田畑あきら子(たばたあきらこ)1940〜1969
1940年12月14日、父 田畑譲良、母 シゲの二女として、西蒲原郡巻町に生まれる。
1945年、父、ビルマで戦死。
1947年、西蒲原郡巻町立巻小学校に入学。
1953年、西蒲原郡巻町立巻中学校に入学。在学中より詩作をはじめる。(以後、死の間近まで断続的に書き続けた。)読書家であり、運動にもすぐれた生徒であった。
1956年、新潟県立巻高等学校に入学。美術クラブで丸山清六の指導を受ける。
1959年、武蔵野美術大学洋画科に入学。セザンヌ、マルセル・デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、などに興味をもつ。また喫茶店等でバッハ、モーツアルト、モダンジャズに聴きびたる。対象の形を描写的になぞることから次第に離れ、描く作業と消す作業が拮抗するようになる。
1963年、武蔵野美術大学洋画科卒業。
1965年4月、武蔵野美術大学図書館に司書として勤める。国立でグループ展。切り抜きの赤いハートをつけた黒いドレスのオブジェなどを出品した。椿近代画廊でグループ展。
1967年3月、母の病状悪化のため、休職し、姉とともに看病にあたる。7月、母死去。9月、復職。憑かれたように制作に取りくむ。
1968年4月1日~13日、東京銀座のサトウ画廊で、最初で最後となった個展を開く。
1969年3月、胃癌の末期で余命3ケ月と診断される。8月27日、同病院で死去。享年28歳。
彼女の周囲にはいつも吉増剛造氏や渡辺隆次氏などの詩人や画家たちが集まっていたようで、遺稿集の末尾にその人たちが、思い思いに追悼や回想の文章を書いている。
『田畑あきら子遺稿集』田畑あきら子(安倍良子/1970)
『白い雲の中へ―田畑あきら子詩画集』田畑あきら子(新潟日報事業社/1997)
少しの時間のために
少しの闇のために
少しの欲望の死線を引くための
少しの力のために
意味のない言葉のために 少し
滞って 命をせかせて
手を押して 少しの間
やがて 重たく 横たわるために
雫の数滴は花開く
長い音と 短い音が
聞えてくる谷間の見た水の
二つの水の現れ
決して伝えられぬこと
天の下で
ココハ 吉祥寺ノ ファンキーデス
大変久シ振りに来マシタ
不思議ナコトハ サウンドノ中デハ
自分ガ モノ ミタイニナルノデハナク・・・・
タダモウ 日常ガ遠ノイテ 見エマセン
ナニモカモ ワカンナイ ト言ウノハ
嘘デアッテ ト 言ウコトガ 解リマス
コレガワタシノ オボロ線 デアッテ
オボロニ変身スルコト ト 絵ヲ
創ラナケレバナラナイコトノ関係
ガ スナワチ 現実ガ現実ヲ見失ウ
コトナノデショウ ソノヨウニ解ルト
言ウコトハ ソノヨウニ 生キテイル・・・・?
ト言ウコトナノダトスルト ソコヲモット
ゲンミツニ シテイクコトガいい
ト言ッテモ ワタシニハ 出来ナイコトデス