県満天雄

県満天雄(あがたまんてんゆう)1906〜1922
県満天雄は縣佐吉の次男にして、1906年9月26日福岡市通町の邸に生る。
1908年の夏、母に供はれて父の任地満州に行く。居るとこ4年、1912年の秋一家揃って郷里福岡に帰へり、1909年の春上京す。
同年四月日本橋箱崎小学校に入学し、1910年居を麹町に移すと供に區内麹町小学校に轉じ1919年3月同校を卒業す。次いで明治中学に入り専心学事に勤む。
體質固より強健にして病気は家人の豫期する所にあらざりしも、1921月4日学校遠足の帰途雨に逢ひ悪寒を覚えて帰へり3週間病床に臥す。一旦治したるも6月再び木澤病院に入院そい間もなく平癒す。其の後学校に通ひしが體旣旣に昔の如くならず、同年11月9日医師に勧めに従ひ静かに病を南總北條の地に養ふ事となりたり。北條の風土はよく病體に適し漸次快方に向ひしが、元気に任せ、1922年6月路傍演説等に従事したるに因を発せしか、17日徳永氏家人に代はりて北條を訪ねし時迄は、あげて謂ふ可き變狀も見ざりしが、其後病は次第に更まり同年29日には愈危篤に瀕し館山病院に入院する事となりたり。入院後病態は胃腸より急性脳膜炎を起し意識全く不鮮明に至る。
7月1日報に接し家人一同北條に着きしも意識回復せず、刻々危険迫まり7月12日午前2時20分永眠す。

『狂恋の女』県満天雄(県左吉/1922)  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908337

【一日】
過ぎたる夏の深緑
心のカメラに寫されし
岸うつ男波はた女波
平和の叫びこの岸も
はや秋となり冬となり
夢のかさねる幾日か
北風寒く吹きまくる
沈み行く日を思ひつゝ