふ人は
焦燥と満足とをくり返しくり返し生涯を終る
眞理を求めて學ぶ人は
どこまで續くかわからない道の途中ですべて倒れて生涯を終る。
富も名譽も學問もなんとはかなき
かげらふの如く消え去り
死の後は無限の空白。
されど
我れ生きんぞと思ふ
我れとわが命をたつ勇氣なければ……
生きんぞと思ふ
明るく美しく生きんぞと思ふ。
二
我が持ち生れし性質(さが)こそ
世にもみにくきものの一つなり
怒り、憎しみ、しつと、さげすみ――
世のあらゆるみにくきもの我が血を流る。
我が持ち生まれし性質こそ
世にもあはれなるものの一つなり
時にして狂へる如し、波は高まり
また時にして空虚の心たへがたく
身を滅さんと思ふ。
我が持ち生まれし性質こそ
世にも不思議なるものの一つなり
同情の涙一時にかはきて
ただちに憎しみのまなざしに變ることあり。
みづからを
頼めず、解し得ず…
暗中を行く如き迷ひ我れを悩ます。
されど
我れ生きんぞと思ふ
強き心もてみづからを見んとぞ思ふ
かく思ふも我が性質の迷ひやすき故にしあれば…。
三
葉かげに小さな柿の實が
その場でぐんぐん大きくなつて行くやうだ
綠の大地のにほひのする生育力
生命の躍動!
なかばくづれた壁に靑い蔦が
おお、どこまで伸びて行つてるのだらう
うすべにの莖に、草いろの葉に漲る生育力
生命の躍動!
我もまた生きんぞと思ふ
生くる日の限りまで伸びんぞと思ふ
すべてのもの
生きんとし、伸びんとするなれば。
懐疑の心持つ體にもひそむ生活力
生命の躍動!
【來ぬひと】
靑白い月の光
露
夜の嵐
こほろぎが鳴いてゐる
私は思ひ出した
來ぬ人とあきらめながら なほ待つてゐる時の氣持を……。