井亀あおい

井亀あおい(いがめあおい)1960〜1977
1960年2月10日、熊本市で生まれる。その後父親の転勤にともない、長崎市の各地を転々、1975年、高校へ入学、文芸部で活躍するも、登校を拒否して同年11月から休学、病院で治療を受ける。病名は思春期憂鬱症。翌春、通院治療を受けながら復学を果たしたときは健康を取り戻したかに見えたのだったが、17歳を迎えた頃から孤独感に苛まれ、文学部を退部して再び家に引きこもり、11月19日の午後、「図書館へ本を返しに行く」と言って出かけ、それまで言ったことも無い アパート8階から飛び降り自殺した。遺書は無く、所持品は小銭入れとハンカチ、モームの『女ごころ』1冊だけ、身元を明らかにするものは何もなかった。

『もと居た所』井亀あおい(葦書房/1978)
『アルゴノオト あおいの日記』井亀あおい(葦書房/1979)

【発狂】
誰か居ませんか
そこに 誰か 居ませんか
居たら返事をして下さいませんか
終始 言葉をかけてもらうことに慣れ
人の賛辞の真偽を判断出来る己ではないのに
有心の姿勢でほくそ笑み
目をあげよ。
そこには 何もなく。
下を見て 歩くことを強めよ
ひとの居ないことに思考のあかりをあてぬよう
だがしかし
誰か いませんか
誰か いらっしゃいませんか
こちらから言葉をかけることは出来ません
言葉の糸は己の鎧を引き落とす
誰か先に言葉をかけて下さいませんか
鎧をつけたまま
その鎧を引き落そうとするものから身をかわす
毎日
目をあげよ
そこのは何もなく
草木は茂る
沈黙の音
愚かなる自己よ 驚愕せるか
目をあげよ
今まで造りつづけてきたものは何なのか
期待するもの無き密林への道標
迷い込んだ事実を認めよ
自らの鎧を認めよ
その鎧を捨てることを惜しむ自身を認めよ
自らが造り出した林に向かうとき
圧死の危険を悟るこの緑。

【ラルゴのギャロップ】
現代的な
現代の中で
沈黙し
ひとを呼びさます
空間の
存在
嗚呼しかし
人為なのだ
表面の
幽玄にすぎず
われわれと
われわれの失望と
われわれの想像で
空間をまっとうせずに
滅する
懐古の
感性

【Ou est la sortie?】
砂のお菓子を
茶色になったぱらふぃん紙で包んで
少年はじっと待っていた
若々しい色のついていた大きな写真が
小さく丸い汚ない蝶になって
少年の眼をつかれさすのです。

やせてしまった並木のアスファルトの上を
開いたまま一夏しまいこんでいた
ぶ厚い本の先に進もうよする
学生達が歩く
お天道様のあかるさで
夏と夏がぴったりとはりついて
電灯のあたたかみでは溶けそうもなく
学生はいつのまにか
夏を踏みこえておりました。

詩人たちがたむろして
四行詩はいけないが三行詩ならよいと
最も躍動的に
汚い蝶を切り売りしています。
古ぼけた宝石箱から母親は
北国の凍てついた家とお星様を
取り出してやり
栗のはじける暖炉の前で溶かします。
長い長いおーろらのふさ飾りで
火の粉の動きは次第にゆるみます。

用のなくなった水先案内人は
白い雲の文様のついた風呂敷で
磁石をつつんで
はやばやと冬眠をはじめてしまった。

【感謝】
コンクリイトの色をした大聖堂で
罪深き彼女を救いたまえと
私のことを祈っている人間がいてくれて
私はそいつの首に手をまわす。

【芸術家へ】
窓を閉ぢよ
外界の音を遮断せよ、
無知なよびとの奸計におち入らぬように、
かれらの声に呼びさまされぬように、
書庫に錠をつけよ
鏡には布をかけよ
昔の世俗に心ひかれぬように。
それと知らずにひかれぬように。
ただ独り存在せよ
ただ独り前進せよ

戦いに身をゆだねよ
断崖に立て
ただ独り消化せよ。
ただ独り吸収せよ。

先人を尊敬するのはよい
しかし信仰するべきではない
先人の道をながめるのはよい
しかし たどるべきではない
ただ独り前進せよ
どこへ行くかを思いわずらうのではない
ただ独り前進せよ。

みのりをもとめてはいけない
みのりはあふれている
ただ独り前進せよ。

ただ独り存在せよ。
ただ独り前進せよ。

【十六歳といふ年代】
その日が来るまでに準備することがある
でもおおかた出来ずにその日が来た
今 ぼくらはそのことを少し嘆こう
だが ぼくらが今それに気がついたから まだ良かった
陽が昇っていったのをぼくらは気にとめていなかった
その日から陽が沈んでいく、その日になってやっと気にとめた
今、ぼくらはそのことわ少し嘆こう
でも 陽が昇るのを気にとめる人間は十五歳までの子供ではない
ぼくらは気がつかなかったことをたくさん思いついた
だから その日から そうであってはいけないのだ
何も出来なかった昔を懐古するのはもいいかげんでよそう
それを、ぼくら「知った」だから これから
こうして「そうではないように」進むのだ
ものごとのどれが必要で正しいかは分らない
でも ぼくら ものをまだ知らないぼくらにはどれもが必要だ
その中から 正しいものをひろい上げていく
「一般」という霧で陽の光を消してはいけない
夕陽というのは 最も強く、沈むにしたがって強くひかるものだ
日沈の事実をぼくらは受けとめよう
だが、ぼくらは強くひからねばならない。
ぼくら、その日に はっきりと知る。

【信仰】
今まで、
踏絵をさし出されても踏まず
ライオンに喰われても屈せず
なじられても説教を止めず
傷つけられても進むことを止めない
そういう強さだけを望んだけれど
ほんとうに強いのは
平凡な毎日にあって神からはなれない
そういう強さです
十字架にかけられるまで意志を守るのも大事ですが
何もない時にだまって意志を守るのはとても苦しい
十字架は痛いだけですみますが
精神を十字架につけるのは長い痛みです
だから、古代の羅馬でライオンに喰われたほうがよかった
とは思いますが
十字架につけられた精神をいつか解きはなす日が来る
そういう日を待って
私は毎日何事もなく暮します

【変化】
四角い空は雲で一杯だ
どちらを向いても同じに見える
ナイフをつき立てると色のない血がどうと流れ出そうな
しかし、昨日の雲とちがう
子供らは道に群れ出ている
何をするというのでなく群れている
雲一杯の空を見て笑っている
昨日まではプルシャン・ブルウをぶちまけてあった
今日の四角い空はバートン・アンバーがしみ出ている
三月というものの色がそこにある
皆が群れ出て笑っている
まだ寒い、まだ暗い
だが皆が群れ出て言っている
三月だ、

【どうしても、待つ】
子供が、絵本を見ていて
あかるいね。と言った。
母親は、ばれいしょの皮むきを止めて
六時にもなっているのにねえ、と笑った。

桜の芽が急に大きくなったようで
四月からは学校が始まるのに
新年度の決算があるのに
いいこと、というのがひとつもないのに
はやく咲くといい、と皆が見上げていく。

火事三件、死人が五人
強盗、人殺し
その隣に何があるかというと
桜前線の図があって
皆は帰り道に見た桜の木を思い出す。

今まで木なんて見もしなかったのに?
沈丁花のにおいで
子供は笑う。

【Le mur】
僕はそれをこわしたいのだし
こわしていまわないと生きられぬと思うが
それは厳として存在し
それがあるということがそれをこわせない理由だ
その中で僕はかなり努力して
それを外からるずしてくれる人をうけいれる準備をしたが
やっと準備が出来たとき
それがあまりに厳として存在するのに腰をぬかして
みんなどこかへ行っちまった
それというのもみんなそれのせい
それはあるからそれをこわせない
なにかもそれが在るのが大まちがい
僕はそれを背にして
銃の引き金をひきたいと望むのだ。

【青年の自殺】
死にひもを結びつけて
ずるずるとひきずって楽しんで
しまいには
皆さん 私は
死と一緒なのですぞ
と ヒゲをなでなで演説してみるような

私は死と一緒なのですぞ
と くりかえしくりかえし
他人をおどして
本当は捨てちまいたいとこの死と
計算高い取引をするような

いよいよもって死についていたひもを
自分にまきつけねばならない時に
だれかが この手から ひもを
はたきおとしてくれるといい、と思うような

今以上の、望んだものが得られないんだなら
誰が こいつと鼻つきあわせていられるかい

だれもとねてくれないときに
そいつが自分を嘲弄しているのが見えるのだ。

【青年の絶望】
或日彼は突然気がつく
そうして彼はどんどんほじくり出す
どこの引き出しもさかさにふり
どこのじゅうたんも裏にかえす
実にすばらしい早さですべてをほじくり出す
そして出てきたものは……
おそろしくて彼は死のうと考える

そんな引き出しがあることをなげいた賢人だとか
全部ほじくり出して冷笑しら賢人がいたが
そいつらは どっちも大人だった

おそろしくて彼は死のうと考える
自分は凡ての引き出しを探したと思い込んで
でもまだちゃんと一つ残っている、
死のうと考えているのを客観する引き出し。

持ちこたえなさい、必ず。
いつか残りのひとつが見つかるのだから。
そいつをあけたら全部おしまいだ。
そうすれば逃げ出さなくとも済む。
賢人なんてみんなそんなもの。
だから死ぬほどのことはない。

ただ困るのは。
引き出しをみんなあけたとたんに
そいつが見えなくなることだが……

【再会】
その日から今日までの淵が消え去り
その日の写真は現実となり
親しげに私の肩をたたく

その日、誰が
今日こうしていることを予想したろうか
だが 皆のうちで、今日は何の感動もなくくずれ去る
その日の写真と同じように

ああ、どうしてあなたを今日の日につなぎ得ようか
この写真! その日のあなたを私は知っている
そして今日 再度出会ったあなたを私は知っている
その間にあなたは確かに存在していた、けれど
どうしてあなたを今日の日につなぎ得ようか

思い出を、幾度も
糸を一本一本引き出すように
温和しく、
それは親しげに私の肩をたたく
ふりかえりたまえ、そこには何もないのだから、
その日と今日を結びつけるものは、
その日は、その場所から少しも動かずに はなれていく

巨大な淵よ、ここへ戻れ
淵が消えても、その日はその場所にあり、遠すぎる。
淵よ、この幻の手を私の肩から消し去れ。

今日 もまた
その日と同じように 遠くなる
あまりに痛い心を残して。

【こども】
地上の重さのない腕を
ふかぶかと
空へつきさして
いかにも軽げに
灰色の塊の中から
自分のいるものだけを
まわりのからさわぎに耳もかさず
しっかりと
つかみ出して
静かな眼でふりむく
だが、わたしが
その子の手からそれをとりあげると
湖は底から波立つのだ。

【駅で】
わずかの狂いもなく同じ線路のむこうから汽車は来て
にもつをあれこれとかかえた人間がこぼれて来る
足をとめることもなく 滝になって階段をくだり
行ったかと思うと反対がわからまたあたふたと汽車は戻ってくる
ぼうやりと足許の紙くずを見て座りこんでいる人も
ベルにたたかれて あたふたと立ちあがり汽車の来る方をみている
いくつもの汽車を見おくっているかと見えた自閉症の男も
汽車がおくれると放送されれば電話のダイヤルをあたふたとまわす

じっと座ったまま、いったい
ここに座ったままでいれば 待っていることになると
かんがえたものか
わたしはただ改札の方へ流れる滝をみて待っている

みんながみんな自分の這入る箱をもっていてそこへむかっているのだ
みんながみんな そのためにあんなにあたふたとしているのだ
わたしだけが自分の箱をこれから見つけようとじっと座ったままでいるのだ。