草野民平

草野民平(くさのみんぺい)1899〜1916
兄民平は1899年に、福島県石城郡上小川村で生まれ、1916年、本郷区湯島の順天堂病院で結核性脊椎カリエスのために死んだ。満でいえば16歳11ヶ月の生涯だった。私たちのきょうだいは長女綾子、その4つ下が民平、その4つ下が心平、そのまた4つ下が京子、その3つ下が天平だった。今は私と京子以外はみんなこの世にいない。男の兄弟が3人とも詩を書いているというのは妙な血筋だ。ところで、ほぼ55年前に死んだ1人の少年の遺稿が今頃活字になって出版されようとは当の民平自身も想像できなかったろうし、私もまた考えてもみなかった。一ト月前のことである。(中略)その時ふと兄の作品のことが頭をかすめ、そうだ、あいつを活字にしたいと思いたったのである。1921年の2月、私は広州に着いた。17歳だった。その時持っていたトランクのなかに 民平のぎっしり書きこまれた遺稿のノート2冊入っていた。(中略)薄暗い窓際で読んだ民平の詩や短歌や小品文に 特にその詩に私は瞠目した。当時の私より年少だった兄の詩には理解できない変な詩があったが、その分らない作品が分りすぎる作品よりも私には魅力があった。民平の詩作品のなかの約10篇ほどは、大正3、4年頃の日本の詩界の作品群に比べても類似傾向のものはなく、言わば異端な新鮮さがある。まあ、ひどい早熟さだった。(『草野民平詩集』より/草野心平 )

『草野民平詩集』草野民平(青娥書房/1971)

【俺の説明】
のろま男
いぢけたのろま男
鉛の仮面、悪魔の首領
おもんみる
逃亡者の真実
午さがり
あれも恕すサ
これも赦すサ
いろ男
六百人の軍人の敵愾心
直立したる冷笑と
古今の金言
僧院長の大あくび
文体 肉の彫刻
俺といふもの!

【雪と狂熱】
しんしん醗酵する狂熱
しんしん降り積る雪
密まやかなる反響に
魂はしどろもどろ
恋は痛手か さなきか
さなきとしても
猶 願ふべし
この硝子窓
硝子窓の骨組打くだきて
そともの雪の冷感に触れむか
雪は清きものを積む

【鰻の暗き生】
とある大川のみな底に
苔ぬるまこき石だたみに
「泡の命」をなごやかに
ぬらぬら鰻
鰻はいと妊ごもりたり
謎の音よりもかすかに
神秘のひとみをみはる妊ごもれる鰻
何よりもひそやかにこそ
ぬらぬら鰻
気紛れか
事もなげに動き出す
生一本の汝が身のたけ
のこる水脈(みのも)も細く事もなく
その度々……
暗き生
妊ごもれる鰻は海へ下りゆくといふ

【聖童淫心】
鼻は陶器
瞳は羅盤
かくて八面玲瓏たる聖童
蝕知せる淫心
たはむるる陽炎を追はむ
今生の
このここなうつけ者め

【夜中の風の響】
心の前に掠め去る灯火
打絶えうち続く
葉擦れ枝擦れのときめき
灯火は遠くゆらぎつつ
あはれ消えなむか細き声もて
暗闇にさぐる――
衆愚 今世
かくて、実もなき緘黙をむすべば
気流の如き淡きもの
淡きもの迫るけはひす
いつ知らず瞳まばたくに
過ぎゆく夜中の風の響
吾は瞳をまたとあけんとせずして
へだたりたる世を
夢みんことをねがへり

【らくしゆ】
むかしむかし
さるいみじきおとどの
をもひもよらざる不吉より
洛内のくまくまに
らくしゆ立てり
らくしゆはねつけの文学なり
らくしゆはひややかなる時世のトリモリタン

【伊香保にて】
朝霧こころよくあうれわたりぬ
冷気さやけき石ただみにこんこんと湧く湯は
かぐはしき淡香とゆとりとをみせて
うすものの底をちろろ流る
山のたたずまひに湧く霧の
ひとしほきはまりもあらねば
われ模糊のうちに蹲くまるごとき君のおもほゆ
すずろなる朝ごこち
湯のやはみ肌にふるれば

【公園の樹立】
此処は公園の
泪にみちし池のさざなみ
みぎわにかたよれる瀞(とろ)みに
ひたひたひたと
夜の歓びもたらしきたる
樹立(こだち)の闇深きままに
みあぐる空のまこと青きかな
すぎ去りし夢を追ふにはあらねど
まことや空の群青よ
とざされたる悲しき闇のなか
うごき得ざる疲れたる人々
ベンチの闇に凭れたる人々
樹立をすかしてぞ
公園のどよめききこゆ

【慊らぬ心】
俺は俺がもがいて足蹴にする床へ
ずるずると引つ張り戻らせられるんだ
それは奇しき悪縁だ
いくら騒いだつて追付かない
貧弱な頭と消衰の足がある
然し俺の哀しみは貧弱や消衰の哀しみか
無理に乗せられた俺の身体が
布団の上で地震を聞いてゐる
どうも俺には地震だけでないある強い動揺を感じた
世の何事をも忘れ了つた心が
放心の環となつた
一方にはそれに対してスペクテーターが出来た
又あき足らぬ心があつた
俺は三つの内あきたらぬ心を抱いて寝るべきであつた

【小雨暗夜誦】
爛れたる感激を支え得ず
白金の針脳に触れ
眩めきつつ
眼も霞み
残るは虚穴の如き悔
吾と腑脱けし心の
慰まん術もなし
傍はら 刻々と
拗(ねじ)うねき寄生虫
はつと消ゆる幻像の前に
遥るかを懐(おも)ふ
遥るか故るきを懐へば
世の枷も遁(のが)るを得べし
かくて自ら拓きたる道を
一斉に走りつくさむ

【のちの少癒】
よそ事もなし――
苛なみつくし
枕に埋づみて吾あり
骨ばり節ばむものは捨てよ
一縷の希望のひらめくところは
ひろごれるびらうど
びらうどの舌触りよき柔かさ
瞬間のきはまりもなき不安より
或は打沈み或は昂ぶる吾が心
枕もしとどつれなきに
かるかへる瞳そと開きて
冷かしく四辺見はらさむかし

【残暑】
きんぽうげ ほたる草
あき風はあざやかに渡りゆく
ひくくみにくき石橋にただひとり
腰据えたり
砂川はそことしもなき音たてて
とほく忘れし自らをかなしむごとく
身をいそがして流れゆく
のこんの暑さに融けたる万衆
稲田にはかへる声をひそめ
またいなご飛ばず
眼をひるがへせば
心をかすめて一路涯なし
いきれし水のもをいといと静かに
水すまし水にゆるるも
吾が面の常なく嬉しきに
鏡なほ手を離れず
病ひ得て此処いくばくや
絶えざる思ひなやみの
病ひ疲れのいとしき吾が面
ひ疲れのいくばくの日や

【関節病者と昇降段】
うぐひす谷の昇降段
あひぎ来りて昇りけり
つつまじきひと足に
音もさむしろ鳴りにけり
ああげにや昇降段
吾があゆむその下は
秋の陽に線路ぞひかるなれ
青の花火もそこここに
吾が乗る電車は既になし
昇降段をくだりゆくに
音もさむしろ鳴りにけり

【離れの小庭】
小枝にかかりしは釣葱
あを苔は小灯籠の亀裂にまではびこり
八ツ手、赤い実のなる木、または木犀の老木
離れの小庭
離れにはものの匂ひもつひに渡りきたらず
陽はひるさがり僅かに照す
離れの小庭につきものは
吾が病む眼と
夏はひきがへる
冬は霜々にうら枯れしわくら葉

【急行車】
掠めゆく閃めきゆく
煙は一念いとすぢをひろげ
鶯谷 日暮里 田端
むらがり つきまとふ闇をかきわけて
いつさんに走る青森行急行車
煙は消え 煙は起る
煙は起り――急行車
げに都の夜の哀歓もよそに
わき眼もふらぬ急行車
煙のみ残して
まこと哀れなるものを残して
いまはた見えず、闇をゆく急行車

【毎夜なる太鼓】
しきりに哀れ催すは
毎夜なる寄席の太鼓
長屋の軒のひとつひとつに
早寝の夢おどろかせて
響くは哀れふかき太鼓
ひとりさむ空に立てられし旗ゆるぎもせず
病院帰りの若き居候が
かの太鼓に耳をすまして

【ある夜】
地上を歩みて広濶の道へ――
たかき樹肌に飛び散る暗に
にまじひに吾魂はながれゆく
蕭として山風ぞ吹く
マチすらば吾身あるとしもなき枯草も
ひろいの旅の吾ぞ
坂あらば闇の坂をゆく吾が背の荷も
眼に沁むるは
岩を裂きて溢るる水 また背の荷
彼方の月の出に
月をめがけて、われはゆく夢の旅