左川ちか(さがわちか)1936〜1936
北海道余市町生まれ。本名川崎愛。川崎昇の妹。小樽高女卒。上京後、1930年頃から百田宗治編集の「椎の木」、北園克衛編集の「マダム・ブランシュ」、春山行夫編集の「詩と詩論」などに作品を発表。当時のモダニズムの代表的な女性詩人だが生来病弱だったためか、作品にはとぎすまされた神経が張りめぐらされ死の影がのぞいている。没後、「椎の木」が「佐川ちか追悼号」を出した。
『左川ちか詩集』左川ちか(昭森社/1956)
『左川ちか全詩集』左川ちか(森開社/1983)
【緑】
朝のバルコンから波のやうにおしよせ
そこらぢゆうあふれてしまふ
私は山のみちで溺れさうになり
息がつまつていく度もまへのめりになるのを支へる
視力のなかの街は夢がまはるやうに開いたり閉ぢたりする
それらをめぐつて彼らはおそろしい勢で崩れかかる
私は人に捨てられた
【白く】
芝生のうへを焔のやうにゆれ
アミシストの釦がきらめき
あなたはゆつくりと降りてくる
山鳩は失つた声に耳を傾ける。
梢をすぎる日ざしのあみ目。
緑のテラスと乾いた花弁。
私は時計をまくことをおもいだす。
【他の一つのもの】
アスパラガスの茂みが
午後のよごれた太陽の中へ飛びこむ
硝子で切りとられる茎
青い血が窓を流れる
その向ふ側で
ゼンマイのほぐれる音がする
【昆虫】
昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物をなめつくした。
美麗な衣裳を裏返して、都会の夜は女のやうに眠つた。
私はいま殻を乾す。
鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。
顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。
夜は、盗まれた表情を自由に廻転さす痣のある女を有頂天にする。
【朝のパン】
朝、私は窓から逃走する幾人もの友等を見る。
緑色の虫の誘惑。果樹園では靴下をぬがされた女が殺される。
朝は果樹園のうしろからシルクハットをかぶってついて来る。
緑色に印刷した新聞紙をかかへて。
つひに私も丘を降りなければならない。
街のカフエは美しい硝子の球体で麦色の液の中に男等の一群が
溺死してゐる。
彼等の衣服が液の中にひろがる。
モノクルのマダムは最後は麺包を引きむしつて投げつける。
【死の髯】
料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突きあたる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば
私らは奇蹟の上で跳びあがる。
死は私の殻を脱ぐ。
【幻の家】
料理人が青空を握る。四本の指あとがついて、次第に鶏が血をながす。
ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる空の看守。
日光が駆け出すのを見る。
たれも住んでいないからつぽの白い家。
人々の長い夢はこの家のまはりを幾重にもとりまいては
花弁のやうに衰へてゐた。
死が徐(おもむ)ろに私の指にすがりつく。夜の殻を一枚づつとつてゐる。
この家は遠い世界の遠い思ひ出へと華麗な道が続いてゐる。
【海泡石】
斑点のある空気がおもくなり、ventilator が空へ葉をふきあげる。
海上は吹雪だ。紙屑のやうに花葩(はなばな)をつみかさね、
焦点のないそれらの音楽を舗道に埋めるために。
乾いた雲が飾窓の向ふに貼りつけられる。
うなづいてゐる草に、lantern の影、それから深い眠りのうへに、
どこかで蝉がゼンマイをほぐしてゐる。
ひとかたまりの朽ちた空気は意味をとらへがたい叫びをのこしながらもういちど
帰りたいと思ふ古風な彼らの熱望、暗い夏の反響が梢の間をさまよひ、
遠い時刻が失はれ、かへつて私たちのうへに輝くやうにならうとは。
【Finale】
老人が背後で われた心臓と太陽を歌ふ
その反響はうすいエボナイトの壁につきあたつて
いつまでもをはることはないだろう
蜜蜂が(ゆたかな)薗香の花粉にうもれてゐた
夏はもう近くにはゐなかつた
森の奥で樹が倒される
衰へた時が最初は早く やがて緩やかに過ぎてゆく
おくれないやうにと
枯れた野原を褐色の足跡をのこし
全く地上の婚礼は終わつた
【青い馬】
馬は山をかけ下りて発狂した。その日から彼女は青い食物を食べる。
夏は女達の目や袖を青く染めると街の広場で楽しく廻転する。
テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は
貴婦人の頭髪の輪を落書きしてゐる。
悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。恋と悔恨とエナメルの靴を
忘れることが出来たら!
私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
海が天にあがる。
【錆びたナイフ】
青白い夕ぐれが窓をよぢのぼる。
ランプが女の首のやうに空から吊り下がる。
どす黒い空気が部屋を充たす――1枚の毛布を拡げてゐる。
書物とインキと錆びたナイフは私から少しづつ生命を奪ひ去るやうに
思はれる。
すべてのものが嘲笑してゐる時、
夜はすでに私の手の中にゐた。
【緑の焔】
私は最初に見る 賑やかに近づいて来る彼らを 緑の階段をいくつ
も降りて 其処を通つて あちらを向いて 狭いところに詰つてゐる
途中少しづつかたまつて山になり 動く時には麦の畑を光の波が畝
になつて続く 森林地帯は濃い水液が溢れてかきまぜることが出来
ない 髪の毛の短い落葉松 ていねいにペンキを塗る蝸牛 蜘蛛は
霧のやうに電線を張つてゐる 総ては緑から深い緑へと廻転してゐ
る 彼らは食卓の上の牛乳壜の中にゐる 顔をつぶして身を屈めて
映つてゐる 林檎のまはりを滑つてゐる 時々光線をさへぎる毎に
砕けるやうに見える 街路では太陽の環の影をくぐつて遊んでゐる
盲目の少女である。
私はあわてて窓を閉ぢる 危険は私まで来てゐる 外では火災が起
つてゐる 美しく燃えてゐる緑の焔は地球の外側をめぐりながら高く
拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてし
まふ
体重は私を離れ 忘却の穴の中へつれもどす ここでは人々は狂つ
てゐる 悲しむことも話しかけることも意味がない 眼は緑色に染まつ
てゐる 信じることが不確になり見ることは私をいらだたせる
私の後から目かくしをしてゐるのは誰か? 私を睡眠へ突き墜せ。
【眠つてゐる】
髪の毛をほぐすところの風が茂みの中を駈け降りる時焔となる。
彼女は不似合な金の環をもつてくる。
まはしながらまはしながら空中に放擲する。
凡ての物質的な障碍(しょうがい)、人は植物らがさうであるやうにそれを
全身で把握し征服し跳ねあがることを欲した。
併し寺院では鐘がならない。
なぜならば彼らは青い血脈をむきだしてゐた、背部は夜であつたから。
私はちよつとの間空の奥で庭園の枯れるのを見た。
葉からはなれる樹木、思ひ出がすてられる如く。あの茂みはすでにない。
日は長く、朽ちてゆく生命たちが真紅に凹地埋める。
それから秋が足元でたちあがる。
【The street fair】
舗道のうへに雲が倒れてゐる
白く馬があへぎまはつてゐる如く
夜が暗闇に向つて叫びわめきながら
時を殺害するためにやつて来る
光線をめつきしたマスクをつけ
窓から一列に並んでゐた
人々は夢のなかで呻き
眠りから更に深い眠りへと落ちてゆく
そこでは血の気の失せた幹が
疲れ果て絶望のやうに
高い空を支へてゐる
道もなく星もない空虚な街
私の思考はその金属製の
真黒い家を抜けだし
ピストンのかがやきや
燃え残つた騒音を奪ひ去り
低い海へ退却し
突きあたり打ちのめされる