荒井徳太郎(あらいとくたろう)1913〜1932
富山県新湊町にて出生。1920年、滑川町の小學校入学。1921年3月 氷見第一小學校に轉校。同年7月 福岡小學校に轉校。1926年3月、同校首席にて卒業。4月、富山高等學校尋常科入學。級長を勤む。1930年3月、同首席にて終了。4月、同高等科文科乙類に入學。引續き級長を勤む。1932年12月1日 魚津町にて死亡。
『荒井徳太郎遺稿集』荒井徳太郎
【寂しい一夜】
冬の默謐(もくひつ)に何の不安ぞ
雪は降り、今宵も更ける。
惠まれない生活の喘(あえぎ)を
支那そばの爺は
この寒い街頭に
ラツパを吹いて濡れて行く。
それもいゝ
哀愁に濡れそぼちた
すべての絆はほつれ
悶(もだえ)なく歩む時
眞に冬の心………見果てぬ夢に
涙せらるゝのだ。
あゝ 孤獨と貧しさに泣く日
よべ 寒い火鉢を抱へて
巖(いかめ)しい雪の無音に
ジーツと耳傾ける私だつた。
【雲の峯】
なんて、いたいけな幸福感だらう
小さき魂よ。
彼の人細顫ふ聲でほのかに唱へば
私迄いつかな、口笛吹いて 影の長さ
穩な海に黄昏て 死ぬ程の戀しさに
私達は泣いた
その時も 雲の峰が
秋のセンチメンタルな幸福を含めて
私達の頬に照つた。
あゝ 秋晴よ續け
いつまでも いつまでも
この感傷をお前と共に味はひたい
そして彼の人を幸福にしてやりたいから。
―阿保の詩―
【孤影】
夜氣のひえびえする中を
街燈が刻む 私の孤影
寥寥!
おお!
此の街を貫らぬかうとする
此の街を切らうとする
寒々しい春のイデオロギー
世は此の夜分にも、一人の憂子を風に曝して
私は外套のえりをしかと合せる。
―阿保の詩―
【甲殻をつき破つて】
私は此の夜を潜行する かたつむり
その厚い甲殻をつき破つて
敏感なアンテナーで此の街を觸れようとする
かたつむり。
おゝ。
―阿保の詩―
【部屋】
(ソノ一)
私の部屋は思想の感光板、
壁紙を見給へ!
情熱の片々――あのひとの名前
唯美主義者――メナールの版画
化學者の卵――アボガドローの假設
私は亦あの幼き啄木が願つたといふ
陸軍大將の夢もあつたものだ。
(ソノ二)
西日を防ぐカーテンはいつも變らぬ母のいつくしみだが
唯私自身のおぼつかなさ。
(ソノ三)
夜更に何かを噛り廻る
餓えた ねづみたちよ、
一冊の詩集と新聞紙と塵芥の堆積の中に
汗くさい ふとんを敷いて
この夜目には蛇の腹のやうに
蒼黒い痩身を伏せて
これもデカダント
私は終日、天井裏のやもりをながめてゐる。
(ソノ四)
ハラバアルー!
突變よ! 來い。
この室から偉大な啓蒙が起つたであらう。
―阿保の詩―
【山吹】
山吹の花が咲いてゐる
雨は まがきを點々と黝(ぐろづ)ませて
この景色はおぼろな幻画のそれ、
めしひになつたら
この空氣の濕りと
ほのかな花粉の香は どうだか?
葉蔭に一匹の雨蛙がノドをびくつかせて
雨脚をみつめたまゝ じつとしてゐる、
同じ私達も からかさ さして。
―阿保の詩―
【月夜】
こんな晩だと 偏舟で あかるい大海原へでも乗り出して
一人で歌を唱つてゐたい。
いつまでも、
いつまでも、
こんなきれいな晩だと 歌はどれだけでもあるし
一人で 月を眺めるんだから
充分涙も流されやう
(世の中じや 涙も干上るんだよ)
―阿保の詩―
【初秋】
はや秋を感ずる心
朝の しめつぽい草むらで 蛙が仰向けに死んでゐた
それも一つの必然とすれば
ボク達の存在は 果して何だらう
×
朝の牛乳を飲みながら 口づけた瓶のつめたさ
ガラスよ
お前も 秋を知る
【うなされた感情】
山では白い狐がチツコをしてゐる
そして霜夜には チツコが氷る
すきすきに
一萬五千噸(トン)の船に乗つた夢に
俺はきんたまをひつゝかむ
うなされた感情
二十日ばかりの月が笑つてゐる
【のろし】
今迄燻つて來た生活が
ほつそりと曉ののろしを擧げてゐる
元朝
私達の家庭では一膳の雑煮に明るい
病院で看護婦をしてゐる若い叔母に
チヨコレートをおごらした笑顔
元氣な弟達
父親はひさびさにうたひを叱鳴(うな)る
母親は念佛を唱へる
さて私は――
思想のはざまで泣き澁つてゐた過去の灰汁を落して
今年は
果敢に突き進まう