荒津寛子(あらつひろこ)1928〜1957
福岡市西中洲に生まれる。1934年2月(5歳のはじめ頃)に喘息がはじまる。1943年頃から詩作をはじめる。翌年、福岡市の鐘紡工場に挺身隊の一員として働く。1947年、婿養子縁組。1949年、長女出生。翌年頃から自ら働くことに意義を認めて行商に出る。1951年、有限会社荒津商事(金融業)代表取締役に就任。詩作と金融の矛盾に悩む。1954年、財団法人徳風会(育英事業)を設立し理事に就任。1950年より詩誌「椅子」に参加。その後「九州文学」「詩科」「九州詩人」などに詩を寄せる。 1957年3月、喘息の発作のため急逝。
『荒津寛子遺稿集』荒津寛子(荒津寛子遺稿集刊行会/1957年)
【紫陽花】
夜明けの
さめきらぬゆめのやうに
はつなつの空にちぢむ
淡い毬の群がりよ
そつと手に触れれば
やはらかな瞳のやうに
わたしの心にとける
うすいろのはなびら
何百年の昔から
木の実が熟れるこんな季節に
おまへは ふくよかな
沈黙のゆめをむすんできた
わたしは孤独です などとは
つぶやかない
もはや海のやうなおほらかな
孤独に生きてきたおまへだ
小石のやうなかたい運命を
いつか
紅のやうに美しく
空につないでしまつた
あぢさゐの花よ
ああ幼き日より
をみなごが持つ
思ひ出の おもひでの毬に似て
【魚】
純粋ではないのだらうか
青い藻も透けてみえる水底の魚族
おのがつめたき鱗の数を数へるといふ
つぶらな瞳が
たましひにひかつてゐるのです
風も通はない 海底に
あるときは
虚ろな火をたき
燃えきれない
ほのほの芯が
いつか目になつたのです
ああ
けれど
こんなむなしさが
きびしい孤独をむしばみ
凍てついた冬空に
ひとこひしい燐光をはなつとは
べうべうと
白き夜に
海は哭く
【衣裳】
なぜ美しいものが着たいのです
沼のやうな
この階段をのぼりながら
ふしぎに思ふのです
風が吹けば
どこからくるともわからない
風のやうな嗅覚に挑んで
黄や紫の踊りを舞ふのでせうか
紅白粉の匂ひが散れば
一せいに飛び立つ蝶々の群
産卵期のひとときまへの
狂ほしい白蟻の舞踏
をとめらよ
何かに追はれるやうに
なぜ美しいものが着たいのです
いつ のぼりつめるともわからない
階段を
よくみれば それは
ひとつの大きな輪なのですね
もう千年以上もこの階段を
のぼつてゐるのですが
をとめらよ
野に行かう
厚ぼつたい胸飾りを捨て
草笛を吹いて競はうよ
黒髪で
私らの歴史を縫ふため
そして
ゆめにきらめく
まなざしのため
【くらし】
あなたの背を撫でながら
あなたの痛いところが
私には わかるのです
ぼんやりと みひらいた眼が
ぢつと 空によどむとき
どこまでも落ちてゆきさうな虚ろさを
私も 感じるのです
なんでもない
あなたが 笑ふとき
私も 笑ひ
けれど
ふつと
こんな私を みつけるとき
水晶のやうな かなしみが
しぶきを散らし
遠いところに
あなたは座り
かはらない 黒い眼が
きらきらと
貝がらのやうにひかるのです
【女】
運命は
そこでは一つの円であつた
ひそかに逆ひの刃を研いでも
円周は切れず
強ひられた服従は
さびしい安座をつくり
安座はすでに錆つき
酸化してひどかつた
錆びてく
醜さを避ければ
口と目を残して溶けてゆく
雪人形であつた
そんなおまへを
くらい因襲が愛した
無能が 貪慾が 昏睡が
太陽のやうな無知が
愛はおもたいかげを背負ひ
白い燈芯のやうな自己を内に包んで
勁く
その円を
その家を
ふんぷんと己れの匂ひに染めながら
【空虚】
それは美しい肉体を持つてゐる
その爪は桜いろに尖つてゐる
古い傷のやうに
内部にかくれてゐる弱さをみつけては
ひつ掻き
あるときは 爪を隠して
私に向つてくる
ささやかな希望を 愛を
にくしみを
ふてぶてしく輝く
日日の具体性を
一息に呑んでしまふ
まなざしは 泡に似てゐる
私がそれをみつめるとき
私は知つてゐる
空虚はすぐ傍にしづかに息づき
そしらぬふりをして
私をみまもるのを
【ひとつの悔のために】
私は詫びなければならないだらうか
その空間に
踏みあらした私を
失はれたために
あざやかに浮びあがる空間
あなたと私のあひだに
まるでないかのやうに存在してゐなければ
ならないものよ
冬の薄陽が不意に翳げるやうに
みつめる瞳(め)が曇る
と
水のやうな孤独の均衡がくづれる
一瞬
しづかなひざしにみちた空間を蹴り
髪ふりみだし
駈け去つていつたものよ
呼びもどすことはできない
あなたの声をまさぐり
すがりながら
歩み去る私の足音を聞いてゐた
私とあなたのあひだには
ひざしにみちたあの空間があつた
まなざしが重なるとき
虚空に消え去る 空間のかがやきがあつた
孤独を慕ひ
孤独におびえる 私の肩と
あなたの腕のあひだに
あをあをと澄む空の一角があつた
私はみなければならない
むざんに私が踏みしいたものを
私は捨ててはならない
握りしめると指間から洩れおちる砂の
さらさらしたぬくみを
それに耐へることも
【未来】
来なかつたひと
濃くなつてゆく夕闇にも染まらず
白くのこされて
ふりかへり
歩みよれば
穴 水のかたちの
私はなにを待つてゐたりしたのだらう
なにゆゑに ひたむきに!
すべては逝つてしまふ
みんな過ぎ去つてゆくといふのに
はじめから私のなかには
穴があつたのではなからうか
私もゆかねばならぬ
待たずに
ひそかにかたい決意をするとき
すでに一途に待つてゐる私
残酷にもうつくしいひとよ
あなたは私のもつ不在を
いよいよ深くかなしくするばかりだ
【しゆんぎく】
ふしぎにやさしいあなたの声が
耳朶をすべり
私の目にひたととまる
夜が明けたばかりの露路の隅
すがれた春菊のひとむれ
ゆふべの風に倒された
土いろの茎のさき
思はず指にふれゝば
ひたむきなはかない期待
幼い興奮にゆれた幾十の蘂のあと
乳首ほどのほのあをい実を
大空を魔の走る音して
一瞬 渦を巻く黒髪
ふり乱して耐えた屈辱のごとく
いま 一心に耐へる
このたまゆらの幻
【霧】
信じやうと努力する
霧の中を歩み
やすらひ
歩む
冴えた空のみどりは
遠い日輪のかげに沈んだ
哀しみが
針のやうな熱さで心にあるといふのは
さいはいであらうか
それゆゑに
歩いてゐる
【鏡】
真夏の深緑
遠くに鳴る風の響き
をののく胸に
低く深き悠久の旋律がふれる
愛してゐるのだ
おゝ やはり愛してゐるのだ
空間の鏡は
今 神秘な風のどよめきに
一条の焔を映した
されど 焔を
みつめ得ぬ みつめ得ぬ悲しさ
風は遠く原始の境をさまよひ
宇宙の琴線にふれる
おろかなる をみなごよ
うつゝのゆめの青黒い焔は
むしばむやうに
こゝろの一隅を
焼き穿(ほじ)つてゐる