千野敏子(ちのとしこ)1924〜1946
1924年3月、長野県上諏訪に父千野俊次・母のぶの次女として生まれる。1942年4月、富士見国民学校の教師となる。1946年5月、過労と衰弱のため教壇で倒れる。1946年8月、腸閉塞を起し逝去。
『葦折れぬ―一女学生の手記』千野敏子(大月書店/1949)
『葦折れぬ―真実ノート』千野敏子(大月書店/1955)
『葦折れぬ―千野敏子真実ノート』千野敏子(童心社/1973)
『葦折れぬ一女学生の手記』千野敏子(郷土出版社/2000)
【真実の序】
真実
真実
真実というただ一つのことをおいて
どうしてこの世を生きてゆく道があろうか。
虚偽の世界に住み
そしてその世界より一歩も出ずして
虚偽のうちに死んでゆく者の哀れさ
真実に生きよう。
つねに真実に生きよう。
【真実】
今の自分に思想などあるものか。
それは経験より生まれ出づるもの
数々の激しい苦闘
それを闘い抜いて初めて生まれるもの
今の自分はこの世に初めて生まれてきたときの、そのまま
苦闘の経験も何も持たない
ほんの何もない、幸福に浸り切った一人の少女
この自分に思想などあるものか。
やがて思想の生まれてくるときまで
そうだ、いつの日か自分は思想を生む
いや、生まねばならない。
数々の激しい苦闘の後の
輝ける玉の如き思想を
自分は生まねばならない。
やがてその思想を生み出すときまで
自分はつつましく、ひそやかに
文も書き、詩も書いていこう。
世の怒涛に向かって敢然と大声で叫ぶ
それは数々の激しい苦闘の後
誰にも恥じぬ玉のごとき思想の生まれたとき
そのときまで、自分はつつましく、ひそやかに
地球の一隅にじっと座って身の回りのものを眺めながら何でもしていこう。
激しい苦闘の経験の後の玉のごとき思想を
今持っていなくとも
私は誰にも恥じない唯一つの信念を持っている。
真実。
そうだ、これを誰に恥じよう。
真実に生きよう、
常に真実に生きよう。
決して自己を欺くことなしに。
真実という唯一のことなくて
どうしてこの世を生きてゆかれようか。
真実に生きよう。
やがて輝ける玉のごとき思想を生み出すときまで
―――そしてその思想を生むに到るまでの
数々の激しい苦闘も
常に信実をもって闘い抜くのだ―――
そのときまで、真実に地球の一隅にじっと座って
何でもしていこう。
真実に生きるもののみが、最後の精神の勝利者となることを信じつつ
ひそやかに
真実に生きよう
つねに真実に生きよう。
【音】
音がする
遠い空のほうで。
何の音だろうか。
それは木枯しが吹きすさぶような音
山の木の葉のおののきふるうような音
しかし山の木の葉はそよとも動かない。
それは時雨の通りすぎてゆくような音
板屋根の水しぶきにけぶるような音
しかし屋根の板は乾いてそりかえっている。
夕ぐれの灰色の静けさの中に
山の木の葉は身じろぎもせず灰色に暮れてゆく。
屋根の板も一日のほこりを吸いこんだまま灰色に暮れてゆく。
しかし遠い空のほうでは音がする
空には木枯しが荒れくるっているのであろうか。
時雨が激しく降りそそいでいるのであろうか。
音がする
遠い空のほうで。
虚無の音――
【火星】
雄哮び!
修羅場!
血!
血!
聞こえる!
見える!
地上くまなく
今まさにわがもの。
海の底、
山の頂、
片田舎の茶小屋の内にまで、
闘いの雄哮びはみちみちている。
金星(ビーナス)よ
月(ダイアナ)よ
今地上には
おまえたちの影の入りこむ隙もない。
木星(ジュピター)
太陽(アポロ)さえも
地上に映るその影のうすさ。
ただわが光のみ
地の果てまでも
赤々と燃やしつくしている。
聞け!
見よ!
すさまじくこだまする雄哮びを。
流れあふるる血潮を。
おお
わが世!
わが世!
ああ呪いの星火星(マース)の
誇らかな毒々しいつぶやき
快心の笑みをもらしつつ
今火星は
山の木の梢をはなれて
中天に浮かびあがった。
何という毒々しい色!
この世の中にこれほど紅い色があったのだろうか
数多くの可憐な星々は
おまえの毒気に恐れをなして
青白くわなないている。
ああ、あそこにも一つ
フォーマルハウトの
空の片隅に消えいりそうな――。
火星
この哀れな星々の中を
灼熱した火の玉のように
おまえは突走ろうとするのか。
おお山の木の梢の上に
今、
火星の呪わしい姿は浮かびあがった。
けれど地上の生きとし生けるものは
激しい昼間の闘いに疲れはてて
おまえの姿を仰ぎ見るとてもない。
しかしおまえはそれが満足のようだ
硝煙けぶる冷たい草の上に
露営の夢をむさぼる兵士の顔は
おまえの光を浴びて赤々とものすごい。
ああ、しかし万象寝静まるとき
ただ一人空を仰いで
おまえの姿に溜息(といき)吐(つ)くものあるを
おまえは知っているのか。
あさましい闘いの渦に巻きこまれて
おのれが自由を失った若ものが、
心にもあらぬ夜業(よなべ)の後の僅かなひとときを
こころゆくばかり自由な「おのれが想像」を駈(は)せめぐらせてのち
ただ一人庭の芝生におりたって
空を仰ぎつつ
微かに洩らす溜息をおまえは知るか。――火星
「ああ、今宵も火星が山の木の梢をはなれた」
【高原(秋)】
友よ
あの松林の中へゆこう。
そして中の一本の松の木の根もとに
しばらく佇もうではないか。
私たちは青空の下の
高原の秋を歩き疲れた。
高原の空は低い
私たちは大地を踏台にして
その空にむかってすっくと立っていた。
四囲につらなる山々の白嶺も
くっきりと青空に屹立していた。
空と山と私たちと――
そのほかはただ目の前にかぎりなくつづく傾斜のみであった。
高原の秋の、あまりにも美しい空気にひたされて
私たちの心の真実さえも危うく抜け出してしまいそうだ。
ああこの薄暗い林の中でも
立ち並ぶ木の幹のあいだから
空の青さはかいま見える。
しばらくここの松の根もとに佇んで
偉大なる山々の峰から享けた
高鳴る感情をしずめようではないか。
ああ、私たちは何だかばかばかしい夢を見ていたような気がする
そして今ふとその夢がさめたような――。
ありとあらゆるものが
闘いの渦と雄叫びに巻きこまれているこの世の中に
こんなにも美しい平和の郷が存在していたことを
私たちはきょうはじめて見出したね。
友よ
あれ、松の梢は高原の秋風に颯々と鳴っている
そして私たちは二人してその松の根もとに佇んでいる。
人間の力で巻き起こされた闘いの波紋が
いかに大きな力を持っていても
この高原の松の根もとにまで
押しよせてくることができるであろうか。
いや、けっして。
この松の根もとに佇んで
いつまでもいつまでもじっとしているならば
闘いもない
真実もない
すべては解決するのだ。
しかし友よ
それだからといって私たちは
この松の根もとにいつまでも佇んでいようとは思わない
この美しい大自然に抱かれて暮らそうとは思わない。
人間の世界には闘いの嵐が渦を巻いているのだ
そして私たちは若いのだ
さっき歩いてきた道辺には
十一月だというのにほのかな春の香がみちて
蒲公英さえもかすかに花を開いていたではないか。
友よ
私たちは闘いの渦の中に飛びこもう
捲きこまれるのではない
突っこむのだ
われとわが身を渦の中に投げ入れるのだ。
そしてときどきは
闘いに疲れた生命のやすらいを求めるために
この高原の偉大なる自然の懐を訪れてこよう
高原は喜んで私たちを迎えてくれるにちがいない。
そのうちには地上全体が
この高原のように平和の郷になるときがくるかも知れない
そのために私たちはこの高原を去る。
あれ、松の梢が烈しく風に揺れている
冬の先駆の木枯しか。
さあ、友よ
立ちあがろう
松林を出よう
高原を去ろう
そして手をとって
闘いの渦の中へ
飛びこもう。
【夜明け】
十六夜の月影は
西空の屋根の上で
疲れて、一面に漂っている。
オリオンが
必死にもがきながら
ずるずると傾いていく。
巨大な獣の断末魔のような重苦しい叫びが
月光に煙る空をどよもして
冷たい静寂(しじま)が震動する。
お聞き――
あれは冬の一夜を
大空に君臨したグレート・オリオンの
あえぎながらの最後の呻き。
だがやがて
オリオンの巨影が地平線の下にひきずりこまれたあとには
その最後の呻き声の余韻は
たくましい朝の雑音に変わっていくのだ。
ピシッ
どこかで大地が凍みわれる。
【シリウスに】
おお、輝く情熱よ
シリウスがあがってきた。
シリウス
私は今夜もおまえをみつめながら
私の胸に手を当ててみる。
そしておまえが
ほとばしる激情をおさえかねて
はげしくまたたくといっしょに
私の心もまた同じように脈動しているのを覚える。
ああ、今夜もまだ
私の情熱は失われていない。
【消失】
目の前の細い真直ぐな一本道の上を
ふと、私の真実がふらふらと私のからだから離れて
たちまち遠ざかってゆこうとする
道の果ての暗闇の中へ今にも消え失せそうだ。
私の両手はバタバタと空にもがいている
だがその動きの中に
真実への情熱は失われているではないか。
私は頭痛がしている
そのために意識さえも私から抜け出しそうだ。
【煙】
教室の机にむかっていて
ふと生きていくのがいやになる。
窓ごしの屋上の煙突から
狂ったようなストーブの煙が
乾いた青空にむかって
力のかぎり騰(あが)っていく。
――
何かしら熱い炎が
心の底に燃えはじめて
やがて煙とともに
躍りつつ青空へ昇っていった。
教室の机に向っていて
窓ごしに私の頬が輝いた。
【沈みゆく白鳥座】
大いなる白鳥沈む
漂える朦気の中
北十字(ノーザンクロス)地平に立つ。
オリオンの豪華はなけれど
シリウスの激情はなけれど
はたまたスコルピオの
怪しき魅惑はなけれど。
ささやかに
かすかに
ただ一つなる
清らけきまことの翼もて
めぐりこし、秋のいくよさ。
北十字
今年の秋も無事なりき
汝がまことの翼のもと
我もまたまことの道を歩みきたりき。
どよめきつ
ひしめきつ
見よ木の間より
オリオンのぼりきたれり。
されど
沈みゆく白鳥羽搏かず
十字の頂
銀(しろがね)の光あり。
ひそやかに
音もなく
北十字沈みゆく。
【高原(冬)】
高原――
ふたたび
私たちは立っている
空に伸びて
あの秋――
私ははじめて訪れた高原から
無限の情熱をうけて
胸ふるわしつつ下界へ降りたが、
ふたたび訪れた雪の高原は
あらゆるものを白い雪に解かして
私の体内から吸いとってゆく。
狂おしく
私たちは松の幹を揺り
雪を浴び
そしてまた
雪の大地に
身を投げて
口づけて
あるかぎりの
雪を喰む
温かい胃壁に触れて
こころよく雪は解ける。
解けて解けて
沁みこんで
私の指先までがすきとおる。
雪に身を埋めたまま
空仰げば
あれ、高原は黄昏れてきた。
緑の空
茜雲
紫の峰
灰色の雪
煙る渓あい
音もなく
迫りくる夕闇。
ああ友よ
黄昏れる高原は
私たちを誘惑する
このまま夜を徹して
高原の懐に凍死したなら
私たちは一点の汚れも知らない
清らかな一生を終わることができるであろう。
だが私達を待っている――
夜汽車の窓の赤い灯が。
ゆくのだ
雪に拭われた心もて
ふたたび私たちは去る
黄昏の雪の高原。
【聖日】
――巣立つ日に――
師の君よ
見たまいしか
ああ、この聖なる日
一滴の涙わが頬を濡らしぬ。
たえてひさしき、こは何の波だぞ
ただ浄き
ただ美しき
過去と現在と未来との三叉路に立ちて
己が身の幸讃うる真珠の涙
わが頬に涙ひかるとき
わがこころかぎりなく幸なるなり。
五つ年を生ききたるわが姿讃えつつ
同じように瞳濡れる友と
腕結び、懐かしの門出ずれば
きよき日はいまし暮れゆき
清浄の学舎
丘上ほのかに浮かぶ。
学舎よ
さらば
美しき級友たちよ
幸くあれ。
師の君よ
とこしえに
健やかにませ
健やかにませ。
【母校をたずねて】
師の君は
やさしかりき
ありがたかりき
わが友は
おおしかりき
うつくしかりき
――むかしのままに
われは
高原にありて
さいわいなり
【友におくる】
――高原より――
ああ、わが友よ
おんみらは真白き珠のごとくに美し
薄暗き闇の中に必死に光明(ひかり)求むる
おんみらが姿かぎりなく尊し
われ高原よりたずねきて
おんみらのいとおしさに
懐かしさにまたうれしさに
溢るる涙とどめあえず。
われは高原の懷に優しく抱かれてあれど
高原また北風の烈しからずや
苦悩と悲哀とは何処(いずこ)にもあり
されど苦悩と悲哀あるところ
のぞみの火輝くまことの道の
必ずあるは知りたまうらん。
希望の春を欺きて
おんみらがもとを去りたまいしかの師の君も
おんみらを見捨てたまうこと
とこしえにあるまじ。
友よ強く生きん
生き抜かん
真白き珠のごとき心もて
まことの道をつき進まん
ああわれ春の高原に独り立ちて祈る
美しきわが友よ
健やかにあれ
幸くあれ。
【幸福者】
毎日
毎日
彼は縁側に立って
とめどもない青空をながめて待っている。
手紙がこないかなぁ――。
誰からとあてもないが
彼は毎日手紙を待っている。
この世での最上の解決は
自殺であると彼は信じているが、
はげしいこの世への愛着のために
彼は自殺することができないし
また最上の解決を必要とするほど
彼は不幸でもない
縁先の梅の花は散りつくして
黄色に若葉がだいぶ伸びてきたが
彼のところへは一通の手紙もこない。
けれども彼は毎日待っている。
手紙がこないかなぁ――。
【高原(春)】
高原よ
高原よ
高原よ
おお
春の息吹とともに
私は独り高原の懐に飛びこんできた
そして朝のひかりの中で
声をかぎりに叫んでいる
高原よ
高原よ
あの秋の日
また冬のたそがれ
誰が思ったであろう
私の生命の闘いの場所が
この高原であると――。
春――夏――秋――冬
おお
高原よ
【高原の孤独】
ただ独りだ――
そう思ったとき
私はほんとうの私の力が
私の内にあるを感じた。
そうして思いきり
高原に背伸びして
山の峰をみつめる
(昨夜あの赤い灯の街に友をたずねて
つい何も言わずに帰ってきた思いがよみがえる)
私はさびしさに涙している
孤独の力はさびしい力だ
さびしいが強い強い力だ
いつわりのないほんとうの力だ。
あの夕映える山の嶺には
二人、三人は立てないにちがいない
峰はそれほど狭くて険しいにちがいない
それはただ独り、さびしく強くゆくところにちがいない。
そうだ、私も
あの山の嶺、山の嶺
ただ独り、さびしく、強く――。
高々と
沈む陽に手をさしのべて――
ああ
私は高原にただ独りだ。
【夜の高原】
おお、夜は高原の生命か
高原は夜の霊の棲家か
今宵、高原は黒々と月光の底に沈み
大地、悩ましき夜の跳梁に息ひそめつ
我はあやしき月の光に魂犯され
青き一個の石と化して立つ
殷々と嫋々と
夜響の聞こゆ