河田誠一(かわだせいいち)1911〜1934
昭和初期に「天才」と評されるほどの詩や小説を書きながら、24歳の若さで亡くなった。
香川県三豊市仁尾町中津賀出身の詩人・作家。小説も何篇か書き残しており、その「豊麗無比な感覚」の輝きに眼を見張った友人の田村泰次郎がその早すぎる死を惜しんで切々たる追悼文を寄せている。その「天才河田誠一を悼む」によると、その天賦の才をまさに花開かんとしたそのとき、当時不治の病とされていた結核に倒れ、昭和9年2月高松の仮寓でひっそりと世を去った。1940年9月30日に昭森社より『河田誠一詩集』が刊行されている。装幀は草野心平。田村泰次郎の「河田誠一の詩」と井上友一郎の「河田誠一と私」という跋文が付されている。文芸雑誌『櫻』に河田誠一追悼號」が掲載されている。出身地仁尾町に河田誠一資料関係を保存している。
『河田誠一詩集』河田誠一(昭森社/1940)
【春】
タンサンの泡だつだらう海峡の空は
つめたく暮れた。
なまあたたかいらぜの記憶は
かすんだ雨のなく音。
ボロボロの鳥。
わたしの抱いてねたあなたの肉體は春であつた。
【暗礁】
燈臺をいだき
まひる、海にいづむ人魚の妖艶なかなしみを思へ。
灯よ。
夜ごとむなそこにかんずる波のいのちに
戦火とほくひびく空間の耳に
春はおそろしき「無」を殺さむとす。
【化石】
いく日ぞ。
雨天のふかき朝夕をなげきゐて
陽光を見ずにながき一週をすごしつつ。
何物か、雨となりぬ。
【江戸菊】
かなしき四國の旅よりかへりて
赤きリボンもてかざれるカンカン帽をすてたり。
わが家の植込に弟の持ち來りし江戸菊をにくしみつ近づけば
晴れたる今日はかなしげにも美しくみゆ。
カラ梅雨の掌のよごれを洗はず
われらひとりなる夏を苦しみつ。
【ある希望】
昔、旅役者の淡い影法師を、山の路まで見つめてゐた
自分であつた。私は近くその一人として放浪のつめたさ
をつづける。
時は春。
東京はとほくなつた。鼠大の目をとぢた小猫が生れた。
あの人、あの友。みんな、忘れてゆく。
しづかな春よ。
胸の火はあかく、燃えさかる。
【遊心】
重々し。かくは明るくのどけき晴日に
わがあたま、重々し。
かなしき一年の都會の生活をすてて
我が家の少なき家族にさかる
君はすでに去りてかへらず。
海よ、山よ。
わかれし日の君が着物のみ、ふりかへらずゆきし君
のこころよ。
物云はで、母と過さむ數日の後、
かくて、ながきながき放浪に出でんとす。
【つめたき人に】
つめたき人よ
雪のごとくつめたき人よ。
われはそのごとき人を幻にいだきて
わが前にひざまづく肉を見つ。
あはれ、つめたき人にあらざりしいたみよ。
つめたく痛き心もてわれを射殺せざる心よ。
つめたき人よ
氷のごとくかたくつめたき人よ。
きたりてわれをなぐれ。
なぐらるるいたみにわれもしなかば
紙のごとき女はとほく去らむ。
【短唱】
眼に青葉
こころは雨に
うらぶれて
朝寝の夏の
どんぞこ時雨。
山に日がてる
青々と
すみ切つて
晴れたとてかなし
君のなき
重きこころのいく日つづく。
【オイ】
戶を開けろ。
オイ。
戶を開けろ。
そとは月夜の晴れた空だ。
なんにもうごいてゐないんだ。
オイ。
着物をぬいで出て見る。
そとはすばらしい死の世界だ。
オイ。
女はバカだぜ。裸で歩いてゐて自分でしらない。
オイ。
死んでくれろ。
外はすばらしい月夜だ。
【過ぎゆく日】
ひるごろ、 雲が流れ去つたよ
そして俺は顔を洗つた。
あいつのこゑももうとほくなつたやうだ。
俺の耳にきこえる一日の音響は
單調な船の艫ごゑだ。
裏の家で鶏の產卵がはじまつてゐる。
バカなことだ。
さうしていつがくればカラリと晴れたこころになれるのだ。
このまま一生がすぎてゆく?
それは耐へられないことだ。
それならば、俺はいまでも死んで見せる。
【雨天の】
はるばると歩みゆかむ哉
はるばると歩みゆかむ哉
忘れきし萬年筆を
君が農村の靜けき住居の疎林のあたり
雨天の
雨天の
雀のごとくおろかにも
ぬれて炎天のほこりのなかを。
花のなき一夏
都會の友のいかにあるらむ。
【残雪】
ある日
あはれなる女と子との色あせし寫眞を見出しぬ。
今日
あんず すものはひらく。
わが母を生みすてゆきし祖母はおおろかなる女なり。
かくていくたび嫁しゆきしことぞ。
孫二人 あはれなる戀をしたれば
春はくるしきものとなりたり。
ここに 残雪のごとき銳きいたみをいだきて
あいするものはかへらず。
夏ちかし
いまもなほあふひの花はさきたり。
ガラス戶の中にある田舎の町の寫眞よりもさびしきは
ほこりにまみれたるそれよりかなしきは
あはれなる女と子といたましき寫眞の
残雪のごときすさまじきかなしみなり。
【哭く】
自動車のなかで 夏のはじめの涼しいかぜにぬれ麥畑中の山道をゆられてゆく。
その朝 とある町んい自動車をててて歩みゆく家はとほく
陽光は淡い灼熱となつたよ。
わが家をはなれてなくなくあいつの家にたたずんだ俺。
ぼんやりとあいつは泪ぐんでゐたとこだつた。
ぼんやりと
さうだ。 いまもぼんやりと考へに沈んで居らう。
トミよ。
けふは一日中おまえのまぼろしを忘れようとして海で過した。
沖の島かげで釣つた魚がどんなに可憐であつたか。
夕ぐれに
俺たちは釣をやめて魚を放つた。
あとで 俺は悲しなつた。
母よ。 トミを呼びもどして下さい。
ぼくと母と弟との三人の家族
俺は どうしたらいいのでござらう母上。
あいつは父も母もないひとりぼつちだ。
あの可愛い女はぼくの朝夕のいのちだつたに。
今夜は蛙が啼かない。
月もない。
ぼんやりと あいつはまつくらの空を眺めてゐるだろう。